フアン・セバスティアン・ベロン
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フアン・セバスティアン・ベロン(フアン、ホアン・セバスティアン・ベローン、セバスチャン、Juan Sebastián Verón、1975年3月9日- )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス・ラ・プラタ出身のサッカー選手(アルゼンチン代表)。欧州の人気クラブ間を移籍しつづけ、日本でもファンが多い選手である。彼のトレードマークとも言えるスキンヘッドで、ピッチ上の彼を見つけることは容易い。2004年3月にはペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選出された。幼少時は荒んだ時期もあったが、サッカー選手として成功を収めてからは故郷に学校を設立するなどの慈愛に溢れた側面も見せる。通称はセバス (Sebas)、セバ (Seba)、愛称はブルヒータ(La Brujita = 小さな魔法使い)。家族は妻マリア・フロレンシア・ベナシア、娘イアラ、息子ダミアン。186cm/80kg。
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[編集] プレイスタイル
世界最高レベルとも言える右足の正確なパスでチームの攻撃を組み立てるゲームメーカー(ミッドフィールダー)。キックの種類は実に多彩で正確なフリーキックやミドルシュート、時折見せるトリッキーなパスやダイレクトプレイなど、豊富なプレイの幅が敵を欺き、見ている者も楽しませる。また、スタミナもあり豊富な運動量で中盤のあらゆる場所に出現する。また、利き足の右足しかほとんど使わないことが多い。どの位置でどんな状態であっても、アウトサイドやインフロントでのキックを使いこなす。唯一と言っても良い弱点としては守備意識の低さを挙げることができる。
[編集] 魔法使いの子
セバスティアンの父ラモンもまた、かつてアルゼンチン代表の名プレイヤーであった。ラモンもテクニックに優れる選手であり、ファンからはブルッハ(La Bruja = 魔法使い)の愛称で親しまれていたのである。その才能を確実に受け継いだ息子もそれにちなみブルヒータ(La Brujita = 小さな魔法使い)と呼ばれる。また、アルゼンチンでファンが彼に対して送る応援歌も父のそれと同じく、魔法使いの魔法を期待するものである。
[編集] 略歴
- 3月9日 アルゼンチン、ブエノスアイレスのラ・プラタに生まれる。
- 198?年
- 不良少年であったベロンは自動車泥棒などの悪事をもしている。
- 地元のクラブであり、かつて父ラモンも在籍した、エストゥディアンテス・ラ・プラタでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。
- 1993-1994シーズン、プロ1年目はわずか7試合の出場に留まる。
- 1994-1995シーズンはチームのレギュラーとなり主力として活躍を見せる。
- 同じブエノスアイレスに本拠地を構える、アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズに移籍。ここでも優れた活躍を見せる。
- 6月20日 対ポーランド戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。
- アトランタオリンピックにアルゼンチン代表として参加。銀メダル獲得。
- 彼の活躍は欧州でも知られるところとなり、イタリア・セリエAの名門サンプドリアへ移籍。ボカ・ジュニアーズで過ごしたのはわずか17試合のみである。
- フランスW杯。アルゼンチンの中心選手としてプレイ。アルゼンチンの全5試合にフル出場。ベスト8進出に貢献する。
- 同じセリエAのパルマへ移籍。当時のパルマは1990年代後半より積極的な戦力補強を進め、イタリアの新勢力としての地位を固めつつあった存在である。また、当時のパルマにはこの後ベロンと同じアルゼンチン代表選手であり、同じクラブを渡り歩くことになるエルナン・クレスポが在籍している。
- 1998-1999シーズンのパルマはコッパ・イタリアとUEFAカップの2冠を達成。ベロンはチームの中心として偉業の達成に大きく貢献する。
- 1998-1999シーズンオフには、さらなる強豪ラツィオへと移籍することになる。パルマで過ごしたシーズンも短かったが充実した1年である。
- ラツィオは、前年度UEFAカップウィナーズカップ王者として、UEFAスーパーカップに出場。これに勝利しタイトルを獲得。
- 1999-2000シーズン、ベロンは大きな活躍を見せ、ラツィオはセリエAとコッパ・イタリア優勝の2冠を飾る。さらには、イタリア・スーパーカップのタイトルも獲得。この活躍でベロンは世界でもっとも優れたミッドフィールダーの1人としての地位を確かなものとした。
- 1999-2000シーズンオフ、ラツィオはエルナン・クレスポを獲得。ベロンとは2度目のチームメイトである。
- イタリア市民権を得るために、偽造パスポートを使用したという疑惑が浮上。しかし、最終的にサッカー連盟は無実を認定した。
- 7月 イングランドのマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。その移籍金はイングランド史上最高の2810万ポンド(約50億円)であったといわれる。移籍当初は怪我や異国でのプレイスタイルの違いもあったのか、なかなかこれまでのような活躍をできずにすごす。
- 日韓W杯。ベロンは優勝を期待されるアルゼンチン代表のキャプテンとしてこの大会に臨んだが、結果は期待はずれのグループリーグ敗退に終わる。
- 2002-2003シーズン、マンチェスター・ユナイテッドでFAプレミアリーグ優勝。しかし、ベロンはこのシーズンも彼本来の実力を発揮してはいない。
- 2002-2003シーズンオフに同じイングランドのチェルシーへ移籍。チェルシーはこの年、ロシア人の大資産家ロマン・アブラモヴィッチがオーナーに就任し、金に物を言わせた補強政策をとっている。また、エルナン・クレスポもチェルシーに引き抜かれベロンと3度目のチームメイトとなる。このシーズンも怪我に悩まされ、相棒のクレスポもいまひとつ活躍できず、次のシーズンには移籍することとなる。
- 2002-2003シーズンオフにイタリア セリエAのインテルへ移籍(レンタル移籍)。ちなみにエルナン・クレスポはインテルの最大のライバルであり同じミランに本拠地を置くACミランへと移籍、3度に渡るかつての盟友はライバルとなる。
この頃から故障による欠場が目立つようになる。
- 6月 プロサッカー選手としてのキャリアをスタートしたエストゥディアンテス・ラ・プラタに復帰。12月、アルゼンチン前期リーグ優勝を果たす。チームの23年振りの国内リーグ優勝の大きな原動力となった。
[編集] 所属チーム
- 1993-1995 エストゥディアンテス・ラ・プラタ (ARG)
- 1995-1996 エストゥディアンテス・ラ・プラタ (ARG) → ボカ・ジュニアーズ (ARG)
- 1996-1998 サンプドリア (ITA)
- 1998-1999 パルマ (ITA)
- 1999-2001 ラツィオ (ITA)
- 2001-2003 マンチェスター・ユナイテッド (ENG)
- 2003-2004 チェルシー (ENG)
- 2004-2006 インテル(ITA)
- 2006- エストゥディアンテス・ラ・プラタ (ARG)
※ ARG=アルゼンチン、ITA=イタリア、ENG=イングランド
[編集] 代表歴(国際大会)
- 1996年 アトランタオリンピック (チーム成績:銀メダル)
- 1998年 フランスW杯 5試合出場1得点(チーム成績:ベスト8)
- 2002年 日韓W杯 3試合出場0得点(チーム成績:グループリーグ敗退)
代表通算キャップ:58試合 得点:9得点
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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