プレーオフ制度 (日本プロ野球)
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日本のプロ野球における、プレーオフ制度(プレーオフせいど)について解説する。
2007年から導入される「クライマックスシリーズ」および、2006年までセントラル・リーグ、パシフィック・リーグのそれぞれで導入されていたプレーオフ制度について述べる。
目次 |
[編集] クライマックスシリーズ
2006年9月4日のプロ野球実行委員会において、2004~06年にパ・リーグで行われていたプレーオフの方式を踏襲し、両リーグとも3位対2位で3回戦2勝制による準決勝、勝者が1位との5回戦3勝制の決勝戦を行うことで日本シリーズのリーグ代表を決定する方式、いわゆるポストシーズンの導入が決定した。
従来のパ・リーグ方式では順位の入れ替えが行われたが、順位の入れ替えは行われず、リーグ優勝はレギュラー・シーズン1位チームとなる。よって、ドラフトの指名順はレギュラーシーズンの順位を基準に行われることになった。2006年のパ・リーグのプレーオフで採用された、リーグ優勝チームに対する決勝戦(シリーズ出場チーム決定戦)でのアドバンテージは行わない。
大会名は一般公募の結果、応募総数1948件(メール1438件、ハガキ510件)の中から 「クライマックスシリーズ」(Climax Series)と決定し(→詳細)、リーグ別の呼称についてはセ・リーグを「クライマックス・セ」、パ・リーグを「クライマックス・パ」とすることが決まった。なお、ポストシーズンゲームトーナメント全体の決勝戦、すなわち「クライマックス・セ」の勝者と「クライマックス・パ」の勝者との試合はクライマックスシリーズの呼称には含まれず、従来の日本シリーズの呼称を用いる。
一番の心配はレギュラーシーズン・1位球団からの苦情が有るかどうかであろう。パ・リーグに導入された元年の2004年と2年目の2005年に2年連続で1位だった福岡ソフトバンクホークス(旧・福岡ダイエーホークス)がこのクライマックスシリーズで日本選手権シリーズ進出を逃したことから、こんなシリーズを止めろ!と言う声が多数寄せられ、2位・3位だった球団からも批判の声が出るほどだった。
[編集] 過去のプレーオフ制度
[編集] 1リーグ時代
- 1リーグ時代は現在のような1年1ステージによる長期戦形式ではない時代があり、その年優勝等をかけたプレーオフが行われた。
- 1936年の場合、春季大会は東京巨人軍はアメリカ遠征のため不参加、また名古屋金鯱軍も結成記念リーグ大会を終えるとアメリカに遠征したため、公式戦でありつつ優勝チームを決めなかったが、夏季大会では東京、大阪、名古屋の3大都市でのトーナメント戦で優勝したチームによるプレーオフが予定されていた。しかし、会場の調達が出来なかったため、優勝預かりとなっている。
- 同年秋季リーグは3大都市での総当りリーグ5回、トーナメント2回の都合7大会それぞれのトップ賞だったチームに勝ち点1(複数均等割り)を与え、その合計勝ち点の多いチームがリーグ優勝となる。だが、東京巨人軍と大阪タイガースが勝ち点2.5ずつを分け合ったため、3戦2勝制の同点決勝を行い、2勝1敗で制した東京巨人軍が最初のチャンピオンに輝いた。
- 一方1937年と1938年は春季・秋季の2ステージで争い、1937年は春季が東京巨人軍、秋季は大阪タイガース、1938年は春季が大阪タイガースの連覇、秋季は東京巨人軍がそれぞれ優勝して、それぞれ大リーグのワールドシリーズの方式に倣った7戦4勝制による年総合優勝決定戦を開催。それぞれ4勝2敗、4連勝で東京巨人軍を下した大阪タイガースが日本一の座に就いたが、この2年間は春季・秋季のそれぞれのステージが独立したシーズンの扱いと見なされていたため、ステージ優勝に関しては通算の優勝回数にカウントされているが、年間チャンピオンはノーカウントとなっている。
[編集] パシフィック・リーグ
[編集] 1952年
予選リーグは7チームの18回総当り(1チーム108試合)を行い、上位4チームが決勝リーグとしてさらに4回総当り(同12試合)を実施。上位4チームの成績は予選と決勝の総合成績で決定したが、下位3チームとの成績を単純に比べられないこと、さらに「下位球団の切り捨てだ」という批判が出たことにより、1年で廃止された。決勝リーグも公式戦に含まれるため、厳密にはプレーオフではない。
[編集] 1973~82年
人気低下などプロ野球再編問題に伴って導入された年間26回総当り(同130試合)を前・後期各13回ずつ(65試合)に区切り、それぞれのステージ優勝を決める。前期と後期でステージ優勝チームが異なる場合、5戦3勝制による優勝決定戦を開催した。ホームゲームに関しては、第1・2戦は前期1位チーム、第3-5戦は後期1位チームのそれぞれのホームスタジアムで行った。なお同一チーム完全優勝の場合は施行しなかった。年間順位はプレーオフの勝者が1位で、2位以下は前後期通算の勝率順とした。このため、プレーオフに負けたチームがプレーオフに出場しなかったチームの前後期通算勝率を下回り、年間順位が3位になったこともあった。
[編集] 1983~85年
年間26回総当り(同130試合)を行い、1位と2位のゲーム差が接近した場合(5ゲーム差以内)に、最大5試合のプレーオフを含めた変則1シーズン制を採用(勝率はそのプレーオフ開催分を合わせたもので計算)したものの、この3年間の優勝チームがすべて5ゲーム差を超える独走だったので実際には行われず「幻のプレーオフ」といわれる。
[編集] 2004~06年
年間27回総当り(同135試合)のレギュラー・シーズン(2005・06年は年間20回総当り(同100試合)とセントラル・リーグとの交流試合(同36試合)の合計136試合)の上位3チーム(Aクラスを確保したチーム)がプレーオフに進出。2004・05年と2006年では方式に違いがあるので、ここでは2004・05年の方式を記し、2006年の変更点については後述する。
[編集] 基本方式
- 第1ステージ - レギュラー・シーズンの2位と3位が3戦2勝制で対戦。
- 第2ステージ - 第1ステージの勝者とレギュラー・シーズンの1位チームが5戦3勝制で対戦しリーグ優勝を決める。但し、1位チームがレギュラー・シーズンで第1ステージの勝者に5ゲーム差以上つけていた場合、1位チームには1勝分のアドバンテージが与えられる。
- 試合の興行権利は第1ステージではレギュラー・シーズンの2位チームが、第2ステージでは1位チームが全試合獲得する。
- 延長は12回までの引き分け制が採用されるが、成績がタイの場合(第1ステージでの1勝1敗1分けや第2ステージでの2勝2敗1分けなど)は対戦チームのレギュラー・シーズン成績上位チームが勝ち抜けとなる。
- 年間順位は1位が第2ステージの勝者で、2位以下は残りチームを勝率順に並べる。
- これにより優勝チーム以外はプレーオフの成績による年間順位の変動はない。レギュラー・シーズンの3位チームが第1ステージを勝ちあがって(2位チームを負かして)第2ステージに進んでも、そこで敗退すれば年間順位は2位ではなく3位として扱われる(実例:2006年の福岡ソフトバンクホークス)。
[編集] 例外
- レギュラー・シーズン1位のチームが2チームある場合は第1ステージは行わず(3位チームのプレーオフ出場なし)、1位の2チームで第2ステージのみを行う。
- この場合の興行権利は前年のレギュラー・シーズン成績上位のチームが全試合獲得する。
- このケースで第5戦が終わって成績がタイの場合、第5戦の翌日に延長無制限で第6戦を行う。
- レギュラー・シーズン2位のチームが2チームある場合当該2チームで第1ステージを行う。
- この場合の興行権利は前年のレギュラー・シーズン成績上位のチームが全試合獲得する。
- このケース第3戦が終わって成績がタイの場合、以下の順番で第2ステージ進出チームを決定する。
- 当該チーム間のレギュラー・シーズンの対戦成績
- 勝率1位チームとの対戦成績
- 交流試合を除いたリーグ戦成績
- 勝率1位のチームが1チームのみで、勝率3位チームが2チームある場合は前年レギュラー・シーズン成績上位チームの本拠地で3位決定戦を延長無制限で行い、第1ステージ進出チームを決める。
[編集] 変更点
2004・05年のレギュラー・シーズンの1位はともに福岡ソフトバンクホークス(2004年は福岡ダイエーホークス)だったが、両年とも2位とのゲーム差は4.5と、あと0.5ゲームの差で1勝のアドバンテージがつかなかったことが災いし、第2ステージは2回とも2勝3敗で敗退。このため、1位通過チームと1stステージ勝利チームとの不公平性などが内外で議論を呼んだ。また、2004・05年ともに第1ステージ勝利チームが日本一となったことで、セ・リーグ優勝チームとの不公平性も議論された。(この詳細については2004-2006年のパ・リーグのプレーオフに関する議論で論点を参照のこと)
この結果、2006年シーズンでは以下の変更が行われた。
- 第2ステージでは、レギュラー・シーズン1位チームに無条件で1勝のアドバンテージが与えられる。このため、第2ステージは4戦制となった。なお、使用球場は第1・2戦がレギュラー・シーズン1位チームの本拠地、第3・4戦が第1ステージ勝者の本拠地。
- レギュラー・シーズンと同様に予告先発が設けられる。
また、レギュラー・シーズンでの順位が同率となった場合、以下の順番で順位を決定することになった。
- 当該チーム間の対戦成績
- 前年の順位
これにより、2004・05年の方式における「例外」は以下のように変わった。
- 勝率1位チームが2チームある場合、上の方式により1位と2位を決め、2位と3位で第1ステージを行う。
- 勝率2位・3位のチームが2チームある場合も同様に順位の上下を決めるので、2位同士の第1ステージや、3位同士での3位決定戦は廃止された。
なお、2007年からこの形式を模し、セ・パ両リーグでクライマックスシリーズ(後述)が開始されることが決定し、2004年からパ・リーグのみで行われたプレーオフ制は3年間で終了となった。
[編集] セントラル・リーグ
- 2001年から制度化されているが、これまで実施されたことはない。プレーオフの開催条件としては勝ち星と勝率でそれぞれ異なるチームが1位となった場合に3戦2勝制で優勝決定戦を行う。
- 但し2001年は勝ち星の数を優先したので、シーズン中は多く試合を消化してきたチームが上位になる不具合が生じ、またファンも順位表を確認する際に混乱をきたしたので、2002年からは勝率優先に戻して勝率と勝星で1位が異なる場合だけプレーオフをする形にした。但し、勝星が多くても勝率3位以下だとプレーオフの出場資格を失い、勝率1位チームの優勝となる(この場合でも、勝星で勝率2位チームを下回った場合はプレーオフを行う)。また勝率が並んだ場合は勝ち星の多いチームの優勝とする。
- クライマックスシリーズの導入に伴いこの規定も見直される可能性がある。
[編集] 戦績
[編集] 1973~1985年のパ・リーグ
年 | 開催球場 | 勝利チーム | 成績 | 星取表 | 敗戦チーム |
---|---|---|---|---|---|
1973年 | 大阪、西宮 | 南海(前) | 3勝2敗 | ○●○●○ | 阪急(後) |
1974年 | 仙台宮城、西宮 | ロッテ(後) | 3勝0敗 | ○○○ | 阪急(前) |
1975年 | 西宮、藤井寺 | 阪急(前) | 3勝1敗 | ●○○○ | 近鉄(後) |
1976年 | 前後期とも阪急完全優勝によりプレーオフ行わず | ||||
1977年 | 西宮、仙台宮城 | 阪急(前) | 3勝2敗 | ○●●○○ | ロッテ(後) |
1978年 | 前後期とも阪急完全優勝によりプレーオフ行わず | ||||
1979年 | 大阪、西宮 | 近鉄(前) | 3勝0敗 | ○○○ | 阪急(後) |
1980年 | 川崎、大阪 | 近鉄(後) | 3勝0敗 | ○○○ | ロッテ(前) |
1981年 | 川崎、後楽園 | 日本ハム(後) | 3勝1敗1分 | ○△○●○ | ロッテ(前) |
1982年 | 西武、後楽園 | 西武(前) | 3勝1敗 | ○○●○ | 日本ハム(後) |
1983年 | 1位西武が2位と5ゲーム差以上(17)によりプレーオフ行わず | ||||
1984年 | 1位阪急が2位と5ゲーム差以上(8.5)によりプレーオフ行わず | ||||
1985年 | 1位西武が2位と5ゲーム差以上(15)によりプレーオフ行わず |
※「開催球場」は、前者は第2戦まで、後者は第3戦以降の開催球場
[編集] 2004~2006年のパ・リーグ
年 | ステージ | 開催球場 | 勝利チーム | 成績 | 星取表 | 敗戦チーム |
---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | 1st | 西武ドーム | 西武(2位) | 2勝1敗 | ○●○ | 日本ハム(3位) |
2nd | 福岡ドーム | 西武 | 3勝2敗 | ●○○●○ | ダイエー(1位) | |
2005年 | 1st | 千葉マリン | ロッテ(2位) | 2勝0敗 | ○○ | 西武(3位) |
2nd | ヤフードーム | ロッテ | 3勝2敗 | ○○●●○ | ソフトバンク(1位) | |
2006年 | 1st | インボイス西武 | ソフトバンク(3位) | 2勝1敗 | ●○○ | 西武(2位) |
2nd | 札幌ドーム、(ヤフードーム) | 日本ハム(1位) | 3勝0敗 | ○○ | ソフトバンク |
※カッコ内はレギュラーシーズンの順位。
※2006年の2ndステージは1位チーム(日本ハム)に1勝のアドバンテージが与えられた。また、第1戦・第2戦を札幌ドーム、第3戦・第4戦をヤフードームで開催することになっていたが、2戦で終了したためヤフードームでの対戦は行われなかった。
[編集] プレーオフ寸前まで行ったケース
2005年まで、日本のプロ野球において勝率(勝ち星)が全く同じによる同点決勝や、勝率1位球団と勝利数1位球団による決勝(セ・リーグのみ)に持ち込まれたケースは1度もない。しかしこれに近かったケースは何回かあった。
[編集] 1946年
- この年はグレートリングが65勝37敗2分け(勝率.637)、巨人が64勝38敗2分け(勝率.627)で最終戦を迎えることとなったが、巨人が勝ってグレートリングが敗れると65勝38敗2分け(勝率.631)で並ぶため、プレーオフが実施されることになっていた。しかし巨人がセネタースに敗れたため、グレートリングが中部日本戦を待たずに球団史上初の優勝を決めた。
パシフィックは、この年戦前からの既存チームでプレーしていた白石敏男(元巨人)と藤井勇(元阪神)を入団させたが、両選手の帰属を巡って巨人と阪神が提訴し連盟が調査中だった。その最中にも拘らず試合に出場させたとして没収試合を4試合経験した。これによりパシフィックがグレートリングからあげた1勝が負け扱いされた。これがパシフィックの負け扱いにされていなければグレートリングの最終成績は64勝39敗2分け(勝率.621)で巨人と同率となり、プレーオフが実施されていたことになる。
[編集] 1952年のパ・リーグ
- この年は予選リーグ18回+上位4強決勝リーグ4回の通算成績で優勝を争うという変則的なリーグ戦だったが、南海と毎日が同勝率でシーズン終了となる可能性があった。120試合を終了した時点で、南海は75勝44敗1分け(勝率.630)、一方毎日は75勝45敗0分け(勝率.625)で本来なら南海優勝であるが、順位決定に際して「最終順位の変動をきたす恐れのある試合は再試合を行う」という取り決めから、このシーズン南海が唯一引き分けた大映との間で再試合を行うことになった。
仮に南海がこの試合に敗れた場合、南海・毎日とも75勝45敗(勝率.625)で並んでしまい、優勝決定戦に持ち越される可能性があったが、南海がこの大映戦を制してパ・リーグ初の2連覇を飾った。
[編集] 1963年のパ・リーグ
- この年は、序盤から独走だった南海と西鉄が熾烈な優勝争いを繰り広げ、10月中旬の時点でも優勝チームが決まらず、西鉄が残り4試合の時点で南海は85勝61敗4分け(勝率.582)でシーズンを終了。
82勝60敗4分け(勝率.577)の西鉄は残り4試合全てが近鉄とホーム・平和台野球場での対戦であり、4試合の成績で1敗1分けまたは2敗ならば南海の優勝、3勝1敗ならばプレーオフ(3試合2勝制)、3勝1分けまたは4連勝ならば西鉄の逆転優勝という状態になったが、西鉄は執念で4連勝を飾り、日本プロ野球史上に残る大逆転優勝を決めた。
[編集] 1966年のパ・リーグ
- この年は10月6日に首位の南海が79勝51敗3分け(勝率.608)で全日程を終えたが、同日時点で2位の西鉄が75勝51敗8分け(勝率.595)でまだ逆転優勝の可能性を残しており、残り4試合に西鉄が全勝すればプレーオフという状況だった。しかし西鉄は初戦となる10月9日の東映戦に1-2で敗れ、南海のパ・リーグ3連覇が決まった。
[編集] 1968年のパ・リーグ
- この年は2連覇を目指す阪急と2年ぶりの王座奪回に燃える南海がともに残り1試合の段階で79勝50敗(勝率.612)で並んでいた。最終戦はともに10月11日で、阪急が西宮での東京戦、南海が日生での近鉄戦で、両チームの最終戦の結果が同じだった場合にプレーオフが行われる可能性があった。
まず先に始まった西宮で阪急が9回裏に矢野清のタイムリーで同点に追いつき、延長11回に矢野が今度はソロ本塁打を放ち、東京に3-2とサヨナラ勝ち。気の早い阪急ナインはこの時点ではまだ優勝が決定していないにもかかわらず西本幸雄監督を胴上げしたが、西宮の試合が終わった8分後に日生で南海が近鉄・鈴木啓示を打ち崩せず敗れ、阪急がリーグ2連覇を達成した。
[編集] 1991年のセ・リーグ
- この年は一時阪神を除いた5球団が24勝・2ゲーム差以内にひしめくという混戦から広島と中日が抜け出したが、9月30日時点で68勝48敗2分け(勝率.586)の広島を、中日が3ゲーム差(67勝54敗1分け、勝率.554)で追いかける展開となっていたものの、前年から引き分け再試合制度が導入され、しかもまだ直接対決を6試合残していたため、その後の成績如何では広島と中日が同率でシーズンを終える可能性が残っていた。しかし、10月3日からの直接対決2連戦で広島が連勝して優勝に大きく前進。9日からの直接対決2連戦も1勝1敗で乗り切った広島が13日の阪神戦(ダブルヘッダー第2試合)で優勝を決めた。
[編集] 1992年のセ・リーグ
- この年は同リーグで最もプレーオフに近かったケースである。10月になってもヤクルト・阪神・巨人・広島の4チームに自力優勝のチャンスがあるという異例の大激戦となり先の読めない展開が続いたが、まず広島が脱落した。
この時点ではヤクルト・阪神・巨人の3チームが同率で並ぶ可能性が残されていた。そこで、セ・リーグ史上初の事態に備えるため、1回目の「プレーオフ委員会」が招集され、2チーム同率のときは3戦2勝制のプレーオフ、3チーム同率のときは1試合ずつ対戦相手を変えて2敗したチームが脱落、2チームが脱落するまで繰り返す「三つ巴戦方式」(大相撲の巴戦とは条件が異なる)のプレーオフを行うことがまず決定された。その後巨人が脱落し、3チームプレーオフの可能性はなくなった。
この時点で生き残ったのは阪神とヤクルトの2チームであるが、この2チームは9月に延長15回引き分け・6時間26分の最長時間試合を戦っており、当時の大会規定である引き分け再試合を含め残り2試合の甲子園直接対決に委ねられた。この時、ヤクルトが1勝すればリーグ優勝決定。阪神は2連勝してプレーオフに持ち込まない限り優勝の道がなかった。というのも、2連戦に入る前の成績がヤクルト68勝60敗1分け(勝率.531)、阪神が66勝62敗1分け(勝率.515)で、阪神が連勝(=ヤクルトが連敗)した場合の成績がともに68勝62敗1分け(勝率.523)で並んでしまうからだ。
そこで2回目の「プレーオフ委員会」が招集され、「3戦2勝制とし、第1試合は甲子園、第2試合は神宮とそれぞれのホームで1試合ずつこなし、もし1勝1敗の場合の決勝戦=第3試合、あるいは雨天中止の予備会場は日本シリーズが10月17日開催に迫っていることなどを踏まえ、東京ドームを借りて行う」という取り決めが定められた。しかしその2連戦の最初の試合でヤクルトが勝ちリーグ優勝。セ・リーグ初のプレーオフは行われなかった。
[編集] 1994年のセ・リーグ
- この年は巨人が独走し8月18日に早くもマジック25を点灯させ、24日には中日に9.5ゲーム差をつけたが、翌日からの20試合で4勝16敗と急失速。この間を14勝7敗で乗り切った中日に、9月末の時点で66勝59敗(勝率.528)と並ばれてしまった。残り試合はともに5試合。10月1日・2日はともに白星を重ねたが、4日のヤクルト戦で中日が1-4で敗れ、翌5日には巨人がヤクルトに6-0で勝った。このため巨人が6日のヤクルト戦で勝ち、中日が6日の阪神戦と8日の巨人戦に連勝して、両チームがともに70勝60敗(勝率.538)でシーズンを終了するか、あるいは巨人が6日のヤクルト戦で負け、中日が6日の阪神戦に負けて8日の巨人戦に勝ち、両チームがともに69勝61敗(勝率.531)でシーズンを終了するかで、プレーオフに持ち込まれる可能性が出てきたため、セ・リーグは臨時のプレーオフ委員会を開催した。
しかし、6日の試合で中日は阪神に10-2で勝ったものの巨人がヤクルトに2-6で敗れた結果、残り1試合で両チームが69勝60敗(勝率.535)で並んだため、8日の直接対決が雌雄を決する一戦となり、プレーオフは実現しなかった(当時は引き分け再試合制度があったため、両軍が8日の対決で引き分けた場合、再試合が実施されることになっていた)。なお最終戦は6-3で巨人が勝利した。
[編集] 1996年のセ・リーグ
- この年は序盤から広島が独走したが、7月6日の時点で11.5ゲーム差をつけられていた巨人が猛烈な追い上げを見せ、10月5日の時点で残り2試合で75勝53敗(勝率.586)とし、優勝に王手をかけていた。しかし、巨人と同じく猛烈な追い上げを見せた中日は、同日現在残り3試合で72勝55敗(勝率.567)であり、直接対決も2試合残っていた(つまり、巨人の残り2試合はともに中日戦であった)ことから、中日が残り3試合に全勝すれば両チームが75勝55敗(勝率.577)で並ぶため、プレーオフが実施されることになっていた。しかし、巨人が10月6日の直接対決第1ラウンドに勝利して優勝を決めメークドラマを完結、プレーオフは幻となった。
[編集] 2001年のセ・リーグ
- セ・リーグではこの年から勝利数1位球団と勝率1位球団が異なる場合はプレーオフを開催することになった。このため新聞紙上では勝率1位が確定した時に0になる「勝率1位決定マジック」と勝率1位と勝利数1位が確定した時に0になる「優勝決定マジック」の2つが登場したが、勝率1位決定マジックが0になったのに優勝決定マジックが0にならなかった場合にプレーオフが開催されることになる。
その初年となった2001年は巨人が75勝63敗2分け(勝率.543)でシーズンを終えたが、ヤクルトは10月4日時点で74勝55敗6分け(勝率.574)であった。この時点でヤクルトは5試合を残していたが、仮に残り5試合に全敗すると74勝60敗6分け(勝率.552)となり、ヤクルトの勝率1位は決まっていたが勝利数では依然巨人が上回るため、ヤクルトが残り5試合で1勝もできなかった場合にプレーオフが実施されることになっていた。しかしヤクルトは10月6日に横浜を下して優勝を決め、プレーオフは実施されなかった。
2001年の順位決定は勝率ではなく勝ち星を優先し、勝ち星が同じ場合は勝率順で決定していたが、ファンから不評を買ったため2002年から元の勝率優先に戻した(但し前述した勝ち星1位ながら勝率3位以下のチームが優勝できないシステムに変更された以外、プレーオフ制度の変更はしていない)。
[編集] 2005年のセ・リーグ
- この年は9月8日時点で阪神が72勝49敗5分け(勝率.595、残り20試合)で首位にいたが、中日も69勝52敗1分け(勝率.570、残り24試合)で追っており、成績如何では阪神が勝率1位となっても中日が勝利数1位でシーズンを終える可能性があった。そのため、プレーオフ委員会が9月9日と15日に開催され、10月15日から17日まで1回戦甲子園、2回戦以降ナゴヤドームという日程で開催されることが決定した。しかし9月10日に阪神に勝率1位決定マジック15、13日に優勝決定マジック13が点灯。29日に阪神の優勝が決まり、セ・リーグ初のプレーオフはまたも幻となった。