ボリス・リャトシンスキー
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ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキー(ウクライナ語:Борис Миколайович Лятошинський, Boris Lyatoshynsky, 1895年1月3日 ジトーミル - 1968年4月15日 キエフ)はウクライナの作曲家・指揮者・音楽教師。20世紀のウクライナ音楽界の基礎を築いた。初期にはスクリャービンの影響を受け、拡張された調性によるピアノ曲や室内楽曲を書いていたが、成熟期にスターリンの治世を迎えると、国民楽派の伝統に結びついた愛国的な交響楽を作曲するようになった。それでもなお半音階的で重厚な響きを好み、晦渋な作風をとっていた。門人に、ヴァレンティン・シルヴェストロフやオスヴァルダス・バラカウスカスら、ソ連崩壊後に西欧で認知されるようになった現代音楽の作曲家がいる。
[編集] 生涯
教師の家庭に生まれ、早くも少年時代からピアノとヴァイオリンの学習を始める。1910年ごろに、地元の音楽家の手引きで最初の作曲を行う。1913年に高等教育を終えると1914年から1918年までキエフ大学法学部に在籍するかたわら、キエフ音楽院でレインゴリト・グリエールに作曲を師事。グリエールとは生涯にわたる親交を結び、グリエールの没後に旧師の遺作の《ヴァイオリン協奏曲》作品100を完成させている。
1920年にキエフ音楽院の教員に迎えられ、1935年に作曲と管弦楽法の教授に就任した。1935年から1938年まで、また(サラトフに疎開後の)1941年から1943年までの間、モスクワ音楽院でも教壇に立っている。シルヴェストロフはこの時期の門人である。1956年から「ソ連作曲家同盟」の指導的地位についた。
[編集] 作風
リャトシンスキーが手懸けた作品のうち、とりわけ2曲の歌劇と5つの交響曲、管弦楽組曲、演奏会用序曲、交響詩、ピアノ協奏曲、室内楽曲(4つの弦楽四重奏曲、2つのピアノ三重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ)、ピアノ曲、劇付随音楽、合唱曲、カンタータ、映画音楽が知られる。
リャトシンスキーの作品は、最初はロシア国民楽派の伝統(とりわけボロディンとチャイコフスキーの影響)を受け入れたが、アレクサンドル・スクリャービンの音楽語法のうち和声法やリズムの面から影響を受けるようになった。1920年代までに西欧の前衛音楽の影響を受け入れ、しだいに無調や複調による書法をとりいれた。1929年以降はふたたび和声的に単純な作曲法を採るようになり、ウクライナやロシア、ベラルーシ、ポーランドの民族音楽を綜合的に取り入れるなど、汎スラヴ民族主義の方向を強めた。《交響曲 第2番》(1935-36年)はソヴェト当局の不興を買い、その後の改訂にもかかわらず、ようやく1964年になって初演が行われた(ショスタコーヴィチの《交響曲 第4番》がたどった運命を連想させる)。それでもリャトシンスキーは数多くの栄誉を受けており、ソ連国家賞を3度授与された。