上原謙
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上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日、本名 池端 清亮(いけはた きよあき))は、日本の俳優。戦前戦後の映画界を代表する天下の二枚目スター。
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[編集] 来歴・人物
東京市牛込区納戸町の職業軍人の家に生まれる。父親は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。成城学校(新宿区原町)卒業後、1929年に立教大学入学、学生時代は大学内のオーケストラでトランペットを吹き活躍する。1933年、松竹蒲田の新人公募の広告に学友が無断で上原の写真を送り、その美男子ぶりから見事採用される。
1935年に大学を卒業後、松竹に入社し、新人作りの名手清水宏監督の「若旦那・春爛漫」でデビュー。次の「彼と彼女と少年達」(清水)で早速、主役を務め、この映画に共演した桑野通子とはアイアイ・コンビとファンから呼ばれ人気を博す。続いて、「恋愛豪華版」(清水)で従来にはなかった清新な若者像をつくり、1936年に清水の代表作となる「有りがたうさん」に人のいいバス運転手役で主演、順調なスタートを切る。しかし、この年に兵役となり台中で軍隊生活を送るが、原因不明の発熱で除隊となる。またこの同じ年に女優の小桜葉子と結婚、当初、小桜との結婚は松竹大船撮影所所長の城戸四郎に反対されるが、結局は上原の強情さに城戸が折れる形となった。しかし、小桜の踊りの師匠だった大女優の栗島すみ子は最後までこの結婚を喜ばず、栗島の稽古場に結婚の挨拶に来た上原を門前払いして以来、険悪な仲だった。翌年には長男加山雄三をもうける。
五所平之助監督の「新道」で佐分利信、佐野周二と初共演し、三人で松竹三羽烏を結成、1937年にこれを前面に押し出した島津保次郎監督の「婚約三羽烏」が大ヒットする。またこの頃、佐分利、佐野の他にも、徳大寺伸、近衛敏明、夏川大二郎と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会8クラブを結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。続く「浅草の灯」(島津)でオペラ歌手を演じ好評となり、自他共に認める戦前の代表作となった。この他にも島津作品では「せめて今宵は」「男性対女性」「朱と緑」に出演、そして1938年、川口松太郎原作、野村浩将監督のメロドラマ「愛染かつら」の津村浩三役で田中絹代と共演、霧島昇とミス・コロンビアが歌う主題歌「旅の夜風」共に、空前の大ヒット作となる。
しかし、上原自身はこの映画を自分の出演作の中で最も嫌いな映画と明言していて、当初、この映画の脚本を読んだ時、その理屈では到底考えられないような展開にばかばかしくなり、役を降りようとさえ思ったという。その後、続編も作られる程、この映画で上原の人気はさらに高まったが同時に役柄も制限されるようになり、良くも悪くも「愛染かつら」は俳優・上原謙の代表作といえる。1940年に吉村公三郎監督の「西住戦車長伝」では戦車隊長に扮して国策映画ながらも人間的側面を見せ、1943年の木下恵介の監督デビュー作で劇作家・菊田一夫の戦前の代表作である「花咲く港」で東北弁丸出しの軽妙なペテン師を演じて新生面を開拓する。
戦後はいつまでも女性中心主義でいく会社の基本方針に不満を抱き、松竹を退社。映画俳優フリー第一号となり演技派への脱皮を志していく。1948年には主演したメロドラマ「三百六十五夜」(市川崑)が空前の大ヒット、翌49年には既に高額納税者のタレント部門トップに躍り出る活躍ぶりであった。1951年、成瀬巳喜男監督の「めし」で原節子と中年夫婦を演じて好評を得て以降、名作への出演が相次ぎ、1953年に「煙突の見える場所」(五所)、1954年に「晩菊」「山の音」(成瀬)、1956年に「夜の河」(吉村、山本富士子共演)で市井の人間を演じた。これらはいずれも日本映画史の傑作で、上原にとっても代表作となる。1957年に東宝と本数契約してから脇に回るが、1959年、舞台上でメニエール症候群で倒れる。また息子の加山の映画界入り以降は、大きな子供を持つ父親というイメージのため、二枚目として主要な役を得ることが困難となる。
1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックパークホテルを建てたことで有名。1970年には小桜と死別。その数ヵ月後にパシフィックパークホテルが倒産、息子の加山ともども莫大な負債を抱える等、不幸が続く。同年、東宝を退社。1975年に37歳年下の元クラブ歌手大林雅美(本名=雅子)と再婚するも亡くなる間際に離婚。雅美との間に生まれた娘の上原芽英子は女優として活動している。
また松竹時代からの共演者である高峰三枝子と共演した80年代初頭の旧国鉄(現JR)「フルムーンキャンペーン」のCMは非常に有名。当時としては往年の大スターが温泉につかるシーンはまさにセンセーショナルな事であった。
1991年5月、大林と離婚後は加山の家にひっそりと身を寄せ、8月には親子でニューヨークに旅行したが、11月23日、風呂場で倒れているところを家政婦が発見、三鷹市の杏林大学付属病院に救急車で運ばれるものの、蘇生する事はなく、午後3時44分に急性心不全で死去。享年82。会見で加山は「この一年半は心労が続き、静かな老後を送らせたかった。」と涙をこらえながら語った。
[編集] エピソード
- 松竹時代、先輩女優である吉川満子、飯田蝶子、栗島すみ子につけられたあだ名は「シルヴァーオックス(=銀ぎつね)」、「接待係の謙」、「ドアボーイの謙」だったという。接待係、ドアボーイの由来は上原が面倒見がいい事から来ている。ちなみに8クラブの他のメンバーにつけられたあだ名は佐分利が「海亀の信」、佐野が「アドバルーンの周二」、徳大寺が「三度笠の伸」、近衛が「置き物のトシ」、夏川が「級長面の大チャン」だった。
- 若い世代には「加山雄三の父親」というイメージだが、戦前戦後の全盛期は息子と比較するのも失礼なほどの絶世の二枚目スターだった。しかし晩年には男性用カツラのCMに堂々と出演し(自らカツラを着用していると宣言)、お笑いバラエティー番組にも熱心に登場。子供向け特撮番組にも出演している。共演しているコメディアンのギャグを「わたしもやりたい!」と懇願し、「大スターの上原さんにそこまでさせるのはまずい」と裏方スタッフを困らせるなど、飾らない庶民的な一面も見せていたという。元々、上原自身は駄洒落や冗談を言うのが大好きだったらしく、終戦後、地方公演をしていた時期には伴淳三郎と舞台でコント等をやっていたという。ちなみに、喜劇映画に出たがっていた上原の念願かなって出演した『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年 坪島孝監督)では、チョビ髭にズーズー弁の社長という珍しい演技を見ることが出来る(この演技は本人の「ズーズー弁でやりたい」という希望によるもの)。なお晩年のお笑い番組への出演等は、借金返済も理由との見方がある。
- 「フルムーン」のCMでの高峰三枝子と二人で温泉につかるシーンでは、清純で上品なお嬢様役が多かった高峰の豊かな胸の谷間が大胆に披露されたこともあり、社会現象と言えるほどの人気を博す。このCMに、女優で自民党参議院議員の山東昭子が「シリコンを入れた年寄りの胸など見たくない」と不謹慎な発言をしたのも話題を呼んだ。間近で高峰の胸の谷間を見たはずの上原は「シリコンだなんて・・・」とやんわり疑惑を否定している。
[編集] 受章・受賞歴
[編集] 出演作品
[編集] テレビ
- いちばん太鼓(1985年 - 1986年・NHK朝の連続テレビ小説)
- 忠臣蔵(1985年・日本テレビ)
- 森田一義アワー笑っていいとも!(フジテレビ、テレフォンショッキングゲスト(最年長第3位))
- 超人機メタルダー(1987年・テレビ朝日)
- 春を待つ家(1990年・フジテレビ)
[編集] 映画
- 有りがたうさん(1936年、松竹蒲田)
- 浅草の灯(1937年、松竹大船)
- 婚約三羽烏(1937年、松竹大船)
- 愛染かつら(1938年、松竹大船)
- 桜の国(1941年、松竹大船)
- 花咲く港(1943年、松竹大船)
- そよかぜ(1945年、松竹大船)
- 花ひらく(1948年、新東宝)
- 四谷怪談(1949年、松竹京都)
- めし(1951年、東宝)
- 煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年)
- 夫婦(1953年、東宝)
- 妻(1953年、東宝)
- 山の音(1954年、東宝)
- 晩菊(1954年、東宝)
- 夜の河(1956年、大映京都)
- 氷壁(1958年、大映東京)
- 大学の山賊たち(1960年、東宝)
- モスラ(1961年、東宝)
- 妖星ゴラス(1962年、東宝)
- 海底軍艦(1963年、東宝)
- 時をかける少女(1983年)
- 花の季節(1990年)
[編集] CM
[編集] 文献
- がんばってます 人生はフルムーン(上原謙著・共同通信社・1984年4月)ISBN 4764101459
- 三羽烏一代記―佐分利信・上原謙・佐野周二(野沢一馬著・ワイズ出版・1999年4月)ISBN 4898300065
- 父・上原謙への恋文(上原芽英子著・河出書房新社・2005年2月)ISBN 4309016995