上田交通真田傍陽線
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上田交通真田傍陽線(うえだこうつうさなだそえひせん)は長野県上田市の上田駅と真田町(現・上田市)の傍陽駅、真田駅を結んでいた上田交通の鉄道路線。1927年に開通したが、1972年(昭和47年)に廃止された。
信越本線(現JR東日本長野新幹線・しなの鉄道線)上田駅を起点とし、市街地を時計回りの方向で進み、市街地の北東部にあった川原柳駅から国道144号線に沿う形で本原駅に達し、さらにそこから分岐して現在の長野県道35号線に沿って傍陽駅までを、さらに国道144号線を沿って真田駅を結んでいた。
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[編集] 路線データ
- 路線距離(営業キロ):上田~本原間 8.6km、本原~傍陽間 3.1km、本原~真田間 4.2km、合計15.8km
- 軌間:1067mm
- 駅数:9→12→15→19
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線電化(直流1500V)
[編集] 歴史
上田交通真田傍陽線は、(株)上田温泉電気軌道(略称・温電)によって、同社の北東線として1927年(昭和2年)に開業し、1928年(昭和3年)に全通した。当初、温電は経営難と言う事情から、上田市から北東の方面に鉄道を建設することに難色を示していたが、上田市と北東5ヶ村(=神科村、殿城村、本原村、長村、傍陽村(以上、現・上田市))が、鉄道敷設運動を起こし強く働きかけたたため、それに押される形で建設を決断した。敷設に積極的ではなかった真田傍陽線だが、この開通により菅平の観光開発が進んだという結果的にはその敷設は有意義なものであった。
真田傍陽線は菅平高原や群馬県への交通手段として、さらに上田市と真田町で取れた高原野菜、りんごなどの農産物を輸送するための路線としても盛んに利用されたが、上田駅から直接菅平高原、群馬県へ行くバスが増発されたり、農産物の輸送がトラックに移行したため1960年代後半から赤字路線に転落。1972年(昭和47年)2月20日惜しまれつつ廃止となった。
- 1923年(大正12年) 上田市と東北5ヶ村(神科村、殿城村、本原村、長村、傍陽村)が(株)上田温泉電気軌道に鉄道敷設の猛運動を起こす。
- 1924年(大正13年)11月 温電、上田市と東北5ヶ村の猛運動に押される形で北東線の鉄道敷設認可を申請。
- 1925年(大正14年)3月 鉄道省(現国土交通省)から認可される。11月 着工。
- 1926年(大正15年・昭和元年) 北東線真田~大日向間の路線延長認可。(着工に至らずのちに失効。)
- 1927年(昭和2年)11月20日 北東線上田~伊勢山間開業。
- (※この年開業した駅=上田、公会堂下、北大手、上田花園、北上田、川原柳、神科、樋之沢、伊勢山)
- 1928年(昭和3年)1月10日 伊勢山トンネルと川久保鉄橋完成し伊勢山~本原間開通。4月2日 本原~傍陽間開通。5月1日 本原~真田間が開通し北東線全通。
- (この年開業した駅=川久保、下原下、本原(以上、1月10日)、横尾、曲尾、傍陽(以上、4月2日)、北本原、石舟、長村、真田(以上、5月1日))
- 1939年(昭和14年)8月30日 (株)上田電鉄に社名変更。線名を上田電鉄菅平鹿沢線と改称。
- 1943年(昭和18年)10月21日 (株)上田電鉄と丸子鉄道(株)が合併して上田丸子電鉄(株)に。これに伴い上田丸子電鉄菅平鹿沢線となる。
- 1948年(昭和23年) 公会堂下、公園前と駅名変更。
- 1953年(昭和28年) 川久保、殿城口と駅名変更。
- 1955年(昭和30年)8月 電鉄上田駅舎完成。
- 1960年(昭和35年)4月1日 線名を上田丸子電鉄真田傍陽線と改称。
- 1969年(昭和44年)6月1日 上田丸子電鉄(株)、社名を上田交通(株)に変更。これに伴い上田交通真田傍陽線となる。
- 1970年(昭和45年)8月 上田交通、真田傍陽線の廃止を運輸省(現国土交通省)に申請。
- 1972年(昭和47年)2月20日 真田傍陽線上田~本原・本原~傍陽・本原~真田間廃止。
[編集] 車輛
真田傍陽線は上田駅で別所線と接続していたものの架線電圧が異なり(別所線は当時750V、真田傍陽線は1500V)、またこの両線は丸子線と接続していなかったことから、三線相互間の車輛移動は少なかった。結果として、三線とも車輛配置がほぼ固定化された。
真田傍陽線では主に下記の電車が使われていた。
- モハニ4250形 - 4251~4254
- モハ4250形 - 4255・4256
- クハ250形→モハ4250形 - 251→4257
- モハ5360形→モハ4260形 - 5361→4261
- クハ270形 - 273
- サハ10形 - 11~14
- サハ20形 - 21~24
- サハ60形 - 61
- 当初別所線用として使用されたが、61が一時期廃線まで真田傍陽線用として使用されていた。廃線後別所線に戻り1980年に廃車された。
貨物列車用にデロ300形電気機関車が新造されたが、貨物の需要が低いことや、トラブルが相次いだことから三河鉄道に譲渡され、以後貨物列車は電車牽引の混合列車となった。
[編集] 駅一覧
上田駅 - 公園前駅 - 北大手駅 - 上田花園駅 - 北上田駅 - 川原柳駅 - 神科駅 - 樋之沢駅 - 伊勢山駅 - 殿城口駅 - 下原下駅 - 本原駅 - 北本原駅 - 石舟駅 - 長村駅 - 真田駅
※駅名は廃止時点のもの。改称された駅の開業時の名称は、公園前駅が公会堂下駅、殿城口駅が川久保駅。
[編集] 接続路線
路線名等は廃止時点のもの。
[編集] 補足事項
真田傍陽線は構想の段階では傍陽駅から先、地蔵峠を越えて河東鉄道線(現、長野電鉄屋代線)の松代駅を結ぶという壮大な路線であった(すなわち、本原~傍陽間が本線として予定されていた)。しかしトンネル工事という点で問題があったため計画段階でストップしている。
また、真田傍陽線の終点真田駅から北、当時は小県郡長村の大字であった大日向地区に路線を延長する工事も計画していて免許を取得していたが残念ながら昭和金融恐慌の煽りをもろに受け起工に至らず未工線として終わっている。(しかし菅平高原までの延長計画は最後まで立てなかった。)