中村鴈治郎 (2代目)
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二代目中村鴈治郎(にだいめ・なかむら・がんじろう、明治35年(1902年)2月17日 - 昭和58年(1983年)4月13日)は昭和期を代表する歌舞伎役者の一人。上方歌舞伎の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。本名林好雄。
1902年2月17日、大阪生れ。初代中村鴈治郎の三男である。1906年、京都南座で初舞台。1909年、初代中村扇雀に改名。幼少期は子供芝居で、やや長じては青年劇中村扇雀一座の座頭として活躍する。1924年、大歌舞伎に復帰し、初代鴈治郎、二代目実川延若、十二世片岡仁左衛門などのもとで修行。主に女形を勤めた。
1935年、父初代鴈治郎逝去。このころから若手の有望株と目され、1941年に四世中村翫雀を、1947年に二代目中村鴈治郎を襲名した(大阪歌舞伎座。「河庄」「引窓」等)。しかし戦後に入ると関西歌舞伎の凋落がいちじるしく、自身の芸の伸び悩みや、興行方針をめぐる松竹との関係がこじれたこともあって、1955年に松竹退社。息子二代目中村扇雀とともにフリーとなって映画、テレビに活躍するようになり、とりわけ映画では大映映画を中心に目覚しい活躍を見せた。代表作に市川崑「炎上」「鍵」、小津安二郎「小早川家の秋」「浮草」、黒沢明「どん底」、川島雄三「雁の寺」など。
その後、歌舞伎に復帰。1958年からは「七人の会」にも出演したが、関西ではもはや歌舞伎公演がむずかしい状況となりつつあったため、徐々に東京歌舞伎と一座することが多くなる。それでも、上方和事の真髄とも言う芸を見せて高く評価され、1967年、重要無形文化財保持者認定(人間国宝)。1968年、紫綬褒章。1969年、NHK放送文化賞。1970年、芸術院賞。1972年、芸術院会員。1974年、勲三等瑞宝章。1980年、文化功労者。 1983年4月13日逝去。享年八十一。没後正四位勲二等瑞宝章追贈。
子に四代目坂田藤十郎、中村玉緒。孫に中村翫雀(五代目)・中村扇雀(三代目)・鴈龍太郎。曾孫に中村壱太郎(初代)・中村虎之介(初代)。
立役、女形、敵役、老役とあらゆる役種をこなしたが、本領は父初代鴈治郎ゆずりの二枚目と二代目延若の影響を受けたつっころばしなどの上方和事にある。上方歌舞伎の伝統にのっとって、型を意識しない写実的な芸風が特徴で、身ごなしや風情に独特の艶のある役者であった。「曾根崎心中」の徳兵衛、「心中天網島」の治兵衛、「封印切」の忠兵衛、『沼津』の重兵衛、『宿無団七』の並木正三、『すしや』のいがみの権太などが代表作。女形では『寺子屋』の千代、『鏡山』のお初、岩藤『先代萩』の八汐。老女形では『道明寺』の覚寿、敵役は『忠臣蔵』の師直、『車引』の時平公、また勇壮な『妹背山』の鱶七、『新薄雪物語』の妻平、喜劇では『ちょいのせ』の善六なども得意とした。
目次 |
[編集] 主な出演
[編集] 映画
- 『女殺し油地獄』(1957年、東宝、監督堀川弘通)
- 『炎上』(1958年、大映京都、監督市川崑)
- 『弁天小僧』(1958年、大映京都、監督伊藤大輔)
- 『鍵』(1959年、大映東京、監督市川崑)
- 『初春狸御殿』(1959年、大映京都、監督木村恵吾)
- 『ぼんち』(1960年、大映京都、監督市川崑)
- 『釈迦』(1961年、大映京都、監督三隅研次)
- 『越前竹人形』(1963年 大映京都 監督吉村公三郎)
- 『怪談』「茶碗の中」(1964年、文芸プロダクション・にんじんくらぶ、監督小林正樹)
- 『湖の琴』(1966年、東映京都、監督田坂具隆)
- 『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、近代映画協会、監督新藤兼人)
[編集] テレビドラマ
[編集] 著書
- 『鴈治郎の歳月』(1972年 文化出版局)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- キネマ旬報データベース「中村鴈治郎」(2代目のみ)