天山広吉
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天山広吉 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 天山広吉 |
本名 | 山本広吉 |
ニックネーム | 猛牛 |
身長 | 183cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1971年3月23日 |
出身地 | 京都府京都市 |
所属 | 新日本プロレス |
スポーツ歴 | バスケットボール ボディビル |
トレーナー | 山本小鉄 大剛鉄之介 |
デビュー | 1991年 |
天山広吉(てんざんひろよし、1971年3月23日 - )、本名:山本広吉は、日本の新日本プロレス所属のプロレスラー。京都府京都市出身。身長183cm、体重115kg。
目次 |
[編集] 経歴
学生時代にボディビルとバスケットボールを行っており、新日本プロレス学校を経て1990年5月に新日本プロレスに入門。1991年1月11日に今治市公会堂にて松田納(現・エル・サムライ)戦でデビュー。1993年3月の第4回ヤングライオン杯に優勝し、欧州武者修行へ出発。カルガリーの大剛鉄之介の元で肉体改造を果たし、1995年に凱旋帰国。凱旋直後に長州力からピンフォールを奪い、トップレスラーの仲間入りを果たすと同時に蝶野正洋、ヒロ斎藤と狼群団を結成。1997年にnWo軍に入った。
小島聡とのタッグは「天コジ」と呼ばれ、当時の日本人タッグでは日本1、2を争えるほどで、IWGPタッグ王座獲得やG1タッグリーグ戦優勝という輝かしい実績を残したが、2002年1月、小島の全日本プロレス移籍によりタッグを解消した。
2003年、これまで何度も優勝候補とさわがれながら優勝ができなかった天山は、一念発起して再びカルガリーの大剛の元で肉体改造を行い、帰国後コスチュームを変更し髪の色も黒髪に戻した(すぐに金髪に戻る)。そしてG1クライマックスに挑み、初戦こそ秋山準(プロレスリング・ノア)に敗れるも決勝で雪辱し見事優勝、その後IWGPヘビー級タイトル奪取と、これまでタッグ中心だったがシングルプレーヤーとしての確固たる地位を築いた。さらに2004年のG1クライマックスでは当時成長著しかった新三銃士の中邑真輔、柴田勝頼、棚橋弘至を決勝トーナメントで順に3タテして見事連覇を成し遂げた。
2005年2月20日調印式で「負けたら引退する」との決意で臨んだ小島聡との三冠・IWGP、2つの王座を賭けたタイトルマッチを行うが、59分45秒脱水症状によるKO負けを喫し、負けた直後に引退撤回というファンと小島を激怒させた結末を迎えた。同年3月26日、次期IWGP挑戦者決定トーナメントで優勝するものの、中邑真輔と引き分けによりベルトを死守した王者小島が激怒、挑戦者失格の烙印を押される。しかし同年5月に小島からIWGPを奪取する。翌6月にイタリアで行われたスコット・ノートンとのIWGPシングルの防衛戦では、ノートンのパワーに苦しめられるも防衛に成功するが、その後藤田和之に王座を奪われた。
2006年はG1クライマックスを初日から全勝で突っ走り、決勝で小島聡を破り3度目の優勝を果たした。そして、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天コジで初挑戦する。序盤は武藤敬司・川田利明組に敗れるが決勝進出決定戦でリベンジし、そして優勝する。
長らく「蝶野の子分」「No.2」と揶揄されてきたが、その状況を打破する為に、2006年下旬、真壁刀義、越中詩郎らと共に、新たなヒール軍団G・B・H(グレート・バッシュ・ヒール)を立ち上げる。ただし、前述の世界最強タッグリーグにおいてはヒールキャラを封印している。
他に適任者のいない場合、シングル王座戦線に出て獲得し、次の王者に良い試合を経て渡す役目を負うことが多い。そのため「リリーフ王者」と揶揄される事もある。しかし、角海老宝石ジムでのボクシング練習、2006年契約更改時の「嫁が怖い」と硬軟織り交ぜたアングルを展開する幅の広さを持ち、さらに今のヘビー級では数少ない受けの名手であり、危険な技も数多く受けている。
[編集] 得意技
- 独特の呼吸で放ち、使う際会場のあちこちから「シュー」の唱和が飛び交うのがお馴染みとなっている。
- マウンテンボム
- ダイビング・ヘッドバット
- アナコンダバイス
- アナコンダクロス
- アナコンダフック
- いわゆるボディーブロー。勿論反則である。
- バッファロースリーパー
- ジャーマン・スープレックス
- ここ一番の切り札として、大一番で繰り出す。
- 合体技
- CTC (Chono Tenzan Crush)
- 蝶天魚雷
[編集] タイトル履歴
- 新日本プロレス
- IWGPヘビー級王座
- IWGPタッグ王座
- G1 CLIMAX 2003、2004、2006優勝
- 全日本プロレス
- 2006世界最強タッグリーグ優勝
- CWA
- CWA世界ジュニアヘビー
- プロレス大賞
- 1995年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
- 1996年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
- 2000年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
- 2004年度プロレス大賞 敢闘賞
[編集] その他
- 練習生から新日に正式入門した頃、あまりの練習の厳しさに耐えられなくなって脱走し、京都の実家に一旦帰った事がある。その時、練習生時代に一緒だった金原弘光から「俺たちは体が小さいから新日に入れないのにお前は入れたんだから頑張れよ。連絡すればまだ戻れるよ」と慰留の電話がかかり、また元ボクサーの父親に「自分で選んだ事で、ケツ割るとは何事や」と怒られ、新日道場に帰ってきた事がある。
- 新人の頃、橋本真也に(食器の)レンゲ持ってきてくれと言われたが、彼は蓮華草をたくさん取ってきて、橋本を呆れさせた。
- ボクシング特訓よりも昔に、ITFテコンドーのジムで特訓するというアングルがあったが、すぐ無かったことになった。
- テレビ朝日のドラマ、『逮捕しちゃうぞ』にチンピラ役として出演したことがある。
- おでこにつまようじが刺さる。橋本真也のいたずらがきっかけ。一時はこの芸をやらされすぎて死にそうになった事も。
- 小川直也・橋本真也のタッグを「チキンとポークだよ」と揶揄した第一人者である。
- 師匠・蝶野正洋の教育の成果からか、非常に好青年である。また天山自身も、幼少期は病弱で入退院を繰り返していた経験が元で、高齢者等の施設に慰問をしている。
- 以前は、たどたどしい標準語で喋っていたが、結婚してから地元の関西訛りで喋るようになった。
- 京都から親戚が東京に来た際、京都に帰る親戚を自身も一緒に新幹線に乗って京都駅まで送っていった事がある。
- 妹が美人で、一時期馳浩が狙っていたと言われる。
- 佐々木健介の嫁・北斗晶が鬼嫁と呼ばれる事に対して「同じ恐妻家でも、こっちの方が上なんや!」と自身の恐妻家ぶりをアピール。なお、夫人をちゃん付けで呼んでいるにも関わらず、彼自身は呼び捨てで呼ばれている。また、新日本プロレスホームページ上の公式選手名鑑で、苦手なものに「機嫌の悪い時の嫁さん」と掲載したり、2006年G1クライマックスでは「嫁さんの前で、ヘンな所を見せたくなかった」と発言したり、小島聡との3冠、IWGP、それぞれのベルトを賭けたタイトルマッチに59分45秒脱水症状によるKO負けの後、「意識を取り戻したら、嫁さんにこっぴどく説教された」など、自他共に認める恐妻家。ただ、夫人が一般人のために佐々木健介や蝶野正洋のように、恐妻家を表立ってウリにはしていない。
- パチンコ好きでも有名で、原作を連載していたパチンコマンガが単行本になっている。スポーツ報知でもパチンコのコラムを月1回で連載しているほか、準レギュラー出演している『銀玉王 リーチボーイズが行く!』(tvk・テレ玉・千葉テレビ)を始めとしてパチンコ・パチスロ番組への出演も多い。最近では新日本プロレスのマットにパチンコメーカーの広告が出されているため、自分の試合中にそれが目に入り思わずパチンコのことを考えてしまうほどだという(『銀玉王』出演時の発言より)。
- デビュー当時は必殺技がないことに悩んだという。唯一の必殺技は「しゃちほこ固め」という深めの「逆エビ固め」だったが、この技は体の柔らかい西村修にしか決まらないという最大の弱点があった。
- 天野ひろゆきがブラックビスケッツの際に天山(あまざん)というギミックで、天山と同じ型の角型マスクをした。
- ムーンサルトプレスを放った際、回転仕切れず脳天からマットに落下するも(ハヤブサの件があったため、一瞬観客は凍りづいた)、数日後には復帰するタフネスぶりを見せた。復帰後、記者から失敗についてのインタビューには質問内容に関係なくガナリ立てることで、うやむやにするという器用な面を見せた。また、武藤敬司と「敗者ムーンサルトプレス封印マッチ」で敗北するも、「天山プレス」と称してほとぼりが冷めた頃にまた使い始めた。
- 蝶野対三沢光晴の試合後にマイクで三沢を挑発するも、無視された。
- 前述の通り、普段は好青年であるが、仕事上盛り上げるために他のレスラーをコキおろす発言をすることが多い。しかし、語彙が前時代的(コラ、オラ、潰すなど)で若干貧弱なため、対戦要求を出してもうやむやになることが多い。
- 曙に対して、「プロレスも総合格闘技も中途半端」と批判した。が、その曙にあっさり負ける役を務めた。
- スーツ着用の際のネクタイの柄のセンスが意外とよい。
- 新技を考案しすぎるため技を大切にしないとよく批判される。
- IWGPシングルは4回巻いたがすべて短命に終わっている。最高防衛回数は1回である。
- 2004年12月に健介からIWGPを奪取したが、しかしその数日前には全日マットで川田利明との三冠戦には敗れており、いくらIWGPを取ったとはいえ、数日前に他団体のトップに敗れた選手が王者として通用するというのはおかしいという意見が多々あった。