馳浩
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生年月日 | 1961年5月5日 |
出身地 | 富山県小矢部市 |
出身大学 | 専修大学文学部卒業 |
現職 | 専修大学レスリング部監督 |
役職 | 元文部科学大臣政務官 前文部科学副大臣 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選挙区 | 石川1区(比例区北陸信越) |
当選回数 | 3回(参議院1回) |
所属党派 | 自由民主党(町村派) |
党の役職 | 元国会対策副委員長 |
会館号室 | 衆・第一議員会館609号室 |
ウェブサイト | http://hasenet.org/ |
馳浩 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 馳浩 |
本名 | 馳浩 |
ニックネーム | 北斗の流星 戦う国会議員 戦う愛の伝道師 戦うベーヤン |
身長 | 183cm |
体重 | 105kg |
誕生日 | 1961年5月5日 |
出身地 | 富山県小矢部市 |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | ミスター・ヒト ジャイアント馬場 アントニオ猪木 長州力 |
デビュー | 1986年2月28日 |
引退 | 2006年8月27日 |
馳 浩(はせ ひろし、旧姓川辺、1961年5月5日 - )は日本の政治家、衆議院議員、元プロレスラー。富山県小矢部市出身。専修大学文学部卒業。妻は高見恭子。一度離婚しており、元妻はサンボの元選手であるビクトル古賀の娘。血液型はA型。
目次 |
[編集] 略歴
- 1980年3月:星稜高等学校を卒業
- 1984年3月:専修大学文学部国文科を卒業
- 1984年4月:星稜高等学校の国語科(古典)教諭に就任
- 1984年7月:ロサンゼルスオリンピックにレスリングで出場
- 1985年8月:星稜高等学校を退職、ジャパンプロレスに入団
- 1987年:新日本プロレスに移籍。在籍中にIWGPジュニア・ヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得する等活躍。道場では若手レスラーのコーチを務める
- 1995年7月:第17回参議院議員通常選挙石川県選挙区より自民党の推薦を受け立候補し、当選。後に自民党入党
- 1996年1月:新日本所属でのラストマッチ(その後、7月に金沢で一夜限りの復活)
- 1996年11月:全日本プロレスに移籍
- 2000年5月12日:参議院議員を辞職
- 2000年:第42回衆議院議員総選挙に石川1区から立候補、当選(衆議院1期目)
- 2002年1月:議院運営委員会理事(議事進行係)に就任
- 2003年9月25日:文部科学大臣政務官に就任
- 2003年11月9日:第43回衆議院議員総選挙に立候補するも小選挙区で落選。比例区北陸信越ブロックで復活当選(衆議員2期目)
- 2004年9月27日:文部科学大臣政務官退任
- 2005年9月11日:第44回衆議院議員総選挙に立候補、当選(衆議院3期目)
- 2005年11月2日:文部科学副大臣に就任
- 2006年8月27日:両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。現職総理大臣小泉純一郎から花が届いたほか、所属派閥の長である森喜朗や歴代の文部科学大臣である町村信孝(元)、小坂憲次(当時)も来場
[編集] エピソード
[編集] プロレスデビュー前
- 体育会の学生ではあるが、運動ばかりでなく学問のほうにも相当力を入れていたらしい。学生時代は古典文学の全集を片端から読破し、レスリング部の合宿時には必ず一冊の古典を持参していたという。
- 古典に対しての愛着が強く、海外遠征の際には『源氏物語』の原典版を持ち歩き心の支えとしていたという。受験雑誌『蛍雪時代』に古典講座の連載を持ち、それをまとめて『「古典」簡単じゃないか』という本を出版している。
[編集] ジャパン・プロレス時代
- 1984年のロス五輪代表という実績の下、鳴り物入りで1985年に大学の先輩長州力のジャパンプロレスに入団。ジャパンプロレス入門時、オリンピック出場という華々しい実績を持つ馳は特別待遇とされ、通常の新入りが体験する辛い下積み生活を味わう事はなかった。同時期、辛い下積み生活に耐えていた佐々木健介は、特別扱いされている馳を見て、かなり含むところがあった、と後に当時の心情を告白している。
- 若手時代にカナダ・カルガリー地区に武者修行の為遠征していた事があり、新倉史祐と組み「べトコン・エキスプレス」として活動していた(当時のリングネームは「べトコン・エキスプレス2号」)。当時のライバルはオーエン・ハートで、その縁もありオーエン・ハートは新日本プロレスのJr.タイトル戦線に組み込まれ数度来日している。
- 1987年のジャパンプロレスの面々が新日本マットに登場した際に日本デビュー。デビュー戦に小林邦昭との(同門)タイトルマッチで勝利。IWGPジュニア・ヘビー級王座を獲得。デビュー戦の戴冠は史上初で現在においても唯一の例。だが、このあからさまな特別待遇は当時の新日本ファンに反感を買い、クリーンなファイトスタイルにもかかわらず人気はなかなか上がらなかった。
- ジャパンプロレス時代にジャイアント馬場の教えを受け、新日本に移籍後はアントニオ猪木の教えを受けている。その為、プロレス界では数少ない「ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両方から教えを受けたレスラー」で、本人もその事を誇りにしている。
[編集] 新日本プロレス所属時代
- バラエティー色を強くした『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にスタジオゲストで出演した際、司会の山田邦子が流血したレスラーの様子を見て「血って簡単に止まるものなんですか?」と聞いたとき、馳が「止まるわけないだろ!つまらないこと聞くんじゃねぇよ!!」と放送中に激怒したエピソードは有名。ギミックではないプロレスラーの誇りに満ちた言葉に多くのプロレスファンが喝采を送り賛辞した。それまではどちらかというと外様的な見方をされていた馳は、この時以降、世間の偏見からプロレスを守る存在としてファンに広く認識され、その人気を不動のものとしていく。
- 日本テレビ『全日本プロレス中継』のミニコーナー「プロレスニュース」で、かなりコミカルにプロレス情報を伝えていた福澤朗に対して「あのアナウンサー、ふざけすぎだよ! 会ったらブン殴ってやる!」と雑誌でコメントし、その翌週のプロレスニュースでは福澤が「他団体のレスラーにも賛否両論・プロレスニュース」と言う一幕も。ちなみに1997年1月2日における馳の全日デビュー戦(第一試合)の実況は福澤が担当した。
- キャリア後半以降から着用した黄色いパンツは星稜高校のスクールカラーによる。
- リングインの定番ムーブでコーナーマットに昇り、自分の着ていたイラスト入りのTシャツを観客に投げ入れる(その際左右を見渡し、相手を定め指を差すのが定番)。
- 佐々木健介が海外武者修行から帰国後、暫くしてから両者は唯一無二の同期タッグ「ハセ・ケン」として闘魂三銃士やスタイナー・ブラザーズらと名勝負を展開する。またこの時期の2人は新日本道場の鬼教官も兼務しており、当時新日本に入団した第三世代と呼ばれる永田裕志、中西学、天山広吉、小島聡、大谷晋二郎、金本浩二、高岩竜一らの指南役となり、一人前のレスラーとして育て上げた功績は大きい。馳が全日本プロレスに移籍して以降、両者は長らくタッグを組むことがなかったが、2003年3月1日に行われたWJプロレス旗揚げ戦で7年ぶりに「ハセ・ケンタッグ」が復活した。
- 後藤達俊のバックドロップを受け損なって一時心肺停止、臨死体験をしたことがある。幸い、リングドクターが来場していた大会であったため、幸いにも一命を取り留めた。倒れた時は長州も「馳、死ぬな!!」と涙を流しながら必死呼びかけたという。またこの事件を契機に常設リングドクターの設置、新日本所属レスラーの定期検診が定着した。
- 新日本プロレス退団の理由には、馳にはそのつもりはないのに長州が勝手に引退を発表したことで生じた軋轢があった。
[編集] 全日本プロレス所属時代
- 自民党衆議院議員兼全日本プロレス所属のプロレスラーであり、プロレス興行には主に国会のない期間に参加していたが、政治で徐々に要職につき始めるとその機会が減っていき、2005年9月11日の衆議院選挙の当選と同時にプロレスラーとしての現役引退を表明(理由として靱帯断裂もある)した。
- 引退興行については武藤敬司が「全日で馳さんの引退興行を行いたい、新日では行わせたくない」と仄めかしており、また、2006年1月の武藤社長就任3周年記念パーティに馳が参加し、自ら「引退興行は本年中に全日本で行って欲しい」と嘆願、同年7月23日の地元金沢の興行を馳浩引退記念興行とし、8月27日の両国国技館大会で引退試合を行った。なお、7月23日の金沢大会はもともと挨拶だけの予定だったが、本来出場予定の佐々木健介が左眼窩底骨折で出場できなくなり、急遽代役として出場することとなった。
- 2006年8月27日、馳のプロレス引退試合を森喜朗が観戦したが、対戦相手のVOODOO-MURDERSの"brother"YASSHIが「おい、そこの森!お腹の中、何か詰まってるな?お金か?このカス野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の治世を批判し唾を掛けるという暴挙に出た。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという前代未聞の事態が発生した。このとき観客から森コールが起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、憲政史上初となる内閣総理大臣経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対し、森は「椅子?パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。その後、馳は電話にもかかわらず森に土下座して謝罪したという。ただ、森はもともとプロレス好きであり、YASSHIに対する一連の発言もパフォーマンスの可能性もある。なお、この大会では町村信孝も来場し森の横で観戦していたが、この試合中の顛末をにこやかに見ていた。
- プロレスからの引退発表こそしたが、総理大臣としてSPを連れてリングに上がるのが夢だと話しており、今後も体を鍛え続けるようである。
- フジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』で、著名人としては初めて全問正解し、最高賞金の1000万円を獲得した。収録時に司会者のみのもんたから渡される小切手をそのまま換金出来ると思っていたがそうではなく、後日銀行振込でしっかりと賞金が入っていたという。
[編集] その他
- 自らの出身大学である専修大学のレスリング部の監督でもあり、有望な選手を全日本プロレスや健介officeに練習生として送りたいと話している。
- 神奈川大学で講義を受け持ったこともある。2003年に文部科学大臣政務官に就任したことにより、講義を已む無く終えている。
- 「プロレスとは芸術である」を持論としており、技のフォームの形に対するこだわりは誰よりも深い。90年代半ば、投げっ放しジャーマンが乱発され始めた時も「ジャーマンスープレックスはブリッジした時のフォームが美しいのに、投げっ放しジャーマンはそれを壊している」と批判。本人は投げっ放しジャーマンを使う事は一切無かった。
- 馳がある試合のセコンドについていたときに馳は激しく且つしつこくリングを叩きながらその試合でレフェリーをしていたタイガー服部に対して野次を飛ばしていた。すると堪忍袋の緒が切れたタイガー服部がリングサイドにいた馳に対しトップロープを掴んだ体勢で2本目と3本目のロープの間から(今で言う顔面ウォッシュの要領で)強烈な蹴りを放った。その蹴りは馳の顔面を綺麗にとらえ、アピールなのか本気なのかはわからないが馳はかなり足にきていた。ちなみにその一部始終はTV中継されている。
- プロレスラー現役時代には非常にもて、そのプレイボーイぶりをトークショーで語るなどリング外でもサービス精神旺盛であった。
- 今後は三沢光晴が会長を務めるグローバル・レスリング連盟の発展に一役買うことを公言している。
- 下ネタが好きなようで、座右の銘は「腰振り合うも他生の縁」「親しき中にも前戯あり」と雑誌で公表した。
[編集] タイトル履歴
- 新日本プロレス
- WCWインターナショナル・ヘビー級王座
[編集] 得意技
- ノーザンライト・スープレックス
- この技の開発者。ネーミングはカルガリーにかけたもので、ブリッジの美しさは類を見ない。
- 裏投げ
- サンボ修行中に体得。馳によりプロレス界に持ち込まれた。
- ジャイアントスイング
- レスラーの中でも随一の使い手であった。最高で60回転したことがあり、引退試合では自身の年齢と同じ45回転を達成した。
- また、ジャイアントスイングを仕掛けた後腰を回すアピール(当時人気レスラーだったリック・ルードの定番ムーブを模したもの)をしたり、タッグマッチでは相手のパートナーから攻撃されたりするのが定番のムーブとなっている。
- 鎌固め
- フェイスクラッシャー
- 裏STF
[編集] 著作
- 『君はまだプロレスを知らない』
- 『君は何と戦っているのか』
- 『闘いのゴングが聞こえているか』
- 『国会赤裸々白書』
[編集] 出演作
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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