曙太郎
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曙太郎 | |
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基本情報 | |
本名 | 曙太郎 チャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ |
あだ名 | 第64代横綱 |
階級 | ヘビー級(K-1) ヘビー級?(HERO'S) ヘビー級(プロレス) |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1969年5月8日 |
出身地 | アメリカ合衆国 ハワイ州 |
現居住地 | |
スタイル | 相撲 |
戦績 | |
総試合数 | 9(K-1)、4(総合) |
総勝利数 | 1(K-1)、0(総合) |
KO勝ち | 0 |
一本勝ち | 0 |
判定勝ち | |
総敗北数 | 8(K-1)、4(総合) |
KO負け | |
一本負け | |
判定負け | |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
曙太郎 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 曙 グレート・ボノ |
本名 | 曙太郎 |
ニックネーム | 第64代横綱 |
身長 | 203cm |
体重 | 215kg |
誕生日 | 1969年5月8日 |
出身地 | ハワイ州・オアフ島 |
所属 | チーム・ヨコヅナ(FEG) |
スポーツ歴 | バスケットボール 大相撲 |
トレーナー | 仲山実 武藤敬司 長州力 |
デビュー | 2003年12月31日 |
曙 太郎(あけぼの たろう、1969年5月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州出身の第64代横綱で、外国人初の横綱。2001年に大相撲の世界から引退。東関部屋所属。現在は格闘家(K-1ファイター)兼プロレスラー。チーム・ヨコヅナ所属。身長203cm、体重215kg。血液型O型。
1996年に日本に帰化し、本名も四股名と同じ「曙 太郎」を名乗る。旧名は、チャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ(Chad George Haaheo Rowan)。力士として活動していた時期(帰化前)には、日本風に姓を頭にして本名はローウェン・チャドとしていた。
目次 |
名にまつわるエピソード
関脇の時までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ点のない「曙」だったが、大関になって以降は点のある「曙」で書かれている。入門当時は「大海」(たいかい)と名乗り前相撲も取ったが、三段目に大魁(たいがい)という力士がいたため混乱を避けるため「曙」に改名せざるを得なくなった。大魁が引退した後の1990年3月場所に曙の弟が東関部屋に入門し、その大海を名乗ることができたが、僅か3場所でハワイに帰国してしまった。 春場所への意気込みを問われた際に、よく『枕草子』の「春は曙」(春は曙が良い)と言う有名な文を引用して微笑んでいた。
来歴
角界
ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格を東関親方(元高見山大五郎)に見込まれ、相撲界入り、昭和63年3月場所に初土俵。
同期入門は横綱・若乃花勝(現タレント・花田勝)、貴乃花光司、大関・魁皇博之、小結・和歌乃山洋、前頭・力櫻猛(現プロレスラー・力皇猛)、十両・須佐の湖善誉、鶴ノ富士智万、琴岩国武士、琴乃峰篤実といった名力士の名が並ぶ。序ノ口では、貴乃花に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。
長身を活かした突き押しが特徴で、同期の若乃花(花田勝)・貴乃花光司のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じた。その一方足が長い体型から下半身が脆いという致命的な弱点を持ち、舞の海など小兵の力士に懐に潜り込まれ足を取られると何もできずにあっさり負けてしまうことも目立った(舞の海に三所攻めで負けた一番はその好例である)。しかし、1992年には大関で2場所連続優勝を果たし横綱昇進、横綱不在を解消し、貴乃花の昇進まで一人横綱を維持し、その間にも優勝を重ね、横綱の権威を守ったことは評価されるものである。
横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがした(しかし、四股は本来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない)。しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があり、NHKの大相撲放送でも度々アップで映し出されていた。前屈がひどく節度のない貴乃花のそれに比べ、総体としてみればかなり上手い土俵入りを見せた。いかつい顔も、せり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映えた。1998年の長野冬季五輪では、開会式のときに土俵入りを演じた。
2mを超える長身といかつい容貌のため、また若貴の人気が突出していたためあるいは師匠同士の因縁のため、外国人初の横綱を張ったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、平幕時代まではハワイの両親の元に送金を欠かさなかったことから「孝行息子」また、当時の東関部屋の部屋頭だったことや師匠譲りのオレンジ色の廻しを締めていたことから「ジェシーの一番弟子」として微笑ましく見守るファンは多く、相撲部屋を扱ったTV番組で師匠の東関親方とともに当時の高砂親方(元小結・富士錦)のもとに新年の挨拶に訪れ、お年玉をもらう姿が放映されるなど微笑ましい映像も露出しており、憎まれ役として貫徹したわけではなかった。しかし折からの「若貴ブーム」で相撲を大々的に取り上げはじめた民放スポーツ番組では、プロレス並みに若貴に対抗するヒール役としてレッテルを貼り、にわか相撲ファンはそれを真に受けた。
通算優勝回数は11回。優勝決定戦に10回出場(7勝3敗)は歴代1位で、2人決定戦(1993年九州場所、1997年夏場所、1999年名古屋場所)、3人決定戦(1993年名古屋場所、1994年春場所)、4人決定戦(1997年春場所)、5人決定戦(1996年九州場所)全てに出場するという、非常に珍しい記録の持ち主でもある。
また幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もおらず(貴乃花とは21勝21敗)どのような力士に対しても実力を発揮できたことが窺える。礼儀正しさや謙虚な態度で好意を持つ親方衆が多かった。
手足の長さから重心が高く、足の故障が多かったが、1994年5月に両膝を故障した後は若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で優勝は4回に留まった。しかし土俵人生の最後は、2000年には二場所優勝し年間最多勝も獲得、休場したその次の場所で引退するという、きわめて鮮やかなものであった。
通算幕内優勝回数は11回を数え、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、引退後に日本相撲協会から功労金1億円が贈られている。
大相撲成績
K-1への転向
現役引退後は曙親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、東関親方との関係や将来設計に不安を抱き、2003年11月、日本相撲協会を退職し、格闘技K-1に参戦することを発表。
- 2003年12月31日、デビュー戦となった「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップと対戦、1ラウンドKO負けを喫する。うつ伏せになって倒れているシーンの視聴率は裏番組の紅白歌合戦を上回りテレビ史上初の快挙であった。曙がうつぶせで横たわっているさまを真上から捉えた画像は、かなり衝撃的なものとなった。
- 2004年3月27日、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)でK-1 WORLD GP 2003準優勝の武蔵と対戦、プッシングでスリップダウンした武蔵に対しレフェリーの制止を振り切り攻撃し続けたため反則をカウントされ、判定負けを喫する。(反則による減点を差し引いてもポイントで武蔵を下回るなど、試合展開そのものも武蔵の優勢だった)
- 2004年7月17日、「アジアGPトーナメント」(韓国)で中国の張慶軍(チャン・チンジュン)と対戦するも手数が出ず延長の末判定負け。限界説も浮上。
- 2004年8月15日、「K-1 WORLD GP 2004 世界最終予選トーナメント in Las Vegas」(ラスベガス)でK-1 USA GRAND PRIX'98王者のリック・ルーファスと対戦。プッシングの反則で減点を受け、3-0の判定負けを喫した。
- 2004年9月25日、「K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO」開幕戦(日本武道館)でK-1 WORLD GP前年度王者のレミー・ボンヤスキーと対戦。右ハイキックで3ラウンド失神KO負けを喫した。
- 2004年12月31日、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」(大阪ドーム)でホイス・グレイシーと対戦、自身より138kgも体重の軽い相手であったが、関節技のオモプラッタからリストロックを決められ、1ラウンドタップアウト負けを喫する。
- 2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」(韓国)で準々決勝で角田信朗と対戦し、判定で悲願の初勝利を挙げた。しかし準決勝でチェ・ホンマンと対戦し、KO負けを喫した。
- 「K-1 WORLD GP 2005 in HAWAI」でチェ・ホンマンに再戦したが1回2分52秒TKO負けした。プロデューサーの谷川貞治は試合後の消極的なコメントに激怒し、K-1、総合(HERO's)における曙のオファーを再起の意欲がない限り今後一切しないと公言。K-1からの一時撤退を余儀なくされる。
- 2005年12月31日、「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」でボビー・オロゴンと総合ルールにて対戦し、0-3で判定負け。
- 2006年5月3日に開催された「HERO'S」に出場し、総合格闘技ルールでドン・フライと対戦。ヒットアンドアウェイを狙わず正面からの撃ち合いを望む相手に対し、パンチを打たず前進してコーナーに追いつめ体重をかけるだけの消極的なファイト。スタミナが切れた所を転ばされ、2R3分50秒フロントチョークでタップし敗北。
- 「50キロ減量しなければK-1への出場は認めず、追放する」と最後通牒を叩きつけられていたが、佐山聡のもとで特訓し約30kgの減量に成功したと言う触れ込みで、2006年7月30日に、チェ・ホンマンと3度目の試合を行った。試合当日には体重が約10kgリバウンドしており、これまで1ラウンドでKOされたチェ相手に初めて2ラウンドへ持ち込む健闘を見せるも、2ラウンド57秒KO負け。「ダイエットコンテストではないので、痩せただけでは勝てない。チェともう1度やりたい。今度は5ラウンド制だ。1Rが総合格闘技、2Rがプロレス、3RがK-1ルール、4Rが韓国相撲、5Rが大相撲で」と再起へ前向きな姿勢を見せるが、谷川プロデューサーは「K-1への参戦はこれが最後になる」とコメント。
- 2006年12月31日、4度目の大晦日格闘技参戦となる「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」でジャイアント・シルバと対戦。何もできないまま1R1分2秒アームロックで敗れ、大晦日初勝利はまたも果たせなかった。
プロレス修行
- 2005年8月4日、「WRESTLE-1」にて武藤敬司扮するグレート・ムタにムーンサルト・プレスで敗れる。
- 2005年8月9日、武藤をプロレスの師匠と仰ぎ、全日本プロレスに参戦することを発表。以後全日を「武藤部屋」と呼び始める。
- 2005年9月2日、全日本プロレス次期シリーズにも全試合帯同、参戦することを武藤に直訴。
- 2005年9月23日、シリーズ最終戦にて内舘牧子(横綱審議委員会委員)が武藤からの依頼で曙の見極め役として厳しい目で試合を審査した。
- 2005年10月2日、「WRESTLE-1 GP」にてスコーピオと組み、三沢光晴、小川良成組とタッグ対決。三沢のエルボーにフォール負け。
- 2005年11月19日の全日本プロレス代々木大会で、悪の化身「グレート・ボノ」として登場することを予告した(全日フロントは11月7日の会見で否定しているが、本人は出ることを匂わせている)。結局自身の試合には曙として出場したものの、グレートムタ対グレートルタの試合の途中にグレート・ボノ姿で登場、VOODOO-MURDERSに襲撃されていたムタを救出した。
- 2006年1月8日、武藤部屋を一時卒業という形で他団体マットへ出稽古という参戦を発表。4日の新日本東京ドームにて吉江豊とタッグを組んだ。同月22日にはノア武道館大会にて力皇猛とタッグを組んだ。吉江とのタッグの際は、前回の試合(2005年12月31日のボビー戦)から間があまり空いてなく、しかも緊急参戦だったために、動きが鈍かったが、力皇とのタッグでは彼の好アシストに助けられ善戦した。
- 2006年3月両国でレスナーの持つIWGPに挑戦したがDDTで破れる。
- 2006年8月、新日本プロレス横浜大会に、4代目タイガーマスクのタッグパートナーとしてボノ・タイガーなる巨漢のマスクマンが登場し、邪道・外道組と対戦した。試合中にマスクを剥がされると曙に瓜二つの素顔が現れたが、ボノ・タイガー、タイガーマスクの両名とも曙とは赤の他人であり、佐山聡門下の元ガス会社社員と主張している。
WWE
- 2005年3月29日、ヒューストンで行われた「WWE スマックダウン」でエディ・ベガスに勝利。
- 2005年4月3日、ロサンゼルスで行われた「レッスルマニア21」で行われた相撲マッチにて、ビッグ・ショーに勝利。
- 2005年7月2日、さいたまスーパーアリーナで行われた「WWEスーパーショー」で、ビッグショーとのコンビでカリート、マット・モーガン組に勝利。
得意技
- 相撲
- 突き、押し、右四つ、寄り
- プロレス
- M(マグニチュード)64
- ランニングボディプレス
- アケボノボンバー
- 日本バックドロップ
- リキボノスプラッシュ63(力皇猛との合体技)
CM出演
- ほのぼのレイク(GEコンシューマー・ファイナンス)
著作
- 『曙』 ぴあ 2004年2月 ISBN 4835609115
その他
- 右腕に「AKEBONO」のタトゥーを、左腕に「YOKOZUNA」のタトゥーを、足に綱のタトゥーを、右腕はハワイの民族模様をモチーフにしたデザインをアメリカの有名デザイナー"TOKYO HIRO"が手がけた。
- はいているトランクスには雲竜型の土俵入りがデザインされていて、腰のゴムバンドの部分に妻と子供の名前の頭文字である「C」を4つ入れている。チームユニフォームも"TOKYO HIRO"によってデザインされている。
- 愛車はフランス車のルノー・アヴァンタイム。彼が日本で最初のオーナーである。
- 本人が話している映像を1.3倍速にして見ると聞き取りやすくなる(トリビアの泉(フジテレビ系)より。2006年7月5日放送、77へぇ、金の脳を獲得。)
- デビュー戦ボブ・サップでの試合が漫画デスノートに一部登場。
外部リンク
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