安藤勝己
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安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の騎手である。栗東トレーニングセンター所属(フリー)。愛知県一宮市出身。血液型A型。「アンカツ」のニックネームで親しまれている。出生時~幼少時の姓は「北浦」。中学2年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが、復縁時には父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤勝己」である(安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照)。
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[編集] 来歴
[編集] 笠松時代
兄・安藤光彰も騎手である影響から1976年、地方競馬の笠松競馬場で初騎乗。弱冠16歳でデビューすると、翌年一躍リーディング2位に躍り出る。その後、笠松のトップジョッキーとして活躍し、2003年に中央競馬に移籍するまでに通算3299勝を挙げることとなる。ファンからは「アンカツ」の愛称で親しまれていた。「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日は無い」と言われるほど常にトップに君臨していた。また、兄の光彰も同じく笠松のトップジョッキーとして活躍し、こちらは「アンミツ」の愛称で呼ばれているが、彼も2007年2月15日、JRA騎手試験に合格。
[編集] 笠松時代の名馬~オグリキャップとオグリローマン~
笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として最も有名であるのがオグリキャップである。安藤は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ転厩するが、安藤は中央競馬の騎手免許が無いため騎乗することはできず、中央移籍後は河内洋、南井克巳、岡部幸雄、武豊、岡潤一郎、増沢末夫などが騎乗した。
それでも、笠松で行われたオグリキャップの引退式では安藤がオグリキャップに跨りスタンドを2周し、笠松のファンを喜ばせた(オグリキャップは中央・地方時代を合わせて32戦を戦ったが、安藤が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である)。
その後、安藤はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。後にオグリローマンは1994年の桜花賞を武豊を背に制した。
現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することは珍しくない(吉田稔、内田博幸など)。しかし、1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマー、ジャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や、地方競馬騎手招待競走のみに限られており、安藤が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのはやむをえないことであった。
ちなみに安藤がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で、引退後に種牡馬として成功しその名を残すヤマニンスキーによるものである。
[編集] 中央競馬へ参戦
1995年は「開放元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ、中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく解放された。この改正を受けて、同年ライデンリーダーと安藤は10戦10勝の成績を引っさげ、笠松競馬所属のまま中央競馬へ出走した。中央初戦の4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)、2番人気ながらライデンリーダーと安藤のコンビはレースレコードで勝利を収める。この時スタートしてから第4コーナーに差し掛かるまでずっと安藤はライデンの手綱をしごきっぱなしであり、それでもズルズルと下がって位置取りを悪くしてしまう様子を見た関西テレビの杉本清は「ライデン、ちょっとついて行けない感じか…」と実況している。しかし、ライデンリーダーは直線の入り口でグッと体を沈めるような姿勢をとると矢のような末脚で全馬をまとめて差しきってしまった。レースの流れについて行けないように見えた姿からは想像もできないその破壊力に、杉本アナは「ライデン…!」と言ったきり絶句してしまった。そのためライデンリーダーのゴール入線時、テレビからは競馬場の大歓声だけが聞こえているという、非常に珍しいVTRとなっている。
続く桜花賞では、後の優駿牝馬(オークス)優勝馬ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージのサンデーサイレンス産駒2頭を抑え、安藤とライデンリーダーは単勝1.7倍の1番人気に支持される。しかし、3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れる。続く優駿牝馬でも1番人気に支持されるが、ハイペースの中、道中2番手を追走したライデンリーダーは直線半ばで失速、13着に大敗する。秋はローズステークスで3着に入り、当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。
その後ライデンリーダーと安藤のコンビが中央で勝ち星を挙げることはなかったが、「交流元年」に笠松から現われたライデンリーダーと安藤の活躍は、非常に大きな衝撃だった。
[編集] 中央へ移籍
上記のように中央競馬でも重賞を8勝、通算100勝を達成するなど活躍していた安藤は、2001年に中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験するが、不合格。この事態を受けて、JRAは翌年から中央競馬で一定の成績を残した地方所属騎手に対する試験要項改定(具体的には「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除するもの)を行った。
そして2002年再び受験し合格。翌2003年3月1日、阪神競馬で中央移籍デビュー、第6競走で移籍後初勝利を挙げる(中央競馬競走初勝利は1980年5月11日阪神第10競走のヤマニンスキー)。その後3月30日には高松宮記念(中京競馬場)をビリーヴで優勝し、中央騎手デビューから30日という速さで、また『お膝元』でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞をザッツザプレンティで勝利し、クラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、リーディング3位となる。
2004年にはキングカメハメハで東京優駿(日本ダービー)を制しダービージョッキーとなるなどGI競走を7勝(中央GI4勝)。2005年にはスズカマンボで天皇賞(春)初優勝を飾り、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。
2006年の桜花賞をキストゥヘヴンで制し、1995年にライデンリーダーで叶わなかった桜花賞制覇を達成した。さらには天皇賞(秋)をダイワメジャーで制し、天皇賞春、秋の両レースを制すると、同じくダイワメジャーで、マイルチャンピオンシップを制し、JRAでのGI通算勝利数を10とした。(2007年4月8日現在GI12勝)
2003年の中央移籍後、4年連続で年間100勝以上している。またわずか3年で旧八大競走のうち5競走を優勝し、制覇していないのは、皐月賞、優駿牝馬、有馬記念のみとなった。
しかし、安藤にとって中山競馬場とは相性が悪く、GIを制覇していない上に重賞もマーチステークスの1勝のみである。(GIでは、朝日杯3歳ステークスのレジェンドハンターの2着、スプリンターズステークスのビリーヴの2着が最高)
現在、GIおよびJpnIレース開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ、笠松時代同様に「安藤勝」と変更した、というエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月からは安藤光彰の中央移籍で全紙「安藤勝」になっている。
[編集] 主なGI勝ち鞍(中央移籍以降)
(斜字は統一GIを指す)
- フェブラリーステークス - 2004年(アドマイヤドン)、2007年(サンライズバッカス)
- 高松宮記念 - 2003年(ビリーヴ)
- 桜花賞 - 2006年(キストゥヘヴン)、2007年(ダイワスカーレット)
- NHKマイルカップ - 2004年(キングカメハメハ)
- 天皇賞(春) - 2005年(スズカマンボ)
- 天皇賞(秋) - 2006年(ダイワメジャー)
- 東京優駿(日本ダービー) - 2004年(キングカメハメハ)
- 安田記念 - 2004年(ツルマルボーイ)
- 菊花賞 - 2003年(ザッツザプレンティ)
- マイルチャンピオンシップ - 2006年(ダイワメジャー)
- 帝王賞 - 2004年(アドマイヤドン)
- ダービーグランプリ - 2003年(ユートピア)、2004年(パーソナルラッシュ)
- マイルチャンピオンシップ南部杯 - 2003年(アドマイヤドン)、2005年(ユートピア)
- JBCクラシック - 2003年、2004年(共にアドマイヤドン)