日刊工業新聞
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日刊工業新聞(にっかんこうぎょうしんぶん)は、創刊90年の歴史をもつ産業経済紙。発行元は日刊工業新聞社。工業のイメージが強いが、取り上げる業界は流通・サービスや運輸・科学技術・金融・教育・農業・行政・政治など幅広い。中小企業の報道にも熱心。最近ではライブドア問題など、企業のコンプライアンス(法令遵守)についての連載を始めている。
新聞の発行のほか、技術雑誌や工業・ビジネス図書の出版、展示会(自動車部品生産システム展/国際ロボット展/洗浄総合展、他)、セミナー、インターネット関連事業等も手がける。東京メトロの駅で配布しているフリーペーパー「メトロガイド」の発行元でもある。
競合紙は日経産業新聞(日本経済新聞社)とフジサンケイビジネスアイ(日本工業新聞社)。これらと合わせて「産業経済三紙」と呼ばれ、企業・行政取材では(1)日本経済新聞(2)朝日新聞・読売新聞・毎日新聞の経済部に次ぐ、第3のポジションにある。
支社は東京・名古屋・大阪・西部(福岡市)。総局(傘下に支局を持つ旧支社)はさいたま・横浜・広島で、2006年5月には仙台が支局から総局に昇格した。このほか主要都市に支局を置き、全国に40以上の拠点がある。支社長は局長(大阪支社長のみ取締役)、総局長は部長(一部は副部長)。支局長は編集デスクと同格の副部長(一部は部長)が務める。
従業員は500人。最盛期には2,000人近い社員がいた。
発行部数は50万部。発行は基本的に平日(祝日含む)。
通常は30~38ページ体制。専門紙や業界紙としては分厚い。
[編集] 歴史
1915年創刊。すでに戦前から「日刊工業新聞」として発行されていた。第二次世界大戦中は日本経済新聞と経営統合して「軍事工業新聞」になるが、戦後は日経と分離して「日刊工業新聞」として復刊する。高度成長期には工業化の波に乗って部数を伸ばし、日経に迫った。この時期、都道府県庁所在地と工業都市に支社・支局を開設している。専門紙でありながら一般紙並みの支局網を持ち、警察を除く全国の主要記者クラブに日刊工業新聞が加盟しているのも、この頃の名残である。高度成長期には製造業以外の報道でも強みを発揮した。日銀担当(当時)の松本明男記者が「山一危機」をつかみながら、旧大蔵省の圧力を受けた当時の幹部が握りつぶしてしまい、大スクープを逃した話は有名で、「メディアの興亡」や「証券不況」などのドキュメンタリー本で取り上げられている。
1973年の第一次石油ショックで日本の高度成長が幕を下ろすと、日刊工業新聞の部数も低迷する。そのため、エレクトロニクスや情報通信などの新しい製造業にシフトして生き残りを図った。80年代後半から90年代前半のバブル期には低迷していた部数が持ち直し、「流通サービス新聞」を創刊するなど、攻めの経営で業績を伸ばした。経済のグローバル化に対応するため、ニューヨーク・ロサンゼルス・ロンドン・シンガポール・北京に海外支局も開設した。
バブルが崩壊し、90年代後半に入ると、再び部数は下降を始めた。土曜付新聞発行の休止、「流通サービス新聞」の休刊や、人員減、海外支局の全面閉鎖などのリストラを進めたが、業績低迷は続いた。当時、販売で協力関係にある朝日新聞や、東洋経済新報社などとの合併話も流れたが、いずれも実現していない。
2003年9月には経営危機が表面化し、投資会社MKSと主力行のりそな銀行が日刊工業新聞社の再建支援に乗り出した。大規模なリストラも断行し、九段下にあった本社ビルを売却して借入金を圧縮している。東京・大阪・福岡の新聞印刷工場も閉鎖し、2005年には全面委託印刷に切り替えている。現本社は日本橋小網町の住生小網町ビル。経営再建は順調に進んでいるようで、正社員の採用も続けている。土曜日付の新聞発行も月1回のペースで復活した。
[編集] 著名な記者(出身者を含む)
- 花田清輝 (「軍事工業新聞」時代に記者)
- 本所次郎 (運輸、金融、財界担当記者、1937年 - )
[編集] 外部リンク
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