有馬頼寧
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有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日-昭和32年(1957年)1月10日)は日本の政治家。農政研究者。日本中央競馬会第2代理事長。勲一等伯爵。
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[編集] 経歴
旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。学習院中等科、学習院高等科を経て東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵に叙爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1932年に斎藤内閣で農林政務次官、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。
1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任、有馬特例法の公布、中央競馬運営方策要綱案の着手、中山競馬場をはじめとする競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、競馬の発展や大衆化に尽力した。
1957年に急性肺炎のため逝去した。
[編集] スポーツ振興への貢献
[編集] プロ野球
様々な政治・社会活動の他、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名で、1936年に結成された職業野球球団「東京セネタース」(=北海道日本ハムファイターズの前身として戦後の1946年に新結成された同名球団とは直接の繋がりはないが、出身者が創設に関与)のオーナーを務めた。日本野球連盟、日本野球報国会等の相談役を歴任。1969年に野球殿堂入りした。
[編集] 競馬
日本中央競馬会第2代理事長に就任。有馬の尽力により1955年1月に施行された通称「有馬特例法」は、売り上げ金の国庫への納付が免除された臨時競馬の施行を可能とする法律であり、臨時競馬の売上金を競馬場の施設などハード面の整備にあてることで中央競馬発展の基礎を築いた。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られる。具体的にはPR機関中央競馬サービスセンターを創設し、日本短波放送によるレースの実況放送を開始し、競馬場内に託児所や遊園地を設置するなどのほか、1956年にプロ野球のオールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースでファンに喜んでもらおうと、中央競馬のオールスター戦「中山グランプリ」を発案、創設した。
なお、中山グランプリは第一回を盛況に開催したが、それから程なく有馬が急性肺炎にて逝去、その年の暮れに開催された第2回競走からは、これまでの様々な彼の功績を称え「有馬記念」と改称され施行されている。
[編集] 略歴
- 学習院中等科、学習院高等科を卒業
- 1910年7月:東京帝国大学農学科を卒業
- 1918年2月:東京帝国大学農業教員養成所講師
- 1920年11月:東京帝国大学農学部助教授(~1924年3月)
- 1924年5月:衆議院議員(~1927年4月)
- 1926年8月:貴族院議員(~1937年9月)
- 1929年6月:農林政務次官(~1930年4月)
- 1930年4月:産業組合中央金庫理事長(~1934年6月)
- 1934年6月:農林大臣(~1936年1月)
- 1955年4月:日本中央競馬会理事長(~1957年1月)
[編集] 栄典
- 昭和32年1月9日:勲一等瑞宝章
[編集] 家族 親族
[編集] 関連項目
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