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望月一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - )は、静岡県静岡市出身のJリーグ・サンフレッチェ広島GKコーチ。
[編集] 経歴
清水東高、筑波大学を卒業後、1984年にマツダへ入社。マツダSCでゴールキーパーとしてプレーした後、ディド・ハーフナーの加入もあり1988年に引退。その後は同チームやサンフレッチェ広島のGKコーチを歴任。前川和也、下田崇、林卓人、佐藤昭大など、A代表・年代別代表のゴールキーパーを多数輩出し、日本を代表するGKコーチとして活躍する。
1997年、エディ・トムソンに監督が変わるとコーチに就任し、トム・セルマーニと共にトムソン監督の参謀となった。 1998年にはサッカー日本代表GKコーチとしてスタッフ入りし、フィリップ・トルシエ監督のもと、ワールドユースナイジェリア大会やシドニーオリンピック、アジアカップ2000などの試合でチームを支えた。その後、2001年にサンフレッチェ広島へGKコーチとして復帰。
GKコーチとして働いていた2006年4月にチームの成績不振による小野剛監督の辞任に伴い、ドイツW杯開催によるJリーグ中断期間までの監督に就任。わずかリーグ4試合の限定指揮で、2勝1分1敗と結果を残し、暫定監督としての責務を果たした。その後ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任に伴いGKコーチに復帰。
[編集] 逸話
- 清水東高の同級生に大木武。筑波大学時代は松田浩と共にプレー。
- 既にコーチになっていたJリーグ初期の頃、GKの層が薄かった関係で選手登録もされていた。ベンチ入りメンバーに入ったことがある。(出場はない)
- リー・バクスターが若き日に望月から受けた指導のお陰で今日スウェーデンリーグ有数のGKに成長したとして、父スチュアート・バクスター元監督にも賞賛されている。
- 2006年の監督時代、たった2ヶ月間で劇的に立て直す時間はないとの判断から、5バックと中盤2人が常時自陣深くに引いて敵の攻撃を跳ね返し、自チームの攻撃は中盤を省略したロングボール一辺倒という、超守備的なサッカーを展開し、当初サポーターから「つまらないサッカー」との批判を浴びていた。しかしその4試合すべてで先制点を挙げ(それまではリーグ・カップ戦全ての試合で先制点を奪われていた)、しかも2勝1分1敗で勝ち点7あげたことにより残留争いに優位に立てたこと、またバラバラだったチームを一つにまとめ、次のペトロヴィッチ監督につないだことから、2006年の影の功労者としてサポーターから評価されている。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導者経歴
- マツダ/サンフレッチェ広島: GKコーチ 1988 - 1996
- サンフレッチェ広島:トップチームコーチ 1997 - 1998
- 日本代表: GKコーチ 1998 - 2001
- サンフレッチェ広島: GKコーチ 2001 - 2006.4
- サンフレッチェ広島: 監督 2006.4 - 2006.6
- サンフレッチェ広島: GKコーチ 2006.6 -
[編集] 監督成績
年度 |
所属リーグ |
大会名 |
試合数 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝ち点 |
順位 |
チーム |
2006年 |
J1 |
- |
4 |
2 |
1 |
1 |
7 |
15位 |
サンフレッチェ広島 |
[編集] 関連項目