朴智星
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朴 智星(パク・チソン、1981年2月25日 - )は、韓国出身のサッカー選手、同国代表、FAプレミアリーグ・マンチェスター・ユナイテッド所属。
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[編集] Jリーグ時代
明知大学校(韓国)に在学していたが韓国サッカーでは無名の存在だった。明知大の監督と知り合いである当時京都パープルサンガ総監督だった木村文治のスカウトにより大学を休学し19歳で来日、京都パープルサンガに加入する。サンガ在籍中に大阪経済法科大学に入学するなど、日本に溶け込む努力も見せた。このため、日本語も話すことが出来る。
パープルサンガがJ2に降格した2シーズン目から、その活躍ぶりは顕著になる。主にボランチのポジションで38試合に出場、3得点を挙げ、チームのJ1昇格に貢献。同時に韓国A代表でも徐々にレギュラーとしての地位を確立する。
[編集] 2002年 W杯
2002年、21歳で出場した日韓ワールドカップでは、大会ベストゴールの1つに挙げられたポルトガル戦でのスーパーボレーをはじめ、チームの4位入賞に大きく貢献。大会最高の新人選手とも言われた。またW杯後の京都パープルサンガでも、リーグ戦で7ゴールを挙げ、そのシーズンの天皇杯では、決勝で同点ゴールを挙げるなどチームの初タイトル獲得に貢献した。
[編集] オランダ・PSV時代
翌年、元・韓国代表監督であったフース・ヒディンクの推薦を受け、エールディヴィジ・PSVアイントホーフェンに移籍した。
オランダでの3年間で2度のリーグ制覇を経験。特に3シーズン目は中心選手としてチームを牽引した。 そのハイライトが2005年のUEFAチャンピオンズリーグ。前大会準優勝のモナコや強豪リヨンを連破してベスト4まで勝ち上がる。 準決勝でセリエA・ACミランと激突。ミランのホーム、サンシーロで行われた1stLegでは、再三にわたってミランのDF陣を切り裂き、伊紙ガゼッタ・デロ・スポルトに「誰がこの鬼を止められるというのか」とまで賞賛された。そして、PSVのホームに帰った2ndLegでは、鮮やかな先制ゴールを奪い、ミランを敗北寸前まで追い詰めたが、終了間際にマッシモ・アンブロジーニにゴールを決められ、アウェーゴール数の差により決勝進出はならなかった。
これをきっかけに、イングランド・プレミアリーグ名門の1つであるマンチェスター・ユナイテッドFCに移籍した。
[編集] マンチェスター・ユナイテッド
2002年W杯のベスト4と、2005年UEFAチャンピオンズリーグのベスト4(PSV時代)という実績を持って入団したが、加入当初は、英国メディアの論調は厳しかった。それはこれまで、イングランド・プレミアリーグで成功を収めたアジア人選手がいないこと、多くのアジア人選手が、アジアのマーケット開拓の道具として獲得されていることなどから、朴智星もそうした広告塔ではないかと、懐疑の目で見られていた。また、彼の実力を評価していた専門家であっても、マンチェスター・ユナイテッドというビッグチームにあって、果たして出番は与えられるのか、不安視していた。
しかし、周囲の喧騒をよそに05-06年シーズンの開幕戦でいきなり先発出場するや、攻守に献身的なプレースタイルと、質の高いフリーランニングで活躍し、シーズン中盤からはサイドのMFとして完全にレギュラーポジションを確保した。最終的にプレミアリーグでは38試合中33試合に出場し、1得点7アシストを記録。中でもマンUのライバルであるアーセナル戦ではゴールを奪う活躍を見せた。
中盤のポジションならどこでもこなせる高いユーティリティ性から、クラブの貴重選手となっている。
[編集] 2006年 ドイツW杯
朴智星は前回W杯での活躍から韓国のエースとして大いに期待されて本大会に臨んだ。朴は韓国代表を率いるディック・アドフォカート監督の指揮下、4-3-3フォーメーションの中央のミッドフィールダーとして、好守に積極的に走り回る役目を担った。
6月14日にドイツ・フランクフルトで行われたグループリーグ第1戦トーゴ戦ではいつものようにドリブルでトーゴ守備陣を切り裂き、ペナルティエリア周辺で決定的なチャンスを何度も作り出した。トーゴDFのヤオビ・アバロはたまらず朴智星への危険なタックルで前半23分と後半8分にそれぞれイエローカードを受け通算2枚で退場。このファールにより得たトーゴゴール前でのフリーキックを李天秀が直接ゴールに叩き込みこれが逆転勝利への足がかりとなった。
続くグループリーグ第2戦のフランス戦(6月19日、ライプチヒ)、朴はW杯2大会連続ゴールを決めた。この試合、朴は前半早々に1点をリードされる苦しい展開の中、持ち前の運動量を生かして走り回り、後半 36分、薛琦鉉のクロスから曹宰榛の折り返した球をつま先でフランスゴールに押し込んだ。韓国はこのゴールによりこの大会準優勝した強豪フランスから引き分けをもぎ取った。
グループリーグ最終戦のスイス戦(6月24日、ハノーバー)では朴は決定的な活躍をする事ができず、チームも2-0で敗退し、韓国はグループリーグで姿を消すことになった。
[編集] 2006-07 マンチェスターユナイテッド
[編集] エピソード
- 日本語は今でも流暢で外国人独特の訛りが一切なく、会話だけでは外国籍選手との判別は難しい。
- 京都パープルサンガ時代の同僚・松井大輔によればお互いによく電話をしている(日本語で)。
- 松井大輔は常々インタビューで朴智星について言及している。松井曰く、同じ歳の二人は自然とうまが合い、いつも二人でキック練習をしていたという。また、当時既に結婚していた松井の家に、朴智星はよく遊びにいき、松井の夫人がキムチなどの食事を出していたという。
- TVゲームが好きで、休日はいつも家にこもってゲームをしている。
- 憧れの選手について聞かれると、いつも決まって、「いない」と答える。
- PSVアイントホーフェン時代、1年目のシーズンに一時期不調に陥ったことがある。それは交際していた年上の女性と別れたことが原因の心理的スランプだとオランダ紙などで報道され、韓国紙でも「別れた原因はオランダと韓国の遠距離恋愛」などと報じられた。こうした報道に嫌気がさし、ますますふさぎこんだ。
- プレースタイルも全く違うが、地域のスターという意味で、英紙から「アジアのベッカムと呼ばれているようだが」と唐突な質問を受けた。その時に、「僕はベッカムの様にハンサムではないけれど、彼のポテンシャルに近づくことは出来る」と答えている。
- マンUのチームメイトやファーガソン監督からは「Ji(ジー)」というニックネームで呼ばれ、親しまれている。
- アテネ五輪最終予選でのインタビューで、U-23日本代表について聞かれると、「日本は最も注意しなければならない相手だ。」と、日本へのライバル心を公表している。しかし、アテネ五輪は出場辞退。
[編集] リーグ戦成績
- 2000年 京都パープルサンガ 13試合 1得点
- 2001年 京都パープルサンガ 38試合 3得点
- 2002年 京都パープルサンガ 25試合 7得点
- 2002-2003 PSVアイントホーフェン 8試合 0得点
- 2003-2004 PSVアイントホーフェン 28試合 6得点
- 2004-2005 PSVアイントホーフェン 28試合 7得点
- 2005-2006 マンチェスター・ユナイテッド 33試合 2得点
[編集] 外部リンク
マンチェスター・ユナイテッド - 2006-2007 |
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1 ファン・デル・サール | 2 G・ネヴィル | 3 エヴラ | 4 エインセ | 5 ファーディナンド | 6 ブラウン | 7 C・ロナウド | 8 ルーニー | 9 サハ | 11 ギグス | 13 朴智星 | 14 スミス | 15 ヴィディッチ | 16 キャリック | 18 スコールズ | 20 スールシャール | 21 董方卓 | 22 オシェイ | 23 リチャードソン | 24 フレッチャー | 27 シルヴェストル | 29 クシュチャク | 32 カスカート | 33 イーグルス | 38 ヒートン | 監督 ファーガソン | |
韓国代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
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1 李雲在 | 2 玄泳民 | 3 崔成勇 | 4 崔眞喆 | 5 金南一 | 6 柳想鐵 | 7 金泰映 | 8 崔兌旭 | 9 薛琦鉉 | 10 李栄杓 | 11 崔龍洙 | 12 金秉址 | 13 李乙容 | 14 李天秀 | 15 李敏成 | 16 車ドゥリ | 17 尹晶煥 | 18 黄善洪 | 19 安貞桓 | 20 洪明甫 | 21 朴智星 | 22 宋鐘國 | 23 崔殷誠 | 監督: ヒディンク |
韓国代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ||
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1 李雲在 | 2 金泳徹 | 3 金東進 | 4 崔眞喆 | 5 金南一 | 6 金珍圭 | 7 朴智星 | 8 金斗炫 | 9 安貞桓 | 10 朴主永 | 11 薛琦鉉 | 12 李栄杓 | 13 李乙容 | 14 李天秀 | 15 白智勲 | 16 鄭暻鎬 | 17 李浩 | 18 金相植 | 19 曹宰榛 | 20 金龍大 | 21 金永光 | 22 宋鐘國 | 23 趙源煕 | 監督: アドフォカート |