東京慈恵会医科大学附属病院
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東京慈恵会医科大学附属病院 (とうきょうじけいかいいかだいがくふぞくびょういん)は、東京都港区西新橋3-19-18にある大学病院である。病院の基本理念は、「病気を診ずして、病人を診よ」。
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[編集] 概要
東京慈恵会医科大学西新橋キャンパスに併設されている。 病院は、中央棟(A・B棟)を中心に、F棟まである。 中央棟は約20階程度あり、高層階からの眺めは抜群である。特に東京タワーがすぐ隣にあるため、夜景を楽しめる。中央棟の中は病院とは思えないほど綺麗で近代的な造りになっている。
[編集] 基礎データ
- 所在地:東京都港区西新橋3-19-18
- 交通
- 病院長:森山寛
- 副病院長:細谷龍男・落合和徳・橋本和弘
- 看護部長:小路美喜子
- 認定施設
- このほか、各種法令による指定・認定病院であるとともに、各学会の認定施設でもある。
[編集] 診療
- 総合診察部
- 内科
- 小児科
- 皮膚科
- 精神神経科
- 外科
- 整形外科
- 脳神経外科
- 心臓外科
- 産婦人科
- 泌尿器科
- 眼科
- 耳鼻咽喉科
- リハビリテーション科
- 歯科
- ペインクリニック
- スポーツクリニック
- 造血細胞治療センター
- 総合母子健康医療センター
- 小児脳神経外科
- 脳血管内治療部
- 救急部
- 外来棟手術センター
- 外来棟手術室
- エキシマレーザー手術室
- 皮膚レーザー治療室
[編集] その他
- 病院内に、スターバックスコーヒーがあり、待ち時間に利用する患者が多い。
- 東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛は、「脚気」の予防策として、白米に麦をいれる、「麦ごはん」を考案したことで知られ、病院に入院をすると、週1回程度、食事の際、「麦ごはん」が出される。
[編集] 歴史
[編集] 年表
- 1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
- 1887年4月 当時の皇后(昭憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称。
- 1891年2月 高木兼寛が、個人経営のかたちで、東京病院を開院。(慈恵とは、一切関係ない病院である。)
- 1907年7月 社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵会医院と改称。
- 1922年2月 東京病院の経営が、社団法人東京慈恵会に移管され、社団法人東京慈恵会付属東京病院となる。
- 1923年9月1日 関東大震災の影響をうけ、社団法人東京慈恵会附属東京病院および東京慈恵会医院が被災する。
- 1945年5月 大東亜戦争による空襲をうけ、社団法人東京慈恵会附属東京病院が被災する。
- 1947年4月 東京慈恵会医院が、東京慈恵会医科大学附属東京病院南病棟と改称。同時に、従来からある社団法人東京慈恵会附属東京病院は、東京慈恵会医科大学附属東京病院北病棟と改称。
- 1962年10月 病院名を東京慈恵会医科大学附属病院と改称。同時に、東京病院の名称が消えることから、記念碑を設置。
- 1994年2月 特定機能病院として承認される。
[編集] 有志共立東京病院
有志共立東京病院は、日本初の民間による施療(注:施療とは、「無料で医療を施す」という意味である。)病院である。開設者である高木兼寛は、海軍軍医総監であったこともあり、同病院の設立に際し、皇族をはじめ、各界の有力者たちの協力が得られ、大変豪華な設備の病院であったという。