永井隆 (医学博士)
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永井隆(ながいたかし 1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は医学博士。「長崎の鐘」「この子を残して」の著者。
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[編集] 生涯
- 1908年(明治41年)2月3日 島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生する。祖父文隆より1字を授かり隆と命名される。幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごす。
- 1928年(昭和3年)4月 長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学
- 大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献する。
- 1931年(昭和6年) 浦上天主堂近くの森山家に下宿する。なお森山家の一人娘が後に妻となる緑(洗礼名:マリア)であった。森山家はカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われている。
- 1932年(昭和7年)4月 大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組む。
- 1933年(昭和8年)2月1日 幹部候補生として廣島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征する。
- 1934年(昭和9年)
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- 2月1日 帰還する。大学の研究室助手に復帰。
- 6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・無料奉仕活動などを行ない、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
- 8月 森山緑と結婚する。緑との間には一男二女(次女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
- 1937年(昭和12年)
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- 6月 長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。この時、白血球数10万8000、赤血球数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)
- 8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆する。右側頭動脈切断という重症を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。
- 8月10日 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。
- 8月12日 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
- 9月10日頃 昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
- 9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。
- 10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出する。
- 1946年(昭和21年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
[編集] 人物
[編集] 著書
永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。
- 長崎の鐘(1946年8月)
- 原子野録音(1947年~1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載)
- 亡びぬものを(1948年1月)
- ロザリオの鎖(1948年3月)
- この子を残して(1948年4月)
- 生命の河(1948年8月)
- 花咲く丘(1949年4月)
- いとし子よ(1949年10月)
- 乙女峠(1951年4月)
- 如己堂随筆(1957年12月)
- 村医(1978年4月)
- 平和塔(1979年11月)
- 長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載)
[編集] 関連施設
- 如己堂、永井隆記念館 (長崎県長崎市)
- 浦上天主堂 (長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
- 永井隆博士記念館 (島根県雲南市)
[編集] 参考資料
- 長崎市永井隆記念館資料
- 永井隆著「この子を残して」