高階貴子
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高階 貴子(たかしなの きし・たかこ、生年不詳 - 長徳二年(996年)10月没)は平安時代の女流歌人。女房三十六歌仙に数えられる。
通称は高内侍(こうのないし)、または儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。前者は女官名、後者は息子伊周の官名(儀同三司)による。
従二位高階成忠(923 - 998年)の娘、生母は不詳。成忠室には紀淑光女が知られ、貴子はその所生だとすれば、名だたる学者・紀長谷雄の血をひくことになる。兄弟に右中弁信順・木工権頭道順・伊予守明順らがいる。
和歌を能くし、女ながらに詩文に長けた由、『大鏡』など諸書に見える。円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白藤原道隆(953 - 995年)の妻となり、内大臣伊周(974 - 1010年)・中納言隆家(979年 - 1044年)・僧都隆円(980 - 1015年)の兄弟及び長女定子を含む三男四女を生んだ。
定子が一条天皇の中宮に立てられたため、正暦元年(990)10月26日、従五位上から正三位に昇叙。一方、貴子腹の嫡男伊周も急速に昇進し、正暦三年十九歳にして権大納言に任ぜられ、翌々年さらに内大臣に昇ったため、貴子は末流貴族の出身ながら関白の嫡妻、かつ中宮の生母として栄達し、高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。
ところが、長徳元年(995)4月10日に夫・道隆が病死すると、息子の伊周と隆家は叔父道長との政争に敗れ、権勢は瞬く間に道長側に移った。翌年になって、伊周と隆家は、花山院に矢を射掛けた罪によって大宰権帥・出雲権守にそれぞれ左降・配流。貴子は出立の車に取り付いて同行を願ったが、許されなかった。その後まもなく病を得て、息子の身の上を念じながら、同年10月末に薨去した。四十代であったと推定される。
「中の関白かよひそめ侍りける頃」詠んだという次の和歌が小倉百人一首に採られて有名である。
「忘れじの行末まではかたければ 今日を限りの命ともがな」