田中義雄
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田中 義雄(たなか よしお、1907年4月2日 - 1985年4月10日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身。昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代)のプロ野球選手・プロ野球監督。日系アメリカ人で後に日本国籍を取得。右投げ右打ち。ポジションは捕手。通称、カイザー田中。
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[編集] 来歴・人物
マッキンリー・ハイスクール、ハワイ大学を経て、エンドルーコックス・ハイスクールで教員となる。在職中は野球部監督も務めた。その後教職を辞し、1937年秋大阪タイガースに入団した。これは、田中が入団する前年に名捕手小川年安が退団していたこともあり、同じ日系アメリカ人だった若林忠志投手が強く勧誘したことと、日米関係の悪化に伴い、教員を続けるには日本国籍を捨てなくてはならなくなり(カイザーはアメリカと日本の二重国籍であった)、それに広島県出身の母親が強く反対したため、教員を続けられなくなったことがあったといわれている。(しかし、カイザーは1945年から占領軍の軍属として働くが、その際に日本国籍の破棄を求められ、日本国籍を捨てている。)東京巨人軍も関心を示したが、田中が眼鏡をかけていたため、眼鏡の捕手はいらないという理由で契約はしなかった。
入団直後に、四番捕手として試合に出場し、その後、7年間にわたってタイガースの正捕手としてプレーした。この間、1937年秋から1938年春にかけてのリーグ2連覇と年度優勝に大きく貢献し、日本一の捕手の座についた。ドイツ語で皇帝を「カイザー」と言うことから、キング・オブ・キャッチャーと呼ばれる代わりに、カイザー田中と自ら名乗った。愛称とは対照的に温厚な性格だったが、当時はその意味が一般的には知られておらず、カイザー田中が本名だと思い込んでいたファンも多かったという。なお、「カイザー」の仇名は田中がハワイ大学在学中にドイツ贔屓の演説をしたから付けられたという。
当時、日本よりも技術面で進んでいたハワイの第一線でプレーしていたこともあり、インサイドワークなどでは他を圧倒していた。さらに、盗塁阻止の技術に加えて、戦時中の選手が不足した時期には投手を務めたほどの強肩を持ち、盗塁はほとんど許さなかった。打撃面でも好成績を残し、特に当時球界を代表するエースピッチャーであった沢村栄治に対しては無類の強さを誇った。
同時期に門前眞佐人が控え捕手として在籍しており、阪神の2枚看板として知られた。現在のオールスターゲームにあたる東西対抗戦には田中が5度、門前が3度出場し、タイガースの捕手が出場しなかった年は存在しない。1944年途中、軍に召集されて退団するとそのまま引退した。
1958年から1959年まで阪神の監督を務め、小山正明、村山実の投手2本柱や、鎌田実、吉田義男、三宅秀史の鉄壁の内野陣などを育成して、1960年代の2度の優勝の基礎を作った。その後、1961年から1964年まで大毎・東京のコーチ、二軍監督を歴任した。
1985年のセ・リーグ開幕直前の4月10日、死去。享年78。
[編集] 通算成績
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
1958年 | 昭和33年 | 2位 | 130 | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.5 | 88 | .238 | 2.55 | 51歳 | 大阪 |
1959年 | 昭和34年 | 2位 | 130 | 62 | 59 | 9 | .512 | 13 | 76 | .237 | 2.37 | 52歳 | |
通算 | - | - | 260 | 134 | 117 | 9 | .534 | - | - | - | - | - |
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。