小山正明
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小山 正明(こやま まさあき、1934年(昭和9年)7月28日 -)は、(プロ野球選手(投手)、野球解説者。右投げ右打ち。2001年(平成13年)野球殿堂入り。阪神時代は村山実とともにダブルエースとして活躍し、東京・ロッテ時代は成田文男、木樽正明とともに3本柱として活躍した。引退後は阪神、西武、ダイエーの投手コーチを歴任した。
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[編集] 来歴・人物
通算73無四球試合を記録するなど制球に長け、「針の穴を通すコントロール」「精密機械」と称された。兵庫県立高砂高等学校3年秋の1952年(昭和27年)に大阪タイガースのテストを受けるも結果通知がこなかったため大洋ホエールズの入団テストを受ける。しかし、この年大洋ホエールズは松竹ロビンスとの合併により選手が溢れていたため不合格となる。その後、合格通知がタイガースより届きテスト生として入団。もし大投手・小山が大洋に合格していたら、どうなっていただろう。
当初は打撃投手としての扱いを受けながらも、藤村富美男や金田正泰、後藤次男ら打者陣の厳しい要求に応えるうちに、また先輩に渡辺省三というコントロール抜群のお手本がいたこともあって制球に磨きがかかり、1年目1953年(昭和28年)には5勝、2年目の1954年(昭和29年)に11勝をあげて頭角を現す。1956年(昭和31年)から主力投手として本格的に登板。1958年(昭和33年)から3年連続20勝以上。1962年(昭和37年)は村山実と共にエースとしてチームの優勝に貢献。シーズン最終戦となる甲子園での対広島戦に完封勝ちをおさめて優勝を決め、胴上げ投手となった。
ファンの間ではシーズンMVPは勝利数の小山か防御率の村山かで激論が交わされた。結果として、村山がMVP、小山が沢村賞をそれぞれ受賞した。村山がMVPとなったのは、村山が最優秀防御率を取ったのに対し、小山が無冠だったことも影響したとされる。小山は村山(25勝)を上回る27勝をあげたが、最多勝は30勝の権藤博だった。また、5試合連続を含む13完封(いずれも2006年現在もセリーグ記録)をあげながら、防御率でわずかに村山に及ばなかった。当時、MVPは全日程終了前に投票を締め切って日本シリーズ前に発表されており、それがシリーズに影響したともいわれる。このためMVPは翌年から全日程終了後に投票・シリーズ後に発表となり、名称も「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められた。
1963年(昭和38年)オフ、長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった東京との思惑が一致し、小山と山内一弘の「世紀のトレード」が成立して小山は東京に移籍。移籍の伏線として、大卒の村山にMVPをさらわれた不満が小山にあったとか、前年の日本シリーズ第7戦で試合が延長に入り、出番がないと思って風呂に入って“上がってしまった”(詳細は1962年の日本シリーズを参照)ことが阪神が日本一を逸した一因とされたからだ、などのうわさが立った。
東京の本拠地球場は甲子園よりも狭い東京スタジアムであったため小山の移籍は不利であると思われたが、王貞治を打ち取るために覚えた新球パームボールを用いた打たせて取る投球を駆使し、移籍1年目の1964年(昭和39年)に30勝をあげ最多勝に輝いた。続く1965年(昭和40年)と1966年(昭和41年)に2年連続20勝。1970年(昭和45年)のリーグ優勝に多く貢献した。この結果、セパ両リーグから日本シリーズに登板している。また、セパ両リーグで100勝を記録しているが、2006年現在小山以外に達成者はいない。
東京に移籍した小山は独身寮に単身赴任していた。入団したばかりの村田兆治が、徹夜マージャンから朝帰りしたとき、ランニングに出かける小山と鉢あわせした。村田はとっさに何も言わず、自分の部屋に逃げ込んだという。その後練習中に村田が謝りに行くと「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と諭され、300勝投手に声をかけられた村田は感激したという。
1972年(昭和47年)に引退し1973年(昭和48年)に大洋の投手コーチに就任するが、シーズン途中、青田昇監督の要請で現役に復帰して同年限りで引退。交換トレードによる移籍だったので、コーチ専任だった前半も登録上は現役だった模様である。なお、この移籍の際、ロッテ側は、功労金を渡している(中村長芳前オーナーと小山の間に約束があった)。
[編集] 投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1953年 | 阪神 | 16 | 3 | 1 | 0 | 5 | 1 | 60.2 | 60 | 4 | 17 | 22 | 23 | 3.39 |
1954年 | 阪神 | 40 | 5 | 1 | 1 | 11 | 7 | 166 | 148 | 15 | 45 | 75 | 56 | 3.04 |
1955年 | 阪神 | 27 | 5 | 1 | 2 | 7 | 4 | 131 | 110 | 4 | 34 | 75 | 33 | 2.27 |
1956年 | 阪神 | 59 | 8 | 4 | 3 | 17 | 13 | 232.1 | 134 | 8 | 44 | 220 | 43 | 1.66(6) |
1957年 | 阪神 | 52 | 14 | 5 | 6 | 15 | 17 | 250 | 192 | 9 | 44 | 201 | 66 | 2.38(8) |
1958年 | 阪神 | 53 | 24 | 4 | 10 | 24 | 12 | 313.1 | 226 | 15 | 51 | 252 | 59 | 1.69(4) |
1959年 | 阪神 | 52 | 22 | 8 | 6 | 20 | 16 | 344 | 246 | 24 | 67 | 254 | 71 | 1.86(3) |
1960年 | 阪神 | 60 | 23 | 7 | 5 | 25 | 19 | 362 | 287 | 20 | 74 | 273 | 95 | 2.36(6) |
1961年 | 阪神 | 46 | 18 | 4 | 3 | 11 | 22 | 291.1 | 222 | 20 | 69 | 204 | 78 | 2.40(8) |
1962年 | 阪神 | 47 | 26 | 13 | 10 | 27 | 11 | 352.2 | 268 | 19 | 66 | 270 | 65 | 1.66(2) |
1963年 | 阪神 | 34 | 12 | 0 | 1 | 14 | 14 | 233 | 218 | 27 | 70 | 98 | 93 | 3.59(15) |
1964年 | 東京 | 53 | 25 | 3 | 3 | 30 | 12 | 361.1 | 300 | 26 | 93 | 193 | 99 | 2.47(3) |
1965年 | 東京 | 50 | 22 | 4 | 3 | 20 | 20 | 322.1 | 270 | 30 | 90 | 171 | 84 | 2.35(6) |
1966年 | 東京 | 49 | 23 | 7 | 7 | 20 | 13 | 304 | 266 | 24 | 46 | 187 | 70 | 2.07(2) |
1967年 | 東京 | 44 | 9 | 1 | 3 | 13 | 11 | 225.1 | 223 | 26 | 62 | 126 | 81 | 3.24(18) |
1968年 | ロッテ | 25 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 87 | 82 | 11 | 31 | 53 | 32 | 3.31 |
1969年 | ロッテ | 33 | 8 | 2 | 1 | 11 | 7 | 182.1 | 173 | 15 | 36 | 136 | 60 | 2.97(12) |
1970年 | ロッテ | 38 | 18 | 4 | 3 | 16 | 11 | 242.2 | 199 | 19 | 48 | 141 | 62 | 2.30(3) |
1971年 | ロッテ | 35 | 16 | 1 | 5 | 17 | 8 | 211 | 213 | 22 | 47 | 111 | 76 | 3.24(8) |
1972年 | ロッテ | 28 | 7 | 2 | 1 | 9 | 6 | 152.1 | 167 | 21 | 34 | 57 | 69 | 4.09(18) |
1973年 | 大洋 | 15 | 2 | 2 | 0 | 4 | 4 | 74.1 | 64 | 6 | 19 | 40 | 21 | 2.55 |
通算成績 | --- | 856 | 290 | 74 | 73 | 320 | 232 | 4899 | 4068 | 365 | 1087 | 3159 | 1336 | 2.45 |
- 通算登板 856(歴代4位)
- 通算完投 290(歴代5位)
- 通算完封勝 74(歴代3位)
- 通算無四球試合 73(歴代2位)
- 通算勝利 320(歴代3位)
- 通算敗北 232
- 通算セーブ (導入前)
- 通算セーブポイント (導入前)
- 通算勝率 .580
- 通算投球回 4899(歴代3位)
- 通算被安打 4068(歴代4位)
- 通算被本塁打 365
- 通算与四球 978
- 通算与死球 109
- 通算奪三振 3159(歴代3位)
- 通算防御率 2.45
[編集] 打撃成績
- 通算試合 869試合
- 通算打率 .157
- 通算安打 244本
- 通算本塁打 9本
- 通算打点 76打点
- 通算盗塁 1盗塁
- 通算犠打 109個
- 通算犠飛 2本
- 通算四球 35個
- 通算死球 3個
- 通算三振 372三振
- 通算併殺打 30個
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 1回(1964)
- 最高勝率 1回(1962)
- 最多奪三振 1回(1962)
- 沢村賞 1回(1962)
- 野球殿堂入り (2001)
- シーズン30勝以上 1回 (1964)
- シーズン20勝以上 6回 (1958~1960,1962,1965,1966)
- 5試合連続完封勝利 (1962.7.7~7.22)
- 47イニング連続無失点 (1962.7.7~7.29)
- オールスターゲーム選出 11回(1957~1960、1962~1967、1970)
[編集] 背番号
- 49(1953年)
- 6(1954年~1956年)
- 14(1957年)
- 47(1958年~1973年)
- 71(1974年~1975年)
- 81(1982年~1983年、1998年)
- 87(1990年~1991年)
- 82(1993年~1994年)
[編集] 現役引退後
引退後は1974年(昭和49年)~1975年(昭和50年)(金田監督、吉田義男監督)、1982年(昭和57年)~1983年(昭和58年)(安藤統男監督)、1998年(平成10年)(第3次吉田監督)に阪神投手コーチ。
他球団では1990年(平成2年)~1991年(平成3年)(森祇晶監督)西武投手コーチ。1993年(平成5年)~1994年(平成6年)(根本陸夫監督)ダイエー投手コーチ。
1976年(昭和51年)~1981年(昭和56年)と1984年(昭和59年)~1989年(平成元年)までは朝日放送野球解説者を務めた、現在はサンテレビ野球解説者、デイリースポーツ野球評論家として活躍しており、制球力の無い投手や逆球の多い投手に対して辛口のコメントを行っている。
[編集] エピソード
- 阪神時代は王貞治を苦手とし、王が新人で「三振王」と揶揄された頃の天覧試合でもホームランを打たれている。チームが優勝した1962年も一本足打法に切り替えた王に一試合3ホーマーを喫したことがあった。このため、王対策として身につけたのがパームボールだった。このおかげで1963年には王からの被本塁打は激減、さらに上記の通り移籍後も決め球として大いに役立った。
- 試合開始直後の打者に打たれただけの準完全試合を記録している。
- 2006年に藤川球児に破られるまでの44年間、連続イニング無失点の球団記録(47イニング)を保持していた(セリーグ記録の5試合連続完封の際に樹立)。
- コントロールのない投手にたいしてコメントは熾烈を極める。当初バッティングピッチャーとして入団し、藤村富美男、金田正泰などベテラン相手に指名されることが多かった。打ちやすいストライクに入らないと、藤村はバットを投げ捨てベンチに引き上げてしまうので、クビにならないように必死だった。「戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐している。
- 村山との確執はよく言われるが、二人のプレースタイルが対照的だったことがうわさを膨らませた。小山は大量点でリードしていても、鬼の形相で投げ続ける村山に「適当に力抜かんとパンクしてしまうぞ」と声をかけたという。しかし村山は「力抜くとキャッチャーまでとどかないような気がする」と答えたという。小山は「なんだあいつ、かっこつけやがって」と思っていたそうである。だが、村山の葬儀の際、小山は「頭に白いものが目立ち、この年になって村さんの言葉がようやくわかるようになった」と述べている。二人の関係はそれほど険悪ではなかった、と関係者の多くは証言している。
[編集] 関連項目
- 兵庫県出身の有名人一覧
- 松木謙治郎
- 藤村隆男
- 田中義雄
- 後藤次男
- 梶岡忠義
- 田宮謙次郎
- 真田重蔵
- 三宅秀史
- 西尾慈高
- 岸一郎
- 藤本勝巳
- 鎌田実
- 並木輝男
- 遠井吾郎
- 久代義明
- 藤井栄治
- 辻恭彦
- ジーン・バッキー
- 辻佳紀
- 本堂保次
- 榎本喜八
- 坂井勝二
- 山崎裕之
- 田丸仁
- 濃人渉
- 八木沢荘六
- 吉岡悟
- ジョージ・アルトマン
- 有藤道世
- 飯島秀雄
- 飯塚佳寛
- 江藤愼一
- 浜浦徹
- 大沢啓二
- 弘田澄男
- 成重春生
- 近藤昭仁
- 伊藤勲
- 松原誠
- 江尻亮
- 平松政次
- 山下律夫
- 福嶋久晃
- 小谷正勝
- 中塚政幸
- 間柴茂有
- 鵜沢達雄
- ジョン・シピン
- クリート・ボイヤー
- 高木由一
- 長崎慶一
- 田代富雄
[編集] 外部リンク
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