静岡県立掛川西高等学校
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静岡県立掛川西高等学校 | |
過去の名称 | 冀北学舎 静岡県立掛川中学校 佐野郡城東郡立掛川中学校 静岡県立掛川中学校 静岡県立掛川第一高等学校 |
創立 | 1901年(明治34年)6月1日 |
校長 | 八木義雄 |
設置課程 | 全日制普通科 全日制理数科 |
所在地 | 〒436-0054 静岡県掛川市城西1丁目1‐6 |
地理情報 | 北緯34度46分20秒 東経138度0分57秒 (世界測地系) |
電話番号 | 0537-22-7165 (代表) 0537-22-1765 (FAX) |
外部リンク | 公式サイト |
静岡県立掛川西高等学校(しずおかけんりつ かけがわにしこうとうがっこう)は、静岡県立高等学校の一つ。
文武両道を旨とし、創立から100年以上の歴史を有する遠州地方屈指の伝統校・進学校である。県内では高校野球の名門校である。地元では西高もしくは掛西と呼ばれている。
目次 |
[編集] 設置学科
[編集] 校訓
- 「鍛えよう若き日を」
[編集] 地理
- 学校は掛川市の中心市街地にあり、校地に隣接して東に掛川城、北に国道1号、南に逆川がある。この中でも特に掛川城の麓に存在することは校歌にも歌われておりこの学校の大きな特徴のひとつであるが、中心市街地に3.7haの土地を占めていることから、しばしば移転論が出ることがある。掛川駅から徒歩約10分。
- 掛川城をはさんだ東側に静岡県立掛川東高等学校が存在したが、東高が西高の南西3.5kmの位置に移転したため現在では校名と位置関係が逆である。
[編集] 歴史
- 1877年(明治10年) 岡田良一郎が倉真村(現在の掛川市倉真)に私塾「冀北(きほく)学舎」を設立。
- 1880年(明治13年) 静岡県立掛川中学校として設立。岡田良一郎が校長を兼任。
- 1882年(明治15年) 佐野郡城東郡立掛川中学校となる。
- 1886年(明治19年) 中学校再編により浜松中学校と統合。掛川中学校廃止。
- 1901年(明治34年) 静岡県立掛川中学校として設立。開校式の行われた1901年6月1日を創立記念日とする。
- 1948年(昭和23年) 学制改革により静岡県立掛川第一高等学校となる。
- 1949年(昭和24年) 静岡県立掛川西高等学校と改称する。男女共学となる。
- 1986年(昭和61年) 理数科を設置する。
- 2007年(平成19年) 時報をブザーからチャイムに改める。
[編集] 服装
- 男子
- 女子
- 冬は紺色のダブルのブレザー(裾短め)に同色の襞スカートを着用し、校章を左襟上方につける。靴下は特に指定はない(ただしルーズソックス禁止)が、ほとんどの生徒が紺ハイソックスである。シャツは白Yシャツ。夏は所定の白の上着に、冬と同様のスカートを着用。中間服として、シャツの上にクリーム色で右胸にワンポイント刺繍があるベストを着用。冬季は指定のベスト以外の|ベストやセーター等の着用も許可されるが、ブレザーを脱いだ際、シャツのみや指定のベスト以外の衣服(ジャージ含む)の着用は「風紀上の理由」として禁止されている。ブレザーの裾が短い為、中に着たベスト、セーター等を裾からほとんどの女子生徒が出しているが、これも指導対象となる。
- 共通
- その他
- 男子の服装指導はそれほど厳しくないが、女子に対する指導は厳しく、スカート丈は近隣高校に比べると長めである。
[編集] 部活動
- 音楽部
- 吹奏楽部
- 自然科学部
- 美術部
- 書道部
- 科学技術部
- 写真部
- 文芸部
- 演劇部
- ギター部
- 囲碁部
- 将棋部
- 食物研究部
- 英語部
- クイズ研究部
- パソコン部
- 茶華道部
- 野球部
- 男子バレー部
- 女子バレー部
- サッカー部
- 男子テニス部
- 女子テニス部
- 柔道部
- 剣道部
- 水泳部
- 陸上競技部
- 卓球部
- 弓道部
- バドミントン部
- 男子バスケット部
- 女子バスケット部
- アウトドア部
- 応援団指導部
- ダンス部
- 柳田国男を読む会
- 軽音楽サークル
- ビリヤードサークル
- ソフトテニスサークル
- 競技カルタサークル
- 社会文化研究会
以上6サークルは、平成19年度にメンバー募集を停止することが決定している。
[編集] 甲子園出場
[編集] 夏の甲子園
[編集] センバツ
[編集] 著名な出身者
- 柳澤伯夫(衆議院議員、自由民主党、厚生労働大臣)
- 榛葉賀津也(参議院議員、民主党)
- 石川嘉延(静岡県知事、第二東名自動車道建設促進期成同盟会会長)
- 榛村純一(前掛川市長)
- 太田順一(菊川市長)
- 常盤敏時(イオン株式会社 取締役会議長)
- 所十三(漫画家。『疾風伝説 特攻の拓』『名門!多古西応援団』など)
- 望月正子(児童文学作家)
- 三戸岡道夫(作家、大日本報徳社副社長)
- 高木まみ子(女優)
- 栗田子郎(千葉大学名誉教授、理学博士)
- 村松幸雄(プロ野球選手(投手)、名古屋軍(現中日ドラゴンズ))
- グアム島にて戦死。『戦場に散ったエース―投手・村松幸雄の生涯』 (ISBN 488683325X)
- 鵜藤俊平(ベルリンオリンピック銀・銅メダリスト、競泳男子400m自由形)
- 田辺昭三(考古学者)
- 村松岐夫(学習院大学法学部教授)
- 高須基仁(写真集編集者)
- 山崎諭(東京六大学野球・東大投手 / 東大唯一の2位の時のエース)
- 高須沙知子(NHK静岡キャスター)
[編集] 野球と応援団
野球の名門校であり、その応援にも力を入れている。
全校生徒が一丸となって応援団を結成するという考えから、例年、應援團指導部(通称エンダン)による熱血的な応援指導が行われている。特に一学期においては新入生に対する応援指導は厳しいが、この応援指導により結束感を高める狙いがあり、異なる中学校から進学した新入生たちのコミュニケーション形成にも役立っている。
応援の際には校名を「掛高」と称するが、同校の歴史上、「掛川高校」という名称を称したことは一度もない。対戦相手が「掛工」(静岡県立掛川工業高等学校)の場合は、例外的に「西高」と称している。
應援團指導部員の赤いユニフォームと唐傘を回しての応援は有名である。
[編集] 校歌
- 静岡県立掛川西高等学校校歌
- 制定年:不詳(概ね1904年(明治37年)ごろとされている)
- 作詞:藤井金吾
- 作曲:不詳(塙福寿とする資料もある)
- 第一応援歌
- 制定年:不詳
- 作詞:不詳
- 作曲:不詳
- 第二応援歌
- 制定年:1963年(昭和38年)
- 作詞:高橋昭夫
- 作曲:水谷直子
- 野球の応援においては本校が得点した際に斉唱する
群馬県立沼田高等学校と、校歌が歌詞、曲ともに酷似している。掛川西高で国漢教師をしていた岩崎莞爾教諭がその後沼田高で校歌の制定に携わったためと伝えられている。
- 掛川西高等学校校歌 [1] (Windows Media Audio形式)
- 沼田高等学校校歌 [2] (Standard MIDI形式)
[編集] 学校祭
- 葛城祭(かつじょうさい)
[編集] 掛西紛争
1969年、全国の安保闘争のあおりを受け、西高でも学園紛争が勃発した。生徒から逮捕者4名を出した「掛西紛争」である。
発端は、アジア太平洋閣僚会議(ASPAC。伊東市川奈で開催)の開催を阻止すべく1969年6月8日に行われた「ASPAC闘争」と呼ばれるデモ。
学校側は、このデモに参加した3年生8人に対する無期限の謹慎処分を決定。これに反発した生徒会長をはじめとする十余名の生徒らが「掛西反戦会議」を名乗り処分撤回を求め抗議行動を展開した。そしてこの抗議行動に外部の政治団体が加わるなどし、紛争の規模が急速に拡大。8月31日には若者ら300名と機動隊300名が衝突する騒ぎとなった。ただしこの騒ぎに参加した生徒はごく一部であり、ほとんどの生徒はこの動きを冷視していたと伝えられている。
掛西紛争は、高校生の活動が発端となって起こった学園紛争の希な例であり、大学生を中心に行われていた安保闘争が高校生に飛び火し拡大するのではと、当時全国から注目された。
[編集] モデル
掛川市出身の漫画家が当校をモデルとしている。ただし、架空の物語である。
[編集] 所在地
〒436‐0054
静岡県掛川市城西1丁目1‐6
TEL 0537‐22‐7165
FAX 0537‐22‐1765