井端弘和
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井端 弘和(いばた ひろかず 1975年5月12日- )は、神奈川県川崎市出身。プロ野球選手。中日ドラゴンズに所属する内野手。背番号は6。
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[編集] 特徴
ショート定着後「守備率.990」(遊撃手で.990を超えるのは至難の業である)を下回ったことのないハイレベルで安定した守備力と、右方向を狙うしぶとい打撃力を兼ね備えた、球界を代表する名ショートの1人である。なおショートで「守備率.990」以上を超えるのは至難の業であるが、現ソフトバンク2軍コーチ鳥越裕介が中日時代の97年にショートでの守備率.997を記録しており、井端はこの守備率以上の数字を目標としている(マンガのネタにもなっている)。守備に就くと広い守備範囲と速く正確な送球、セカンド荒木雅博との創造的なコンビネーションが見もので、捕球後の素早い回転スローは絶妙である。かなり送球の困難な体勢であっても中日のファーストを守るタイロン・ウッズに捕球しやすく心がけているようだ。
打席に入れば空振りが少なく、追い込まれてもファールで粘る堅実な打撃で投手を追い詰める中距離打者。確実にランナーを進め、還すことができ、一塁上に荒木雅博を置いたときの右打ちエンドランには定評がある。かつては得点圏打席での淡白で頼りない打撃が欠点だったが、落合博満監督の指導もあって成長し、2004年は3割、2005年は4割を越える得点圏打率(規定打席到達者の中でリーグ1位)を残した。
日本シリーズには過去2回(2004年、2006年)出場しているがいずれもチームは敗退(2004年は3勝4敗、2006年は1勝4敗)して涙を呑んでいる。そのため、チームメイトと共に日本一にかける思いは相当強い。
[編集] 経歴
- 1997年 ドラフト5位で中日に入団
- 2001年 IBAFワールドカップ日本代表
- 2002年 第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表、ベストナイン受賞
- 2003年 アジア野球選手権日本代表
- 2004年 ゴールデングラブ、ベストナイン獲得
- 2005年 ゴールデングラブ、ベストナイン獲得
- 2006年 ゴールデングラブ、ベストナイン獲得
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入りまで
少年時代は川崎市在住だったこともあり、頻繁に川崎球場のロッテオリオンズ戦を観戦。このときに後の監督、現役時代の落合博満のホームランボールを運良く手に入れたという。また、戦前の詩人である佐藤惣之助の生家跡(現川崎信用金庫本店)は井端の実家のすぐ近所にあり、阪神タイガースの公式応援歌『六甲おろし』もそこで作詞された。
当初は投手として始めた野球も、中学時に野村克也に見込まれ内野転向。野村沙知代がオーナーの港東ムースに所属。堀越高校時代は2年センバツ、3年夏の甲子園に出場。亜細亜大学では二塁手としてベストナイン3回。
[編集] プロ入り以後
俊足と巧打、守備を期待され1997年ドラフト5位で指名され、中日に入団(当時の背番号は48)。1年目から本職のショートはもとより代走・代打・セカンド・ライトなど状況を選ばず一軍出場。しかし翌1999年は一軍出場ゼロで、チーム11年ぶりのリーグ優勝には貢献できなかった。2000年(3年目)には「韓国のイチロー」李鍾範、大型遊撃手福留孝介の守乱から、一気にショートを奪取。高い守備力でライバルを抑え込んだ。
2001年シーズンには、遊撃手としてレギュラーに定着して全試合フルイニング出場を果たすと2002年にはショートでベストナインに輝く。2003年から背番号を6に変更。前年まで6番を背負っていた久慈照嘉から「覚悟して」受け継いだ。2004年からは本格的に荒木雅博と「打って1・2番、守って二遊間」のコンビを組み、チームの柱としてチームを牽引。攻守に活躍し2度目のベストナイン、初のゴールデングラブ賞を受賞した。2005年シーズンは打撃で大活躍、打率等において全て自己新記録を樹立する。2年連続でベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。2006年は打率、安打数は前年より下回ったものの、ホームラン数は自己最多を記録、3年連続でベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得した。
2004年、2005年シーズンは選手会長を経験。不調だった2002年終盤と2003年には「春先からずっと野球をやってきて、疲れている中よくやっている方だと思う」「肘が痛いけど、レギュラーを奪われたくないから出ている。打てなくても仕方が無い状況にあるとは思う」など、『言い訳』が多い印象がありファンの反感を買うこともあったが、2004年以降は選手会長の自覚や、自身の好調もあってか言い訳を口にすることは全く無くなった。2006年序盤の不調については「慣れ親しんだ2番ならいつでも打てるという自身の油断が招いた」と自身の責任を口にし、人間として成長したことを示した。
2006年度はシーズン序盤に不振に陥る。落合監督夫人の落合信子に相談し(この時は自身の成績について「レギュラーを外されてもおかしくない」と電話で言ったが、代わった落合監督が「お前を外すわけが無い」と述べた)、叱責も受けるほどだった。この後夏場になるにつれて打率が上がり、バントはチーム1位。守備でも貴重な働きをした。またこの年は、打率、本塁打、打点と三部門全て、同ポジションの二岡智宏を下回っており、2年連続のベストナイン受賞が危ぶまれたが、チームが優勝したこともあり受賞した(セカンド・荒木も受賞しており、3年連続での同一球団ニ遊間受賞は史上初の快挙)。
プロ入り前、2度の目の大怪我の後遺症により重度の近視になってしまい、試合時はコンタクトレンズをつけて出場し、それ以外は眼鏡を使用していたが、レーシック(視力矯正手術)を受ける。ドームでは空調により空気が乾燥するため、打席でよくまばたきをしている場面がみられた。2005年シーズン中に視力の悪化がみられ、再手術をおこなった。また、このシーズンでは連続フルイニング出場を続けていたが、これが原因で逃してしまっている。(全試合出場は果たしている)2006年は前年に達成できなかったフルイニング出場を果たした。なお、川相昌弘の引退試合では川相に敬意を払って、試合途中に遊撃を川相に譲り、三塁を守った。
[編集] 国際経験
国際経験は多く、2001年台湾で開催されたIBAFワールドカップ(4位)、2002年キューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップ(準々決勝リーグ敗退)日本代表を経て、2003年アテネオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権では肘に怪我を抱えていたが長嶋ジャパンのメンバーに選ばれDH井端として出場。全日本のオリンピック出場に貢献した。
[編集] その他
- 二遊間を組む荒木と仲がいい。
- ファンの間での愛称は「いばちん」。たまに「井端」と「好打者」をかけて「いいバッター」などとも呼ばれる。
- ドラゴンズファンの間では、応援歌に入る前の独特の応援スタイル(メガホンを使いファンファーレに合わせ)で盛り上がり(2003年から)、応援に統一感が出ている。
- 2000年にレギュラー遊撃手として定着するまでは、二塁、三塁、外野とさまざまなポジションを経験している。
- 現在独身・独居中により自炊。特に堀越高校時代に覚えたというカレーライスの味は球界関係者からファン(以前雑誌で井端自らカレーのレシピ・作り方を公開したことがあった)の間にまで好評を博している。
- 同い年(ドラフトでも同期入団)で同様に独身の川上憲伸とは毎年、お互いに「俺のほうが先に結婚する」と言い合っているという。
- ペットとしてミニチュアダックスフントを飼育している。名前は『マックス』。
- グラブにはかなりのこだわりを持っており、型崩れしないようによジュラルミンケースに練習用のグラブや実戦用のグラブを入れ、丸めた新聞紙などで固定するほどである。ベンチにグラブを置くときも気を使っているとのこと。
- 2006年、開幕から3番を任せられるも、調子が上がらず2番に戻るが、戻ってからも不振がしばらく続いた。その際、本人は2番の時の感覚を取り戻そうと、徹夜して投手の特長などを必死に覚えたという。その甲斐もあってか、4月終了時点で.188だった打率が5月末には.219、6月末には.255と、少しづつ上昇した。そして開幕直後3番を打ってた福留の怪我(7月8日に登録抹消)もあって再び3番を任せられ、3番に入ってから3HRと一発を打てる勝負強さを見せる。同じ3番でも開幕時と違って好調だったのは、打順における意識の違いを消し去ったことや(開幕時はポイントゲッターという立場を意識しすぎた)2番(前を打つバッター)が荒木だったことも影響しているとの見解がある(福留が復帰するまでの打順は1番森野、2番荒木、3番井端であり、開幕時は1番荒木、2番藤井、3番井端だった)。
- 相方の荒木と繰り出すスイッチトス(二塁やや一塁側のセンターに抜けようかというゴロを荒木が逆シングルで捕球。体勢はそのままで井端にボールをグラブトス、ボールを受け取った井端が素早く一塁へ送球し補殺する一連のプレー)は年に一度出るかどうかの大技。(しかし井端、荒木の両者は、「一番の大技はナベさん(渡邊博幸)のヒールトスだ」と語っている)このプレーの成功を確信したのは2003年5月12日の横浜戦。打者鈴木尚典の所で2004年の新井とほぼ同じプレーをしたときにギリギリのセーフであったことから条件が整えば(つまり、右打者であれば)アウトに出来ると確信。翌年以降、3年連続でこのプレーを成功させる。ちなみにこの2日後に渡邉の神業が出た。
- 2006年9月9日の広島市民球場での広島戦において嶋重宣のイレギュラーバウンドした打球を弾いてしまいエラーと記録されたため、それまでセ・リーグのショート連続守備機会無失策の記録が513と途絶えてしまった(尚、これはリーグ新記録と同時に自己新記録)。広島市民球場でのエラーは2002年以来だった。この時解説をしていた達川光男が「嶋は1本ヒットを損したし、井端にも(記録の途切れる)勿体ないエラーだった。誰も得しないね、このジャッジは。」と思わず言ってしまうほどだった。
- 2006年10月10日の巨人戦、打球が自身へと飛んできて優勝のウイニングボールを捕球し、(荒木がベースにいたものの)そのまま二塁ベースを踏み一塁走者を封殺、中日の優勝を決めた。ところが興奮のあまりウイニングボールを紛失してしまい、影で今季最大の失策などといわれてた。が、オフシーズンのトークショーで実は持ってると告白。山本昌は優勝当日の深夜特番で持ってると見抜かれていた。記者会見や雑誌のインタビューで『最後自分のところにボールが飛んできたのでよかった』『自分のところへ(ウイニングボールが)来いと思っていた』等の発言をしていることや、十二回裏の守備でツーアウト目はサードフライかと思われたフライをショートの井端がサードの奈良原の目の前で捕球したこと、スリーアウト目のショートゴロをセカンドの荒木に送球しなかったことからウイニングボールを掴もうとしていた熱意は相当なものであったことが窺える(ちなみに本人は「一塁に投げようか二塁にトスしようか迷ってるうちに二塁ベースを踏んでしまったとのこと)。
- 打席前選手登場曲としてDJ OZMAの「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」のイントロを使用している。中日ファンの間ではイントロの音楽に合わせメガホンを叩くのが恒例となっている。
- 堅実な守備・シュアな打撃・フォアザチームのプレースタイルとは裏腹に、ヒーローインタビューでは大胆不敵な発言をしばしば行うなど、元々目立つことが好きな性格ではあるらしい。
- 調子の悪いときにはつい饒舌になってしまうことが多いらしい。
- 中日ファンとして知られるテレビ朝日の河野明子アナウンサーが井端をひいきにしており、「地味だが堅実なプレーが素敵」と報道ステーションの番組内で、井端が話題に上るたびに目を輝かせて熱弁している。
- 歌手の研ナオコとは交友関係にあり、名古屋でコンサートがあった時には井端のマンションにシャワーを浴びに来る仲である。(このとき井端は、自分の部屋にいるにもかかわらず研のマネージャーらに追い出されてしまうらしい)
- 2006年から出身地の川崎市の少年野球大会を「井端杯」として開催、その第一回大会の始球式には井端の父が始球式を努め、秋に行われた決勝戦には井端本人が観戦に訪れた。この大会の選抜チームは後にイチロー杯の優勝チームとも交流試合を行った。
[編集] 略歴
- 身長・体重:173cm 75kg
- 投打:右投右打
- 出身地:神奈川県川崎市
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:堀越高 - 亜大 - 中日(1998年 - )
- FA取得:なし
- プロ入り年度・ドラフト順位:1997年(5位)
- 英語表記:IBATA
- 推定年俸:2億2000万
- 守備位置:遊撃、二塁、(三塁)
[編集] タイトル・記録
- ベストナイン 4回(2002年、2004年~2006年)
- ゴールデングラブ賞 3回(2004年~2006年)
- サイクルヒット 1回(2002年9月21日)
- シーズン480補殺(2005年) ※遊撃手としてのセ・リーグ記録。
- シーズン513守備機会連続無失策(2006年) ※遊撃手としてのセ・リーグ記録。
- オールスター出場 3回(2001年、2002年、2005年)
[編集] 年度別成績
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 | 推定年俸(万) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | 中日ドラゴンズ | 18 | 49 | 2 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 2 | 4 | 7 | 8 | .245 | 900 |
1999年 | 中日ドラゴンズ | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 1200 |
2000年 | 中日ドラゴンズ | 92 | 242 | 35 | 74 | 7 | 0 | 3 | 90 | 16 | 6 | 18 | 22 | .306 | 1000 |
2001年 | 中日ドラゴンズ | 140 | 531 | 53 | 139 | 25 | 3 | 1 | 173 | 32 | 14 | 55 | 60 | .262 | 3200 |
2002年 | 中日ドラゴンズ | 135 | 531 | 67 | 154 | 25 | 1 | 4 | 193 | 25 | 6 | 59 | 77 | .290 | 6400 |
2003年 | 中日ドラゴンズ | 105 | 386 | 44 | 103 | 14 | 0 | 5 | 132 | 27 | 5 | 30 | 50 | .267 | 9400 |
2004年 | 中日ドラゴンズ | 138 | 562 | 81 | 170 | 30 | 2 | 6 | 222 | 57 | 21 | 59 | 74 | .302 | 9400 |
2005年 | 中日ドラゴンズ | 146 | 560 | 87 | 181 | 22 | 5 | 6 | 231 | 63 | 22 | 78 | 77 | .323 | 14000 |
2006年 | 中日ドラゴンズ | 146 | 573 | 97 | 162 | 19 | 2 | 8 | 209 | 48 | 17 | 61 | 72 | .283 | 20000 |
通算 | 920 | 3434 | 466 | 995 | 143 | 13 | 33 | 1263 | 270 | 95 | 367 | 440 | .290 | 22000 |
[編集] 背番号
- 48(1998年 - 2002年)また、2003年アテネ五輪野球代表としてアジア最終予選に参加した際にも宮本慎也との重複を避け、この番号をつけた。
- 6(2003年 -)
- 98(三輪)(2005年 9月27日横浜ベイスターズ戦。)
- 名古屋にユニフォームを忘れ9月27日だけ三輪ブルペンキャッチャーのユニフォームで出場
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
- 井端弘和の唄(MIDI形式音声ファイル)
00 前田章宏 | 0 金剛弘樹 | 1 福留孝介 | 2 荒木雅博 | 3 立浪和義 | 4 J・バレンタイン | 5 渡邉博幸 | 6 井端弘和 | 7 李炳圭 | 8 平田良介 | 9 井上一樹 | 11 川上憲伸 | 12 岡本真也 | 13 岩瀬仁紀 | 14 朝倉健太 | 16 佐藤充 | 17 川井進 | 18 中里篤史 | 19 吉見一起 | 20 中田賢一 | 21 樋口龍美 | 22 藤井淳志 | 23 鈴木義広 | 24 堂上直倫 | 25 新井良太 | 26 小田幸平 | 27 谷繁元信 | 28 田中大輔 | 29 山井大介 | 30 石井裕也 | 31 森野将彦 | 32 中川裕貴 | 33 平井正史 | 34 山本昌 | 35 上田佳範 | 36 デニー | 37 小山良男 | 38 斉藤信介 | 39 清水将海 | 40 西川明 | 41 浅尾拓也 | 42 S・ラミレス | 43 小笠原孝 | 44 ウッズ | 45 森岡良介 | 46 岩﨑達郎 | 47 菊地正法 | 48 沢井道久 | 49 F・グラセスキ | 50 佐藤亮太 | 51 中村一生 | 52 春田剛 | 53 柳田殖生 | 54 鎌田圭司 | 55 福田永将 | 56 中村公治 | 57 英智 | 58 石川賢 | 59 小川将俊 | 60 高江洲拓哉 | 61 久本祐一 | 62 普久原淳一 | 63 堂上剛裕 | 64 清水昭信 | 65 金本明博 | 67 高橋聡文 | 68 長峰昌司 | 69 小林正人 | 70 三澤興一 | 99 中村紀洋
201(育成選手) 加藤光教 | 202(育成選手) 竹下哲史 | 203(育成選手) チェン | 220(育成選手) R・クルス | 222(育成選手) E・ラミレス 66 監督 落合博満 | 81 高代延博 | 80 森繁和 | 89 高橋三千丈 | 88 高柳秀樹 | 78 小林聖始 | 77 宇野勝 | 87 仁村薫 | 72 田村藤夫 | 90 三木安司 | 85 二軍監督 辻発彦 | 84 早川和夫 | 75 石嶺和彦 | 83 音重鎮 | 86 古久保健二 | 71 川相昌弘 | 92 勝崎耕世 | 74 風岡尚幸 | 79 長谷部裕 | 82 奈良原浩 | 76 近藤真市 | 93 宮前岳巳 | 91 塚本洋 |