ハンセン病
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ハンセン病(ハンセンびょう Hansen's disease)とは、抗酸菌の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症。病名は1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrik Armauer Hansen)に因む。ハンセン氏病とも呼ばれた。
かつては癩病(らいびょう)と呼んだが、現在では差別語とされる。なお、らい菌発見以前は、ハンセン病に似た症状の病気は全てそう呼ばれた。
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[編集] 名前
癩病(らい病)(あるいはらい)と漢語由来の呼称で一律に呼ぶようになったのは明治以降で、江戸以前は一般的にやまとことばで「かったい」と呼ぶことが多かった。戦後までこの語句が使われていた地方もある。また、昭和期には言い換え語としてドイツ語またはラテン語の「レプラ(lepra)」が用いられていたこともあり、織田作之助の作品などに見られる。しかし、「癩病」という名称には、歴史的に穢れや差別の要素が付きまとってきたこともあり、代わって近代医学的にこの感染症の病原菌を発見したハンセンの名をとり、ハンセン病と呼ぶのが正しいとされ推奨されている。その一方、癩病という言い方は、現代では差別的な用例とされ避けられている。ただし、医学的には、近代医学以前の時代に歴史的に癩病(らい病)とされたものにはハンセン病と特定される疾患の他に、他の皮膚病などで一見ハンセン病類似の症状を呈した疾患が含まれる。そのため、歴史的癩病≠ハンセン病であるので注意が必要である。
日本聖書刊行会から出版されている『新改訳聖書』第三版ではヘブライ語の原音に近い「ツァラアト」と、また日本聖書協会から出版されている『新共同訳聖書』では意訳的に「重い皮膚病」と訳されておりいずれも「癩病」の表現は避けられている。その一方で、同様に歴史的「癩病」に対して「癩病」の表現を避けるために「ハンセン病」の名を使う出版物も目立つ。これらは先述のようにハンセン病以外の疾患も含んでいると考えられ、「癩病」を一律に「ハンセン病」の名で置き換えている状態になっている。それが表現として適切であるか、という議論がある。
[編集] 分類
- 病型 らい腫型(L型)・境界群(B群)・類結核型(T型)・発病初期群(I群)に分けられる。L型とT型の間には、個々人の免疫状態によりさまざまな程度の病像を呈する、B群と呼ばれる境界群を設定している。I群は、ハンセン病特有の症状に乏しい発病初期を一つにまとめたものである。
- Ridley & Joplingの分類法 L型→LL、B群→BL・BB・BT、T型→TT・I群→Iの1群5型に分類。らい菌にたいする生体の細胞性免疫の強弱に基づいた分類である。LL型ではTh2型の反応が生じ、抗原提示や殺菌などの機能が抑制される(細胞性免疫の低下)。TT型ではTh1型の反応が生じ、細胞性免疫は保たれるが、強い組織傷害を起こすサイトカインが出現する。
- L型(らい腫型)(結節らい)
- らい菌に対して免疫をほとんど持たない人が、らい菌と接触し感染が成立した場合に生じる。体や四肢に褐色の結節(癩腫)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なくなり、結節が崩れて特異な顔貌を呈する。皮膚の病巣から菌が検出される。病理組織検査では、らい菌が多数検出できるが、リンパ球の浸潤は少ない。
- T型(類結核型)(斑紋らい・神経らい)
- らい菌に対する免疫は本来存在するが、何らかの理由で免疫が低下したりして、感染が成立するような場合に生じる。皮膚に知覚麻痺をともなう紅色斑を呈する。皮膚からの菌の検出はほとんどないため診断を困難にする場合があるが、その一方で、免疫反応と考えられる神経の障害が、発病の初期から起こることが多いため、神経障害などの臨床症状から診断がつくのがほとんどである。病理組織検査でも、らい菌が検出されないが、リンパ球の強い浸潤像がみられる。
[編集] 感染・疫学
感染元は未治療のらい菌保有者(特に菌を大量に排出するL型患者)からの経鼻・経気道的による。ただし、らい菌の感染力は非常に弱いため、らい菌を多く保有している人との乳幼児期に継続的かつ多頻度に渡る濃厚な接触による以外はほとんど発病に至らない。さらにらい菌と接触する人の95%は自然の免疫で感染を防ぐことが出来る。[1]小児期以降の感染による発病は近年では認められていない。潜伏期間は数年から数十年という幅がある。
らい菌の膜表面にあるフェノール性糖脂質(PGL-1)と末梢神経のシュワン細胞表面のラミニン2の親和性が高いことが分かっており、らい菌が神経細胞に感染すると脱髄を引き起こし、それにより末梢神経障害が起こるとされる。その後、その神経細胞で菌が増殖して、末梢神経障害が次々に拡大する。
日本における新規患者数は毎年数名であるが、そのほとんどが幼児期、外国で過ごしたことがある在日外国人である。在日外国人の中ではブラジル出身者と東南アジア出身者がほとんどを占める。また、日本人の中では沖縄出身者がほとんどを占める。また、国外における新患としてはインド、ブラジル、ネパール、タンザニア、モザンビーク、マダガスカルに多数の発生が見られ、この6カ国で世界の90%を占める。
ハンセン病は、人獣共通感染症でも知られるが、自然動物ではヒトを含めた霊長類とアルマジロ以外に感染する動物は見つかっていない。そのため、ハンセン病の研究にはアルマジロが用いられてきた。しかし、現代では突然変異により胸腺を欠き、免疫機能不全に陥っているヌードマウスなどでも感染・発症することが明らかになったため、研究は主にマウスで行われるようになった。
結核菌では機能している遺伝子の割合が90.8%であるのに対し、らい菌は49.5%と極端に少ない。そのため、生存と増殖を全面的に宿主細胞に依存している。そのため、らい菌は通常の細菌と異なり培養ができない菌である。従って、治療薬の開発に困難をきたした。分類上近縁の結核菌による結核に有効な薬剤を種々テストしたという歴史がある。
[編集] 療養所
現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所と全国2か所の私立ハンセン病療養所(神山復生病院・待労院診療所)に約3,100人(3,079人・2006年5月1日現在)が入所している。ほとんどがすでに治癒している元患者である。平均年齢77.5歳(80歳以上の高齢者が全体の38%、70歳以上が80%)である。さらに寝たきり者は全国平均で7.1%、認知症は9.0%、年間の死亡者数は全国で200~250人である。高齢と病気の後遺症による障害、さらにかつて強制的に行われた断種手術、堕胎手術のために子供がいない元患者が多いことから、介護を必要として療養所に入所しているのが実情である。また、社会復帰するための支援を行っているが、実際には非常に少ない。
現在の療養所の医療は、一部を除いて医師の定員さえ確保されておらず、医療機器の整備も十分でないため、外部の医療機関に委託診療という形を取っている場合が多い。年々入所者の数は減る一方であるため十分な資金をかけることもできない現状もある一方、入所者にとっては死ぬまで退所・転園することなく最後まで国に面倒をみてほしいという希望がある。政府は、法的責任を踏まえた上で最後まで面倒をみると保障している。今後の大きな課題になりつつある。
[編集] 症状
感染・発症すると、末梢神経が侵され、皮膚症状が現れたり、病状が進むと身体に変形が生じることもあるが、重篤な病変には至らない。発病した場合、患者のらい菌に対する抵抗力(細胞性免疫)によって、類結核型(T型)、らい腫型(L型)、その中間の境界群(BT, BB, BLに分群)および初期の群(I群)に分類される症状を呈する。
[編集] 皮膚
- らい腫型(L型)
- 丘疹型、結節型、瀰漫浸潤型に分けることもあるが、実際には皮疹が混在していることが多い。疼痛や痒みなどの自覚症状はない。表面が脂ぎって滑らかな感じがあり、左右対称性に発疹が分布し、境界は不明瞭であるという特徴がある。
- 類結核型(T型)
- 多様な発疹が出現する。らい腫型(L型)と異なり孤立性で数も少なく、発疹の分布は非対称的である。境界は明瞭で比較的単純な弧を描いているのが特徴である。また、その部分の皮膚の構造は破壊されて発汗障害をきたしたり毛が脱落するとともに、皮疹に一致して明瞭な知覚障害を生じる。
- 境界群(B群)
- らい腫型(L型)・類結核型(T型)の移行群の総称であり、様々な発疹を生じる。1型らい反応(下記記載)を起こしやすい。
[編集] 末梢神経
末梢神経の肥厚を伴い、知覚障害、運動障害、自律神経障害が出現する。また、初発症状であることもしばしばみられる一方、治癒後も後遺症を残すという意味で、重要な症状である。知覚障害は島状に分布し、通常の神経の走行に一致しての障害ではないことが多い。また、逆に知覚過敏になり神経痛などの後遺症もしばしばみられる。神経痛は非常に多く、その部位は前述の特徴を有する。症状もさまざまで、俗称だる神経痛(だるいからくる)などもある。この知覚障害のため外傷・熱傷に侵されやすい。さらに、自律神経障害も生じると、その神経の支配領域に一致する皮膚からの発汗作用が障害されるため、皮膚は乾燥し弾力性を失い、傷を受けやすくなり、皮膚の防御力も減退する。また血管等に見られる神経反射作用が消失し、その部位における防御作用や炎症の治癒機転の障害にもなる。よって、傷ができやすい上になかなか治りにくいということがあり、十分なケアを必要としている人が多い。足底の潰瘍は、うら傷と称し、歩行したい患者にとって、著しく難治の場合が多い。
[編集] 眼
顔面神経麻痺による兎眼、三叉神経麻痺による角膜の知覚障害が原因で、角膜が障害されやすくなり角膜炎を併発し失明する人もいる。また、鼻粘膜が障害され、涙管閉塞をきたすこともしばしば起こり、逆行性感染による頑固な結膜炎も起こすことがある。そのため、常に点眼剤を必要とする人も多い。
[編集] らい反応
ハンセン病は、菌自体の働きが遅いため、一般に慢性的な経過をとることが多いが、場合によって急激な反応を起こすことがある。それを、らい反応という。
- 1型らい反応
- 境界群(B群)で生じる。境界反応(Reversal reaction)ともいう。急に皮膚の発赤が増強したり腫れたりする症状や末梢神経障害の急激な増悪反応である。入院加療の上、ステロイド大量投与(内服・筋肉注射など)を行う必要がある。
- 2型らい反応
- らい腫型(L型)で治療を行っている人に生じる。らい性結節性紅斑(ENL)と正式に呼ぶが、通称「熱こぶ」である。発熱と皮膚に有痛性の結節を生じるのが特徴。TNFαの産生を抑制するサリドマイドが治療に使われる。なぜ、治療を行っている人に生じるのかは不明であり、研究されている。なお、ステロイドも使用することがある。らい性結節性紅斑、Erythema nodosum leprosum, ENLの名称は世界的には戦後から使われているが、命名者は村田茂助(1912)である。
[編集] 診断・検査
- 症状
- 特にT型の早期に出現する発疹に一致した神経障害が重要。
- 触診
- 尺骨、橈骨、腓骨、大耳介神経などを触れると肥厚が触診で分かる。
- 病理検査
- 発疹の一部の組織を採取し、標本にして顕微鏡でみる検査。Ridley & Joplingの分類に基づき病型分類される。HE染色だけでなく菌の検出のため抗酸菌染色(Fite染色)も行う必要がある。抗酸菌染色としてチールニールセン染色も用いられるが染色性が悪いため偽陰性と判断されることもあるためFite染色が推奨されている。らい腫型(L型)では、らい菌が多数検出できるがリンパ球の浸潤は少ない。類結核型(T型)では、ほとんどらい菌が検出されないが、リンパ球の強い浸潤像がみられる。
- 細菌検査
- 発疹部の皮膚を切開し、組織の塗抹をスライドガラスに置きチールニールセン染色を行い、菌数を調べることが可能である。菌数の表記には菌指数(BI: bacterial index)が用いられている。また、菌の形態を指標とする形態指数(MI: morphological index)は、菌の感染性や薬物の効果を見る上で参考になる。
- レプロミンテスト
- らい結節から得られた抽出物、レプロミンを皮内に注射して反応を見る検査である。この検査は、結核のツベルクリン反応に似ている。らい菌に対する細胞性免疫反応をみる検査で、T型と正常人で陽性、L型で陰性となる。実際には、Fernandez反応と光田反応がある。Fernandez反応は、皮内に注射後48時間後の発赤をみる早期反応で、光田反応は注射後2~3週間後の硬結をみる晩期反応である。ちなみに、光田反応の名前は、光田健輔の研究(1919)から発展して作られた検査に由来する。以前は盛んに行われた検査であるが、現在はレプロミン自体を入手することが困難であるため、ほとんど行われない。
- らい菌抗体の検出
- らい菌特異的抗原の一つであるフェノール糖脂質(PGL-1)に対する抗体を血液検査で測定する方法が最近、行われるようになった。ちなみに、PGL-1の構造はGlc-Rha-Rhaの3単糖である。L型で強陽性であるが、T型ではまったく検出されない。
- PCR法
- らい菌の持つ熱ショック蛋白の内、他の抗酸菌と交差しない部位のDNA配列は、遺伝子増幅法であるPolymerase Chain Reaction (PCR)を用いたらい菌の検出に用いられている。培養のできないらい菌を迅速に検出する方法として重要で、組織生検の一部を未固定で凍結乾燥しておけば、検査が可能である。
- らい菌に対する薬剤耐性検査
- らい菌の遺伝子解析から、ジアフェニルスルホン(DDS)、リファンピシン(RFP)、オフロキサシン(OFLX)への耐性は特定遺伝子の突然変異であることが判明し、遺伝子変異の検査により薬剤耐性が早く分かるようになった。
[編集] 治療
以前はハンセン病は不治の病とされていたが、1941年にアメリカのファジェット(Guy Faget)は、もともと結核治療薬として開発された「プロミン」(商品名)を患者に実験的に使用を開始した。プロミンは、ジアフェニルスルホン(DDS: Diamino Diphenyl Sulfone)に、ブドウ糖と亜硫酸水素塩を縮合させて水溶性にした化合物である。その後、1943年にハンセン病に対するプロミン療法がアメリカの医学雑誌で紹介された。そして、プロミンより純度の高いDDS製剤である「ダイヤゾン」(商品名)・「プロミゾール」(商品名)などが開発された。
日本は当時、太平洋戦争の戦時中であったため、「プロミン」の情報は、中立国スイスからドイツの潜水艦によって伝えられた。戦後の1946年、東京大学薬学部教授の石館守三が「プロミン」の合成に成功し、1947年には、日本癩学会でプロミン治療に関する研究発表が行われた。よって、アメリカの発表から4年も経って、やっと国内のハンセン病患者が「プロミン」という特効薬について知ることとなる。その後、厚生省は各療養所に薬を配布するが、療養所幹部の中には効果に懐疑的であったり隔離政策の崩壊を危惧するなどの理由で使用制限され、患者の手元にはなかなかいかなかった期間がある。そして、1949年より予算が計上され、少しずつ薬が普及していった。
現在は、そのジアフェニルスルホン(DDS)に加え、クロファジミン(CLF)とリファンピシン(RFP)の3者を併用する多剤併用療法(MDT)が治療の主体である。多剤併用療法を基本とする理由としては薬剤耐性菌を予防する意味があり、同じ抗酸菌の一種である結核の治療も同様の多剤併用療法が行われる(使用薬剤は異なる)。なお、WHOでは、投与量・治療期間を決定するため、菌数による病型分類を採用しており、1982年~1996年まではMB(multibacillary, 多菌型)とPB(paucibacillary, 少菌型)の2種類、1997年からはSLPB(single-lesion paucibacillary, 単一病変少菌型)を加えた3種類の分類を使用している(MBのほとんどはL型・B群、PBのほとんどはT型・I群に相当する)。しかし、このWHOの採用する分類による治療は、コストパフォーマンスを重視しており不十分だということと、短期に大量投与を行う方が薬剤耐性菌の出現を防止できるという意見もあり、ハンセン病の専門家でもWHOの分類に基づいた治療を行っていないことが多い。なお、1型らい反応に対しては大量ステロイド、2型らい反応にはサリドマイド・ステロイドを使用する。強い神経炎が起きた場合も積極的にステロイド内服を行う必要がある。最近では、オフロキサシン(OFLX)、クラリスロマイシン(CAM)、ミノサイクリン(MINO)なども有効であることが分かり、薬剤耐性検査を施行した上で多剤併用療法に併用されることも多い。よって、ハンセン病は薬によって完治できる病気となった。
ハンセン病において最も後遺症などの問題となるのは、末梢神経障害である。そのため末梢神経障害を残さないようにするための治療が必要といえる。そのために重要なことは早期発見・早期治療である。急性の神経炎を起こした場合でも、副腎皮質ホルモンの投与などの治療により回復する場合も多く、神経減圧術が有効な場合もある。
もし不幸にして障害が起こってしまった時には、それを少しでも軽くなるよう努め、手術を用いてでも機能の回復をはかるといった取り組みが行われる。いわゆる障害予防(POD: prevention of deformity)・障害悪化予防(POWD: prenention of worsening deformity)と呼ばれ、ハンセン病治療の重要な根幹となっている。ハンセン病患者は知覚麻痺により熱傷や外傷を受けやすくなり、これらは容易に感染や瘢痕形成へとつながってしまう。そのため、本人に十分な注意を喚起する必要があると同時に、知覚が無い状態でも熱傷や外傷が起こらないような日常生活の改善を行ったり、装具などを使い外傷の予防をすることも重要である。また拘縮に関してもリハビリテーションを繰り返し実行させることが、重要といえる。これからのハンセン病医学では、菌の有無だけではなく、いかに障害を残さず治癒させるかということと、障害が起こった場合の経過・対応が重要といえる。
[編集] 日本国内における差別の歴史
[編集] 差別の原因
ハンセン病患者に対する「差別」は、いろいろな原因が絡み合って生じたものである。
- 外見上の特徴から、伝統的な穢れ思想を背景に持つ中世以来からの宗教観により神仏により断罪された、あるいは前世の罪業の因果を受けた者の罹る病と思われていた。
- 「ハンセン病は、感染元がらい菌保有者との継続的かつ多頻度に渡る濃厚な接触が原因であるという特徴がある」「非常に潜伏期が長いため感染症とは考えにくい」「政府自らが優生学政策を掲げた」ことから、「遺伝病」であるとの風評が広められた。そのため、幼児に対する性的虐待や近親相姦などを連想させ、偏見が助長された。
- 「ハンセンにより感染症であることが証明されても、当初は治療が困難を極め不治の病であった」という理由で、感染に対する恐怖感から差別・偏見が助長された。
- 政府も隔離政策の推進のために、ハンセン病患者やその家族に対する差別を看過し続けた。
[編集] 法制・強制隔離の歴史
1893年、ベルリンで第1回ハンセン病国際会議が開かれ、「ハンセン病は感染症だから隔離する」と決められたが、その隔離については病状に応じて行う相対的隔離を原則としていた。そして、日本でも予防法の制定への気運が高まり、1907年(明治40年)に癩予防ニ関スル件がはじめて制定された。しかし、日本ではその原則は反映されず、その内容は放浪患者の救済・取り締まりを目的とするという非科学的非人道的なものであった。この法律の下、全国に5ヶ所の療養所(強制収容所)を設けた。ちなみに、その療養所の所長は、現在のように医師ではなく、警察官上がりの官僚がほとんどであった。ただし、例外的に、九州各県連合立の第5区九州らい療養所では、1909年に医師である河村正之が初代所長に就任した。1914年(大正3年)、医師である光田健輔が公立癩療養所全生病院医長に就任し、患者懲戒検束権といって、各施設内に監房を作り所長の一存で患者を投獄できるようにした。さらに、光田健輔は1915年、入所患者の結婚の条件として男性に断種、女性には中絶、堕胎を強要、さらに施設運営のための強制労働の強要をさせた。そしてついに、1931年(昭和6年)、光田健輔の尽力により癩予防法が制定された。それは従来の法律を改悪したものであり、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策(強制隔離政策)が主目的の内容であった。
なお、違法な強制人工妊娠中絶が横行し、患者が出産した新生児を職員が殺害したとする証言から次々に実態が明らかになりつつある。しかし、依然として謎な部分も多い。このときの胎児や新生児の遺体とみられる標本が全国に115体保存されていることが厚生労働省により設置された第三者機関、「ハンセン病問題検証会議」によって2005年1月27日報告され、検証作業が提議されている。
その間、国民による差別はエスカレートしていった。
- 1929年(昭和4年)に無らい県運動が起こった。それは、○○県かららいを無くそうという運動であり、患者を摘発し強制収容させるものであった。その強引な患者の摘発は患者本人だけでなく家族の人権まで侵すほどのものであった。
- 1931年(昭和6年)、貞明皇后からの下賜金により「癩予防協会」が発足。会長は渋沢栄一であった。また、貞明皇后の誕生日、6月25日を中心に癩予防デーを設定(現在は、「ハンセン病を正しく理解する週間」となり、差別や偏見のない社会を推進する目的に変わっている)し、ハンセン病患者を日本から根絶する呼びかけを行った。そして、全国的な無らい県運動を推進した。
その結果、それに関連して多数の事件も起きている。
- 無らい県運動の高まりにより、強制収容者が増加。各療養所は定員オーバーとなり、療養所の環境は劣悪になっていった。1936年(昭和11年)には、光田健輔が所長を務める岡山県の長島愛生園で暴動が勃発した。(これを長島事件という。)光田健輔は暴動の首謀者として50名をでっちあげた。
- 1951年(昭和26年)に発生した藤本事件では、犯人として逮捕された藤本松夫がハンセン病に罹患していたので公正な裁判を受けられず、冤罪の疑いが濃厚なままで死刑に処された。
- 1951年(昭和26年)に山梨県においてらい家族一家九人心中事件が起こった。それ以外にも1950年(昭和25年)には熊本、1983年(昭和58年)には香川の各県で一家心中(含む未遂)事件など、多数の悲劇的な事件を生んでしまった。
その後1953年(昭和28年)にらい予防法が制定されたが、従来の強制隔離政策を踏襲するものであり、療養所の入所者に対する待遇は全く変わらなかった。この「らい予防法」は、国際会議においても批判され続けたが、国は全然、聞き入れなかった。
[編集] らい予防法廃止と現在
「らい予防法」は1996年(平成8年)4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」によってようやく廃止された。一般の病院や診療所で健康保険で治療できるようになった。
1998年、国立ハンセン病療養所(星塚敬愛園・菊池恵楓園)の入所者13名(平均年齢は当時71才)が国を相手取り「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地裁に提訴した。2001年(平成13年)5月11日には、厚生省、国会の責任を認める原告勝訴の判決が下った。その際、国は控訴を断念し、国は責任を認めて謝罪し、全国の新聞に二度にわたって謝罪広告を掲載した。そして、元患者や遺族に補償金が支払われることとなり、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が制定された。
また最近では、ハンセン病に対する理解とハンセン病患者に対する国民の意識が変わり、ハンセン病患者やその家族に対する差別は緩和されてきた。しかしその一方で、ハンセン病元患者のホテルへの宿泊を拒否するなどの事件が、その後も度々起きており差別が完全になくなったわけではない。
- 元患者が金沢市内のホテルで宿泊を断られた報道があり、石川県が2001年7月5日付けで、「ハンセン病は『伝染性の疾病』には該当しません。」という内容の通達を出したことがある。
- 2003年11月、療養所入所者のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルへの宿泊が拒否された問題(ハンセン病元患者宿泊拒否事件)に対しても、療養所やホテルを所轄する厚生労働省は、「ハンセン病について旅館業法第5条第1号及び公衆浴場法第4条にいう『伝染性の疾病』には該当しません。」と明記した通達を出した。
[編集] 海外の療養所への補償
[編集] ハンセン病補償法訴訟
2001年5月11日、熊本地裁は「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」の判決で国の隔離政策の継続は違憲であると判断した。これを受けて小泉首相は5月23日、控訴しないことを決定し、6月22日には直ちにハンセン病補償法(「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」)が成立した。対象とされる元患者らには800万~1400万円の賠償金が支払われることになったのである。
しかし、この補償法は、補償の対象についての細かいことは「厚労省告示(厚生労働省告示第二百二十四号)」に定めることにしていた。その「告示」には、日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設が列挙してある。
しかし、戦前まで日本の植民地であった韓国と台湾に建てられ、同様に運営がなされていた二つの施設(韓国小鹿島(ソロクト)更生園―現・国立小鹿島病院、台湾楽生院―現・楽生療養院)については明示していなかった。
そこで、この二つの療養所の入所者(以後「原告側」と略す)はハンセン病補償法による補償をするようにと日本政府に請求した(2003年12月25日に小鹿島厚生園・合計117名、2004年8月23日に台湾楽生院25名)。ところが日本政府(厚生労働大臣)は「小鹿島や楽生院は補償法の言う国立療養所には当たらない」として、その補償請求を全て棄却した(小鹿島は2004年8月16日、楽生院は同年10月26日)。
そこで、原告側はこの棄却処分(不支給決定)の取り消しを求めて相次いで(小鹿島は2004年8月23日に、楽生院は同年12月17日に)東京地裁に提訴した。そしてその判決が2005年10月25日言い渡されたが、判決は真っ二つに分かれた。小鹿島は棄却処分を取り消さない(訴えを認めない=補償法による補償はしない)、楽生院は棄却処分を取り消す(訴えを認める=補償法による補償をする)、ということになったのである。
これを受けて小鹿島の原告らは10月26日、棄却処分を取り消さないとした25日の東京地裁判決を不服として東京高裁に控訴した。また川崎厚生労働相は2005年11月8日の会見で、棄却処分を取り消すとしたした台湾訴訟について東京高裁に控訴することを正式に表明した。
その後原告側は台湾訴訟の控訴の取り下げを求めると共に、両訴訟の政治的判断による早期解決を求める活動を進めた。この間にも高齢の原告団の中には、亡くなる人が続出していて、一刻も早い解決が必要な状態であった。
その後、与党では補償額を国内入所者の水準に合わせて「一人800万円」とするハンセン病補償法の改正案を、2006年1月20日からの通常国会に提出する方針を決め、一方、厚生労働省は(韓国、台湾の)ほかにパラオ、サイパン(米国)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島)の4地域についても調査をし、必要に応じて追加するという方向性を打ち出した。
原告側弁護団は上記与党の改正案を受け入れる旨の声明を発表、政府の迅速な対応を求めていたが、同年1月31日改正案は衆院本会議で可決、続いて2月3日参院本会議で全会一致の可決を見、2月10日「改正ハンセン病補償法(ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律―平成18年2月10日法律第2号)」が成立するにいたった。
2007年3月28日、厚労省はパラオ、ヤップ(ミクロネシア連邦)、サイパン、ヤルート(マーシャル諸島共和国)の各療養所を新たに補償の対象施設に指定すると
発表した。現地調査や当時の文献から、患者を強制隔離していた事実が確認できたためで、厚労省は4月上旬から補償の申請を受け付けるとした。
[編集] 関連事項
この病気の有名人としては、戦国時代の武将大谷吉継がいる。また、斉藤義龍も患者であるという説もある。
第二次小泉改造内閣の法相・南野知惠子は2005年1月11日の閣議後会見で島根県平田市で前日に開かれた島根県議の新年会でハンセン病について言及した際、旧病名の「らい」との表現を繰り返したことを明らかにし、「差別や偏見のつもりはなく、看護(職)の経験から、つい長年使っていた言葉が出た。本当に申し訳ない」と謝罪した。
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 関連作品
- 砂の器
- いのちの初夜
- わたしが・棄てた・女 - ハンセン病を一部テーマに盛り込んだ遠藤周作の小説(1963年作品)。
- グイン・サーガ - 癩伯爵事件(小説)