久米宏
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久米宏(くめ ひろし、1944年7月14日 - )は、オフィス・トゥー・ワン所属のフリーアナウンサーで、元東京放送(TBS)アナウンサー。ドイツ親善大使も務めている。血液型:A型。身長184cm。
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[編集] 経歴
- 1944年7月14日 - 埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)生まれ。戦時中は埼玉県児玉郡に疎開。戦後、東京都品川区北品川で幼少時代を過ごす。品川区立城南第二小学校では政治家の丹羽雄哉と同級生だった。
- 1963年 - 東京都立大学附属高等学校卒業。高校在学中はアルバイトと勉強に明け暮れる。
- 1967年 - 早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業後、東京放送 (TBS) にアナウンサーとして入社。同期に、宮内鎮雄、林美雄、青木靖雄、川戸恵子がいる。入社直後、激務と極度のアガリ症から体調を崩し、結核を患った。
- 1970年5月 - この月からスタートした『永六輔の土曜ワイド』の中継レポーターを務める。
- 1975年10月 - 『料理天国』レギュラー(~1980年)、『ぴったし カン・カン』司会として、全国的な人気を得る(~1984年5月)。
- 1978年1月 - 『ザ・ベストテン』司会(~1985年4月)。
- 同年4月 - 『土曜ワイドラジオTOKYO』パーソナリティー(~1985年3月)。
- 1979年6月 - TBSを退職。
- 1980年4月 - 『おしゃれ』司会(~1987年3月、日本テレビ)。以降、民放各テレビ局を中心に活躍する。
- 1983年 - 『がん戦争シリーズ』(1983年~、テレビ朝日)、『久米宏のTVスクランブル』(1982年~1985年、日本テレビ)の司会に。
- 1985年10月7日 - テレビ朝日の夜の大型ニュースショー番組『ニュースステーション』がスタートし、メインキャスターを務める。フランクな司会ぶりは民放の報道番組に変革をもたらし、賛否両論を呼んだ。
- この間、引き続き『がん戦争シリーズ』など単発番組の司会は務めるが、ほぼ『ニュースステーション』に専念。
- 1989年10月10日 - 『ニュースステーション』の企画「ジャイアンツエイド'89」での公約を守り、プロ野球読売ジャイアンツ優勝を受けて丸坊主になる。
- 1994年9月25日 - ほぼ7年ぶりの日本テレビ出演となった『スーパースペシャル'94・久米宏の道徳の時間』の司会を務める。(視聴率25.3%)なお、この道徳の時間はその後、1995年6月に第2弾、1996年2月に第3弾が放送された。視聴率の伸び悩みや日本テレビ側からの第4弾出演依頼を固辞したことなどにより、第3弾で打ち切りになった。
- 1996年10月 - 『ニュースステーション』でのインドのルポの中で、インド人がよどみない日本語で話をする映像を見て、「しかし、外人の日本語は片言の方がいいよね」と発言、直後から有道出人の猛烈な抗議を受ける(但し大きな問題として表面化はせず)。2006年12月1日になって、久米本人から有道に対し当発言に対する謝罪のメールがあった。([1])
- 1999年2月1日 - 『ニュースステーション』のダイオキシン問題に関する特集で埼玉県所沢市の葉物(実際には煎茶)から多く検出されたと伝えた。これにより、埼玉県所沢市産のホウレンソウなど野菜の価格が風評被害により暴落(ニュースステーション#所沢ダイオキシン訴訟」を参照のこと)。後、2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して1000万円で和解している。
- 同年10月7日~2000年1月3日 - 気力・体力の問題により『ニュースステーション』を一時降板(自身のウェブサイト・著書ではこの期間を「無職」と表現している。ひげを伸ばし、Nステ復帰時にひげ姿で登場した)。翌1月4日より復帰。
- 2004年3月26日 - 『ニュースステーション』が終了し、18年半のメインキャスター生活にピリオドを打つ。最終回のエンディングでは、番組終了前に「今まで頑張った自分へのご褒美」と称してビールを飲むなど、最後までお騒がせとなった。番組の終了の際、他局でも「Nステ終了」が取り上げられたり、裏番組であるニュース23の筑紫哲也が番組内でコメントするなど、反響が大きかった。
- 同年9月20日 - 半年間の休養後、ニッポン放送1日ジャック『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』で復帰。
- 2005年4月13日 - フジテレビの『トリビアの泉』にて、久米の応募したトリビアが採用される。「目標は、1人15へぇ出してくれるとして、トータル75へぇはいきたい」と宣言したが、結果は30へぇに留まった。なお「銀の脳」を獲得している。トリビアの内容は「ルイ・ヴィトンではロゴ入りの箸を作ったことがある」だった。なお、このトリビアは2度目の投稿であり、最初に投稿した時の肩書きは「ニュースステーションキャスター」で、採用されたトリビアでは「“元”ニュースステーションキャスター」だった。(最初の投稿時、採用される日を待っているうちに『ニュースステーション』が終わってしまったという事情)
- 同年4月17日 - 日本テレビの日曜20時枠で、1年ぶりのテレビ復帰となるレギュラー番組『A』が鳴り物入りでスタートするものの、低視聴率に伴い6月19日にわずか1クール(実際には2ヶ月)で打ち切り。久米のキャリアを傷つけかねない結果となった。
- 同年9月11日 - TBSで放送の第44回衆議院議員総選挙の特別番組(開票速報)『乱!総選挙2005』で、スペシャルアンカーとして参加し、『ニュース23』の筑紫哲也と1991年のプロ野球日本シリーズにゲストに出演して以来、実に14年ぶりの共演となった。『乱! 総選挙2005』の視聴率は、同時間帯に放送された(同系統の内容を含む)民放番組の中で第1位となり、改めて“生報道に強い久米”の健在ぶりを見せつけた。
- 同年12月 - USENの動画配信サイト「GyaO」で、レギュラー番組『久米宏のCAR TOUCH!!』がスタート。久米本人が長年やりたかった番組とのことで、企画構成司会の3役をこなしている。
- 2006年6月 - 自らドイツへ行って、サッカーワールドカップの取材を行う。この模様は自身のウェブサイトから見ることができる。
- 同年8月、21年ぶりに、古巣のTBSの番組に復帰することを発表。10月開始のラジオ番組『久米宏 ラジオなんですけど』でパーソナリティを務める。同じ時間帯に久米がTBSに入社した年と同じ1967年に文化放送に入社したみのもんたの番組があり、さらにニッポン放送が同じ時間帯に小倉智昭をパーソナリティに起用。三つ巴の戦いとなる。番組開始初めての聴取率調査(2006年10月)では、同時間帯トップとなった。
[編集] 人物
東京放送在籍時代「まめひろし」(※くめをまめな人に引っ掛けたダジャレ)と渾名されたほどの気配りの達人であるが、過ぎるところがあり、何回も休養宣言をして番組を降板した事があるほど。
『ニュースステーション』キャスター時代は、権力を徹底的にめったぎるため、自民党関係者から様々な圧力を受けたが、スタンスを曲げることはなかった。同番組内で、自身のスタンスは「反自民」ではなく「反権力・反与党」である旨を表明している。
『ニュースステーション』末期には、イラクへの自衛隊派遣に反対する意見を言い続けた。また、新しい歴史教科書をつくる会が、従来の教科書と比べ、保守主義的な教科書を作成した際は、コメンテーターとして番組に出演していた朝日新聞論説委員とともに「中韓との関係を損ねる」「戦前復古的」「はっきり言った方がいいです、この教科書はイヤだと!!」などの発言をした。
広島東洋カープと福岡ソフトバンクホークスのファン。ホークスがまだ福岡ダイエーホークスであった2000年に、ホークス戦の始球式に出た事もある。そのときの背番号は「9:54」。これは、当時のフライングスタートを開始した『ニュースステーション』の開始時刻9時54分にちなんでいる。なお、始球式に関しては『ニュースステーション』にて「久米さん、始球式ですよ!」というコーナーが組まれ、キャッチボールの練習を念入りに行った。
[編集] 参考文献
- 久米麗子・久米宏共著 『ミステリアスな結婚』 (夫人との共著による自伝) ISBN 4418012044
- 三輪和雄 『偏なテレビの直し方―日本をダメにした久米宏と筑紫哲也』 ISBN 4793801455
- 久米宏 ニュースショーの孤独な道化師/上杉隆,「文藝春秋」2003年8月号
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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