南信地方
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南信地方のデータ | ||
国 | 日本 | |
地方 | 中部地方、中央高地 | |
上伊那郡+下伊那郡 | ||
面積 | 3,277.47km² | |
総人口 | 366,347人 (2005年3月31日) |
南信地方(なんしんちほう)とは、長野県(信州)を四分割した際の南の地域を指す。地方中心地は飯田市。
目次 |
[編集] 範囲
- 自然地理、又は一般的分類としての南信地方。伊那谷の一帯で、飯田線沿線。南信州(みなみしんしゅう)と呼ばれる事もある。更に、飯田市を中心とする下伊那郡を「飯伊(はんい)地域」と呼ぶ事がある。
- 特に自然地理や交通では、中央本線・甲州街道・中山道の沿線に当たる諏訪郡を、むしろ伊那地方とは区別して、「松本諏訪地方」として中信地方に含めて、天気予報でも「長野県中部」に区分する事が多い。
- 広義の南信地方(上伊那郡+下伊那郡+諏訪郡)
- 伊那谷から諏訪湖までの一帯を総めた範囲。県庁が地域区分をする時や、学校間のスポーツ大会に用いられる事が多い。
- 木曽・伊那(上伊那郡+下伊那郡+木曽郡)
- 木曽郡は飯田線沿線ではないので、一般的には南信地方には含まれないが、糸魚川静岡構造線より西側に位置しているので、観光ガイドでは木曽・伊那として括られる事がある。天気予報も、木曽と伊那が一組で「長野県南部」に区分される。
[編集] 概要
天竜川流域に位置しており、西を木曽山脈に、東を赤石山脈(中央構造線)に挟まれた地方である。
長野県に属する為に、北陸地方 (広義)として扱われる事もあるが、日本海側である善光寺平(北信)との繋がりは浅い。一方で、同じ天竜川流域で遠州灘に面する東三河地方(愛知県東部)や遠江地方(静岡県西部)との繋がりが深く、伊那・東三河・遠江の3地域では、「三遠南信地域交流ネットワーク会議」が結成されている。
[編集] 自然地理
[編集] 歴史
[編集] 古代から平安時代まで
律令制度下で五畿七道が整備され、東山道伊那郡に属した。令制国では、伊那谷と諏訪盆地の一帯が諏方国として分立した時期もあったが、短い年月で信濃国に編入された。
又、平安時代の東山道は、東濃(岐阜県南東部)から伊那地方に入って北上するルートで、現在の中央自動車道がこのルートを継承している。
[編集] 幕府の時代
戦国時代になると、天竜川流域のうち、内陸側(伊那地方と諏訪盆地)は、武田氏に支配された。対する遠州灘沿岸(東三河と遠江国)は、今川氏や徳川氏に支配されていた。武田氏と徳川氏の抗争に由来する地名として、兵越峠などがある。
江戸時代になると、現在の上伊那郡は高遠藩の領土となり、下伊那郡は飯田藩の領土となった。又、江戸時代から明治時代に渡って、伊那地方は日本でも有数の林業地帯となり、伊那地方産の木材は、天竜川の舟運を利用して、下流の遠州灘沿岸に運搬されていた。
[編集] 東京政権の時代
明治維新期の廃藩置県では、伊那地方の幕府領は伊那県に、飯田藩は飯田県に、高遠藩は高遠県にそれぞれ再編されたが、1871年12月31日には全て筑摩県に編入された。そして、1876年8月21日に筑摩県が分割されると、長野県に編入された。
明治前期の鉄道建設からは漏れたものの、1927年には飯田線の全線が開通した(飯田線各社の統合・国有化は、第二次大戦中の1943年)。
戦後の高度経済成長期には、太平洋ベルトから漏れたために工業化には乗り遅れたが、中央自動車道の開通後は、日本の東西を結ぶ内陸ルートの一角として発展している。
[編集] 地域
※ 所属自治体は各地域のページを参照すること。
[編集] 交通
※ 諏訪地域のみの路線は斜体で示す。
[編集] 鉄道
[編集] 道路
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[編集] 空港
[編集] メディア
- 新聞
- FMラジオ局
[編集] 特産品
- 食品
- 工芸品