同潤会アパート
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同潤会アパート(どうじゅんかい-)は、関東大震災後に発足した財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅のこと。
関東大震災では木造で密集した市街地が大きな被害を受けたため、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅供給を行うことが目的であった。主に都市の中間層(サラリーマンなど)を対象としたが、職業女性向けのアパートや、スラム地区対策として建設されたアパートもあった。東京での建設を見ると、ほぼ下町系(現墨田区・江東区・荒川区・台東区)と山の手・郊外系(現渋谷区・新宿区・文京区)に区分できる。
- 東京市と横浜市が、震災前に建設した鉄筋ブロック造の集合住宅の事例があり、不燃の集合住宅の必要性自体は震災前から既に認識されていた。
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[編集] 同潤会アパート
- 中之郷アパートメント(1926年) 本所区(現・墨田区)
- 青山アパートメント第1期(1926年)、第2期(1927年) 豊多摩郡(現・渋谷区)
- 柳島アパートメント第1期(1926年)、第2期(1927年) 本所区
- 渋谷(代官山)アパートメント(1927年) 豊多摩郡(現・渋谷区)
- 猿江裏町(住利)共同住宅第1期(1927年)、第2期(1930年) 深川区(現・江東区)
- 東大工(清砂通)アパートメント第1期(1927年)-第5期(1929年) 深川区
- 山下町アパートメント(1927年) 横浜市
- 平沼町アパートメント(1927年) 横浜市
- 三ノ輪アパートメント(1928年) 北豊島郡(現・荒川区) … 現存
- 三田アパートメント(1928年) 芝区豊岡町(現・港区)
- 日暮里(鶯谷)アパートメント(1929年) 北豊島郡(現・荒川区)
- 上野下アパートメント(1929年) 下谷区(現・台東区) … 現存
- 虎ノ門アパートメント(1929年) 麹町区(現・千代田区)
- 大塚女子アパートメント(1930年) 小石川区(現・文京区)
- 東町アパートメント(1930年) 深川区
- 江戸川アパートメント(1934年) 牛込区(現・新宿区)
1932年、青山・渋谷は渋谷区内、三ノ輪・日暮里は荒川区内になった
戦時体制中の1941年に住宅営団が発足すると、同潤会は業務を引継ぎ、解散した。第二次世界大戦後、住宅営団が解散すると、都内の同潤会アパートは東京都に引き継がれ、のちに原則として居住者に払下げられた。立地条件が良い場所が多く、資産としては高く評価されている。(大塚女子アパートは例外で都営住宅として続いた)
近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として貴重な存在であり、居住者への配慮が行き届いたきめ細かな計画などの先見性が評価されている。特に大塚女子アパートは、完成時はエレベーター、食堂、共同浴場、談話室、売店、洗濯室、屋上には、音楽室、サンルームなどが完備されていて当時最先端の独身の職業婦人羨望の居住施設であった。電気・都市ガス・水道・ダスト・シュート・水洗式便所など最先端の近代的な設備を誇っていた。
老朽化のため順次、建替えが進められているが、歴史的建築物という事で青山・大塚女子・江戸川・代官山などでは取壊しに際して保存運動も起こった。しかし、権利関係が複雑だったことと、老朽化に伴う建物の劣化の著しさと耐震性などの建物機能の問題で住人にも建て替え希望者が多かったことなどから保存は困難であった。
2007年現在残っているのは、上野下アパート、三ノ輪アパートの2か所のみであるが三ノ輪アパートも取り壊しの予定があり、2007年には姿を消すものと思われる。
- 都市機構の集合住宅歴史館(八王子市)に、代官山アパートの部材が移設され、室内が復元されている。
- 青山アパートは取壊された後、東端の1棟が安藤忠雄の設計により外観が忠実に再現された(表参道ヒルズ、2006年)。
- 江戸川アパートの部材を江戸東京博物館に移し室内を再現する、という新聞報道がされたが実現しなかった。
[編集] 他地域での事例
同潤会アパートを参考に建設された現存する集合住宅に広島市の京橋会館がある。京橋会館は戦後の集合住宅としては、同潤会アパートの流れを受け継いだ唯一の建築であると同時に、戦後すぐの集合住宅に街区型が採用された唯一の例でもある。
京橋会館は1954年11月に広島市南区京橋町に建設された。広島市は1945年の原爆被災により壊滅。財政難の中で、復興に向けた都市整備が行われていたが、とりわけ住居不足の問題は深刻であった。状況を改善するため、広島市と広島県が協議し、県が主体となって集合住宅を供給することとなった(現在は広島市が所有)。
設計は広島県住宅公社が担当した。少ない予算と用地面積、台形の用地区画という条件下で、階数を抑えながらも、比較的小さな間取りで多くの住戸を用意する必要があったことや、戦後の公営集合住宅の標準仕様が確立する過渡期であったことから、戦前の同潤会アパートが参考とされた。結果的に、戦後の集合住宅建築としては珍しく、台形の区画をギリギリまで活用して四方向を住戸が囲み、中央部に中庭のある街区型建築で竣工した。
専門家は京橋会館の特徴的な重要性から、リニューアルを行って引き続き使用するか、表参道ヒルズのような活用策を探るべきであると指摘し、また若者の間でもレトロなデザインが支持されて根強い入居希望がある一方で、広島市が耐震性を理由に解体する方針を打ち出して現居住者に退居を求めており、議論は平行線を辿っている。
[編集] 関連項目
- 日本建築史
- 日本の住宅
- 廃墟
- 坪内ミキ子(女優:江戸川アパートの元住人)
- なだいなだ(作家、精神科医:江戸川アパートの元住人)
- 見坊豪紀(国語学者:明解国語辞典初版は江戸川アパートで書かれた)
- 戸川昌子(作家:大塚女子アパートの元住人)
- 浅沼稲次郎(政治家:清砂通アパートの元住人)
- 西山卯三(建築学者:1941-1944年に代官山アパートに住んだ経験を『住み方の記』に描いた)
- 表参道ヒルズ