大塚博堂
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大塚 博堂(おおつか はくどう、1944年3月22日 - 1981年5月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。本名:おおつか ひろたか(漢字同じ)。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現・東京音楽大学)声楽科中退。活動時の所属事務所は渡辺プロダクション。ジョルジュ・滝のペンネームも持つ。
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[編集] 人物
1972年に「大塚たけし」名義で歌手デビューするも、不発に終わる。その後クラブでの弾き語りの活動などが評判になり、1976年(昭和51年)6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳の再デビュー。これが評価され、遅咲きながらも『めぐり逢い紡いで』、『過ぎ去りし想い出は』や『季節の中に埋もれて』などの曲で活発な音楽活動を行ったが、1981年(昭和56年)5月18日に37歳で早逝した。5年間の活動に凝縮された彼の曲は、レコード化されたものが約80曲、没後に発表されたものを含めて約90曲である。その他、小野寺昭、岩城滉一やペギー葉山など他歌手に提供した歌が40曲ほどある。
[編集] 経歴
ステージ活動を中心にして全国を回り、"愛を唄う吟遊詩人"として徐々に人気を高めていった。ファン層は20代を中心とした女性が多く、コンサートでは涙を流しながら大塚の歌を聴く女性ファンが多かったと伝えられている。トレードマークのヒゲとサングラスで、低音から高音まで幅広い音域と、抜群の歌唱力で唄いあげる大塚のコンサートは、年間100ヶ所以上を数えた。
初期の作品は、デビュー曲『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』を作詞した藤公之介と組んだものが多かったが、3枚目のアルバム『もう少しの居眠りを』から作詞家「るい」(本名:小坂洋二)が登場する。「るい」は大塚が所属する渡辺プロダクションの社員で、大塚担当のマネージャーだった。また、後期は山川啓介と数曲組んでいる。そして最後のアルバム『感傷』では、全作品の作詞を阿久悠が行っている。
大塚の没後も、曲を唄い継いでいる歌手達がいる。主にシャンソン系の歌手が、自分のライブなどで唄うことが多いが、大塚郷、田口徹、山田友人など、主に大塚の歌を唄って「博堂シンガー」を名乗り活動している歌手もいる。
また、「大塚博堂倶楽部」というファン組織が現存している。13回忌に「博堂メモリアルライブ」の企画で集まったファンの呼びかけで、平成6年10月1日に出来た「大塚博堂ネットワーク」がその前身であり、平成7年5月18日に『大塚博堂旅立ち15回周年メモリアルライブ』が、特別ゲストにペギー葉山を迎えて武蔵野公会堂で開催された。その後、「大塚博堂ネットワーク」は発展的に解散し、同年10月に「大塚博堂倶楽部」として結成された。その後、大塚博堂の曲を21世紀に残すための活動や、メールマガジン「大塚博堂倶楽部通信」の発行などをしている。
[編集] 略歴・生前
- 1944年(昭和19年)3月22日 大分県別府市にて6人兄弟の末っ子として誕生。
- 1959年(昭和34年) 別府市立青山中学合唱部所属 大分県合唱コンクール優勝。中学時代に「NHKのど自慢大会」に出場し、県大会で入賞。
- 1960年(昭和35年)4月 大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校) 音楽科入学
- 1963年(昭和38年)4月 東洋音楽大学 声楽科入学
- 1966年(昭和41年) 東洋音楽大学 声楽科中退
- 1966年(昭和41年)~1967年(昭和42年) 別府市の音楽喫茶などで唄う
- 1968年(昭和43年)3月~ 博多のクラブ「絹」、「長島」などでジャズシンガーとして活動。
- 1972年(昭和47年)7月7日 渡辺プロダクションにスカウトされて上京
- 1972年(昭和47年)8月 「大塚たけし」の芸名でデビュー。 シングル「自由に生きてほしい(作詞:阿久悠 作曲:井上忠夫 編曲:青木望)/薔薇のトゲ(作詞:千家和也 作曲・編曲:クニ河内)」をワーナー・パイオニアから発売。
- 1972年(昭和47年)9月29日 「日本歌謡祭'72」に出場、「自由に生きてほしい」を唄う
- 1973年(昭和48年)8月 2枚目シングル 「風は知らない(作詞:山口あかり 作曲:平尾昌晃 編曲:竜崎孝路)/愛は燃えつきて(作詞:山上路夫 作曲・編曲:クニ河内)」を発売、「風は知らない」は、フジテレビのドラマ「トリプル捜査線」の主題歌に採用される。
- 1974年(昭和49年)~1975年(昭和50年) 「大塚たけし」の名前でシングルレコードを2枚発売したが、ほとんど仕事がなく、大塚博堂の不遇時代。この頃、藤公之介の詩集と出会い、気に入った詩に勝手に作曲して歌を作っていた。
- 1975年(昭和50年)秋 青山のクラブ「バルセロナ」での、オリジナル曲の弾き語りが評判となる。
- 1976年(昭和51年)6月25日 日本フォノグラムから、シングル「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」でデビュー
- 1976年(昭和51年)8月25日 初のアルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」発売
- 1976年(昭和51年)NHK銀河テレビ小説「幻のぶどう園」挿入歌に「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」が採用される。
- 1976年(昭和51年)10月6日 横浜音楽祭 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で出場。最優秀新人賞
- 1978年(昭和53年)2月13日 フジテレビ「夜のヒットスタジオ」で「哀しみ通せんぼ」を唄う
- 1978年(昭和53年)4月 渡辺プロダクションが、若者のニューミュージック指向を高めようと「ノンストップ」プロジェクトを立ち上げ、大塚もその一員となる(メンバーは、大塚博堂・太田裕美・桑江知子・山下久美子・ルイス・ララ)。
- 1978年(昭和53年)6月9日 第5回広島平和音楽祭に「めぐり逢い紡いで」と「小さな幸福でよければ」で出場
- 1978年(昭和53年)12月31日 NHK紅白歌合戦で布施明が「めぐり逢い紡いで」を唄う
- 1979年(昭和54年)エーザイのCMソングに「もう子供でも鳥でもないんだから」採用される。
- 1979年(昭和54年)5月20日 東京音楽祭に「もう子供でも鳥でもないんだから」で出場
- 1979年(昭和54年) NHKテレビで「旅でもしようか」が、NHK-FMのイメージソングとして放送される
- 1979年(昭和54年) 日本テレビのドラマ「聖女房」の主題歌に「青春は最後のおとぎ話」が採用される
- 1979年(昭和54年)11月10日 フジテレビのドラマ、西武スペシャル・「女が職場を去る日」(原作:沖藤典子)主題歌に「花びらは風に」が採用される。
- 1979年(昭和54年)12月15日 日本テレビのドラマ「ちょっとマイウェイ」、第10話「またメチャメチャになっちゃうよ」に桃井かおり演じる浅井なつみの元恋人のジャズピアニスト・藤倉信夫役で出演
- 1980年(昭和55年)11月21日 日本フォノグラムから東芝EMIに移籍し、「センチメンタルな私小説」発売
- 1980年(昭和55年) NHKテレビで「センチメンタルな私小説」が、NHKのイメージソングとして放送される
- 1981年(昭和56年) 「春は横顔」が、マックスファクター春のキャンペーンソングに採用される。キャッチフレーズは「春は横顔 新発見」(3月までCMで放送される)
- 1981年(昭和56年)3月21日 東京音楽祭に「トマトジュースで追いかえすのかい」で出場
- 1981年(昭和56年)4月10日 福島県郡山市でのコンサートが、春の全国ツアー最後となる。
- 1981年(昭和56年)5月5日 NHKテレビ「子供の歌のフェスティバル」に出演
- 1981年(昭和56年)5月14日 早朝、目黒区青葉台のマンション自宅で倒れる。脳内出血
- 1981年(昭和56年)5月18日 入院中の東邦大学付属大橋病院にて逝去
- 1981年(昭和56年)5月19日 東京都品川区の桐ヶ谷寺で告別式
[編集] 略歴・没後
イベントなど
- 1981年(昭和56年)6月8日 札幌市「札幌市民会館」にて「追悼の夕べ」
- 1981年(昭和56年)7月5日 大分市「レインボービル」にて博堂追悼コンサート「言い遺したサヨウナラ」
- 1981年(昭和56年)7月7日 福岡市「南市民センター文化ホール」にて博堂追悼コンサート
- 1981年(昭和56年)7月14日 名古屋市「芸音劇場」にて博堂追悼レコード・フィルムコンサート
- 1981年(昭和56年)8月25日 別府市「別府中央公民館」にて百ヶ日追悼コンサート「早すぎた時の流れ」
- 1981年(昭和56年)7月20日 東京にて(詳細不明)
- 1981年(昭和56年)10月5~9日 銀座「博品館」にて博堂追悼ミュージカル「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」が上演される。演出は藤公之介、たちはらるいが大塚博堂役。
- 1982年(昭和57年)5月~ 長崎市にて毎年5月末に大塚の同級生、松田しょうじ氏が追悼ライブ開催
- 1982年(昭和57年)5月18日 「大分文化会館」にて、博堂忌~大塚博堂一周忌コンサート(ゲスト:江本孟紀)
- 1982年(昭和57年)7月20日 名古屋市「厚生年金会館」にて「翔び続けよ!! ダスティン・ホフマン」~~ピアノとバイオリンで奏でる大塚博堂の世界~~
- 1984年(昭和59年)5月6日 新宿「ルイード」にて、3回忌追悼集会「大塚博堂同窓会」が開催された。博堂の母も出席し、「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」120万枚突破のゴールデンディスク受賞。
- 1984年(昭和59年)6月10日 日比谷のNECショールームにて「あれから3年、大塚博堂」ビデオコンサート
- 1995年(平成7年)5月18日 武蔵野公会堂でイベント(司会:藤公之介 ゲスト:ペギー葉山・原大輔・青木裕史)
- 1999年(平成11年)12月14日 仙台市においてイベント(司会:藤公之介 ゲスト:加藤久仁彦・ケーシー・ランキン・田代美代子・シルビア・グラブ・田口徹)
- 2000年(平成12年) 博堂を歌う100曲コンサートを各地を回って一年間開催(ナビゲーター:藤公之介 歌手:加藤久仁彦・山田友人・オユンナ・塚田三喜夫 ピアノ:戸塚修 バイオリン:天野紀子)
[編集] 作品・シングルレコード
[編集] 生前発売
- ダスティン・ホフマンになれなかったよ/坂の上の二階 - 1976年6月25日 フィリップス
- 過ぎ去りし想い出は/夕暮れのような微笑 - 1977年3月5日 フィリップス
- 季節の中に埋もれて/旅でもしようか - 1977年8月25日 フィリップス
- 哀しみ通せんぼ/翌朝 - 1978年2月5日 フィリップス
- めぐり逢い紡いで/小さな幸福でよければ - 1978年7月5日 フィリップス
- LOVE IS GONE/ピアノコンチェルトは聞こえない - 1978年11月5日 フィリップス
- もう子供でも鳥でもないんだから/星への階段 - 1979年4月5日 フィリップス
- 青春は最後のおとぎ話/異人館通り - 1979年10月5日 フィリップス
- 愁雨(うれいあめ)/花びらは風に - 1980年4月25日 フィリップス
- ベスト・カップリング「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」と「過ぎ去りし想い出は」 - 1979年 フィリップス
- センチメンタルな私小説/ブルーダンシング - 1980年11月21日 東芝EMI
- 春は横顔/たそがれ - 1981年2月5日 東芝EMI
[編集] 没後発売
- 娘をよろしく/同・カラオケ - 1981年6月16日 フィリップス
- Never Could Say Good‐bye/映画館 - 1981年6月16日 フィリップス
- トマトジュースで追いかえすのかい/処女よ - 1981年7月21日 東芝EMI
[編集] 作品・LPアルバム(生前)
- ダスティン・ホフマンになれなかったよ(1976年8月25日 日本フォノグラム)
- 過ぎ去りし想い出は(1977年3月5日 日本フォノグラム)
- もう少しの居眠りを(1978年2月5日 日本フォノグラム)
- LOVE IS GONE(1978年11月5日 日本フォノグラム)
- もう子供でも鳥でもないんだから(1979年4月25日 日本フォノグラム)
- 青春は最後のおとぎ話(1979年10月25日 日本フォノグラム)
- 大塚博堂ライブ(1980年7月25日 日本フォノグラム)
- 感傷(1981年2月21日 東芝EMI )
[編集] 作品・アルバム(没後)
- 大塚博堂・FOREVER(1981年8月25日 日本フォノグラム)
- 大塚博堂・ゴールデンアンソロジー(2枚組LP、発売日・不明 日本フォノグラム)
- 大塚博堂・デラックス・パッケージ'82(2枚組LP、1981年12月5日 日本フォノグラム)
- 大塚博堂・PERFECT LIVE(2枚組、1984年 日本フォノグラム)
[編集] 作品・CD(没後)
(注)LPアルバムの、「青春は最後のおとぎ話」まではCD化され発売されている。 「感傷」はまだCD化されていない。
- 大塚博堂・ラストライブ - 1986年4月25日 フィリップス
- 大塚博堂・ストーリー - 1987年1月25日 ユニバーサルミュージック
- ダスティン・ホフマンになれなかったよ~過ぎ去りし想い出は - 1987年9月30日 フィリップス
- 大塚博堂・THE BEST - 1989年 ユニバーサルミュージック
- 大塚博堂・ライブスペシャル - 1989年11月5日 アポロン
- 大塚博堂・NEW BEST - 1993年5月26日 ユニバーサルミュージック
- 1800シリーズ・大塚博堂 - 1996年11月21日 マーキュリー
- あの日あの時 - 1999年7月1日 マーキュリー
- ライブベスト・博堂は風になった - 2001年7月21日 VAP
- ベストセレクション・博堂は風になった - 2001年9月15日 渡辺音楽出版
- 大塚博堂・スーパーバリュー - 2001年12月19日 キティMME
- 大塚博堂・ゴールデンベスト・シングルス - 2003年11月26日 ユニバーサルミュージック
- 大塚博堂・ベスト10 - 2005年11月9日 ユニバーサルミュージック
- 大塚博堂・MEMORIAL BEST + LAST LIVE - 2006年8月30日 ユニバーサルミュージック
[編集] 提供曲
[編集] 生前発売
- 葵まつり - 「桜模様」「心しらず」(作詞:竜真知子 編曲:クニ河内)
- 石川ひとみ - 「ショッキング・ブルー」(作詞:松岡つばめ 編曲:大村雅朗)
- 伊勢功一 - 「サザンクロス」(作詞:藤公之介)
- 岩城滉一 - 「風媒花」「CHANGING MINDS」「心寂しき狩人」(作詞:るい 編曲:津村泰彦)
- 小野寺昭 - 「やがてむらさき」「水彩画の少女」「旅に出ませんか」(作詞:藤公之介 編曲:小六禮次郎 ※作曲・ジョルジュ滝名義)
- 具志堅用高 - 「やつが行く」(作詞:藤公之介)「今度生まれて来る時は」(作詞:るい 編曲:あかのたちお)
- 斉藤とも子 - 「陽のあたる坂道」(作詞:るい 編曲:戸塚修)「きっと夕焼け」(作詞:森雪之丞 編曲:井上鑑)
- 佐藤光政 - 「悪口」(作詞:藤公之介 ※作曲・ジョルジュ滝名義)
- 高田ジョニー - 「ひとときの安らぎ」、「K子の部屋」(作詞:藤公之介 編曲:松岡直也)
- 日吉ミミ - 「ピリオッド」「春待ちながら」(作詞:門谷憲二 編曲:竹村次郎)
- ペギー葉山 - 「あかねさす紫野」「あかねさす紫野part II」「落葉の日」(作詞:山口洋子)
- 桃井かおり - 「愛のかさねぎ」(作詞:桃井かおり 編曲:後藤次利)
[編集] 没後発売
- 青木裕史 - 「かすみ草哀歌」(作詞:るい 編曲:石川大明)※1985年(昭和60年)シングル発売
- 加門亮 - 「風に吹かれて」(作詞:やしろよう)※注:たちはらるい「人を愛したら」と同曲、詞違い。2001年(平成13年)発売CD
- 古賀孝 - 「RAIN RAIN RAIN」「泣き顔美人」(作詞:大内田たか子 編曲:惣領泰則)※1982年(昭和57年)?発売LP「哀しみはイエスタデー」に収録
- たちはらるい - 「人を愛したら」「心の端をつまんで」「少女の誘惑」「涙が耳を濡らして」「ガラスの愛撫」(作詞:藤公之介 編曲:小六禮次郎)※1981年(昭和56年)9月発売LP「じゃあ、また・・・」収録
[編集] 競作曲・カバー
- 青木裕史 - 「旅でもしようか」「男と女の光景」「青春の宴」「めぐり逢い紡いで」「春は横顔」「トマト・ジュースで追いかえすのかい」「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」
- 梓みちよ - 「トマトジュースで追いかえすのかい」(編曲:後藤次利)
- 麻生よう子 - 「青春の宴」「人を愛したら」(編曲:竜崎孝路)
- 大木康子 - 「季節の中に埋もれて」「旅でもしようか」
- 小野寺昭 - 「旅でもしようか」(編曲:萩田光雄)「街」(編曲:小六禮次郎)
- 門倉有希 - 「めぐり逢い紡いで」(編曲:今泉敏郎)
- 狩人 - 「過ぎ去りし想い出は」
- 小柳ルミ子 - 「哀しみ通せんぼ」
- さとう宗幸 - 「過ぎ去りし想い出は」(編曲:矢野立美)「娘をよろしく」
- すがはらやすのり - 「旅でもしようか」
- 関口祐二 - 「過ぎ去りし想い出は」(ギター演奏、ボーカル・原田ユリコ、フランス語によるボーカル、フランス語題「Nos souveniss s'envolent」)
- 高橋亜貴子 - 「後悔(ぐち)」(作詞:るい)
- たちはらるい - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「街」「ママ」(「僕のママ」と同曲)「60歳の日」(編曲:小六禮次郎)
- 白竜 - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」
- 原大輔 - 「過ぎ去りし想い出は」「めぐり逢い紡いで」(編曲:丸山雅仁)
- 日高晤郎 - 「過ぎ去りし想い出は」「めぐり逢い紡いで」
- 日吉ミミ - 「ラブ・イズ・ゴーン」(編曲:神山純)
- 布施明 - 「新宿恋物語」(作詞:藤公之介)「めぐり逢い紡いで」(編曲:宮川泰)
- ポーラ・チョイ(徐小鳳) - 「Never Could Say Good-bye」(漢表記「星星問」あるいは「謝幕」)
- ボニージャックス - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」
- ミルバ(Milva) - 「過ぎ去りし想い出は」
- 夢彗 - 「旅でもしようか」
- ヤドランカ(Jadranka Stojaković) - 「過ぎ去りし想い出は」
- レイモンド・チョイ(蔡濟文) - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」
[編集] 未発表曲
(レコード化されなかった歌)
- 「カラス」 - ステージ曲(この歌のみ2003年(平成15年)12月に、リミックスしてCD化され発売)
- 「黄色いリンゴ」 - ステージ曲
- 「墓守唄」 - ステージ曲
- 「Mrギターマン」 - ステージ曲
- 「賛歌」 - 昭和47年合歓ポピューラーフェスティバル「日本歌謡祭'02」出場曲(作詞:阿久悠 作曲:井上忠夫)
- 「シンドバッドの船」 - 1977年(昭和52年)12月放送 NHKラジオ「みんなのうた」(作詞・作曲:高橋正平 編曲:小野崎孝輔)
[編集] 「スクランブル・ダスティン・バンド」のメンバー (担当楽器など)
- 大塚博堂(ボーカル、ギター、コンガ、ピアノ)
- 岩村義道(リードギター)・・・博堂デビュー4ヶ月後から博堂と二人でツアー(福岡時代の仲間)
- 山中さとし(フルート、ギター、キーボード)・・・岩村が呼び寄せた、福岡時代の仲間
- 竹村進二(ベース)
- 桜田 賢(ドラム)
- 逸見良造(キーボード)
(参加順、バンドメンバーは入れ替わりあり、主なメンバー記載)
[編集] マスコミ出演記録
- 1978年(昭和53年)2月13日 『夜のヒットスタジオ』 フジテレビ、「哀しみ通せんぼ」唄う
- 1978年(昭和53年)11月29日 『スターと共に・夜は友達』 東海ラジオ(博堂ディクスジョッキー)
- 1979年(昭和54年)5月20日 『ニューミュージックナウ』 FM愛知(司会:伊藤強、古手川祐子)
- 1979年(昭和54年)7月8日 『ニューミュージック共和国』 FM愛知(司会:小林よしと)
- 1979年(昭和54年)末頃 『(番組名不明)』 NHK-FM(女性アナウンサー)
- 1979年(昭和54年)12月15日 ドラマ『ちょっとマイウェイ』 日本テレビ 桃井かおりの恋人役で出演
- 1979年(昭和54年)12月16日 『DENONライブコンサート』 FM東京(司会:菅野沖彦)
- 1979年(昭和54年)12月29日 『ヤングタウン東京・サタディーハッピーナイトコンサート』TBSラジオ(司会:ハイ・ファイ・セット、ゲスト:ザ・ナターシャー・セブン、サーカス)
- 1981年(昭和56年)2月頃 『テクギン サウンド スポット』 文化放送(司会:梶原茂、ゲスト:アルフィー)
- 1981年(昭和56年)春頃 『(番組名不明)』NHK-FM(博堂ディクスジョッキー、3日分)
- 1981年(昭和56年)春頃 『関東ミュージックエクスプレス』 ラジオ局不明 (司会:山崎イサオ)
- 1981年(昭和56年)5月5日 『子供の歌のフェスティバル』 NHKテレビに出演
- 1981年(昭和56年)9月20日 『今夜はすごいぜ』 FM愛知 (司会:つボイノリオ)4月頃にスタジオ録音されていたが、放送前に逝去し、オクラ入りになっていたのを9月に追悼番組として放送。
[編集] ライブ、コンサートの記録
- 1976年(昭和51年)10月20日 「いわき市コンサート」 - いわき文化センター(ツアー開始初期のもの)
- 1977年(昭和52年)3月5日 「別府市ライブ」 - ヤンキースタジアム。LP「過ぎ去りし想い出は」発売キャンペーン
- 1977年(昭和52年)11月頃 「函館市コンサート」 - 会場名不明 (「ふきのとう」とのジョイント・ライブ)
- 1977年(昭和52年)秋頃 「福島市コンサート」 - 福島市民会館
- 1978年(昭和53年)5月23日 「旭川市コンサート」 - 旭川市公会堂(福沢恵介とのジョイント・ライブ)
- 1978年(昭和53年)6月 「山形市コンサート」 - 山形県民会館※カラオケDAM (カラオケ)「めぐり逢い紡いで」に出てくる映像は、このコンサートのものと思われる。
- 1978年(昭和53年)8月3日 - 大阪・梅田コマ(太田裕美・大上留利子とのジョイント・ライブ)
- 1978年(昭和53年)10月31日 「NEW・30 MUSIC コンサート」 - 東京・九段会館(佐々木幸男・田口清・大野真澄とのジョイント・ライブ)
- 1979年(昭和54年)2月10日 「山形市コンサート」 - 山形県民会館(ビデオ録画もあり)
- 1979年(昭和54年)5~6月頃 「真駒内コンサート」 - 真駒内区民センター
- 1979年(昭和54年)5月28日 「新潟市コンサート」 - 新潟市公会堂
- 1980年(昭和55年)4月21日 - 渋谷公会堂
- 1980年(昭和55年)12月19日 - 新宿ロフト(江本孟紀とのジョイント・ライブ)
- 1981年(昭和56年)3月18日 「横浜市コンサート」 - 神奈川県民ホール
- 1981年(昭和56年)3月頃 「日高晤郎カフェオーレサロン」 - 札幌パークホテル
[編集] 参考資料・単行本
- ダスティン・ホフマンになれなかったよ - 著者:藤公之介・大塚博堂、1976年7月31日発行、ルック社、680円
- 大人になれなかった男たちのバラード 〈上記の改題版〉 - 1977年7月31日発行、ルック社、850円
- ダスティン・ホフマンになれなかったよ 〈上記の復刻版〉 - 1994年3月25日発行、吟遊社、1,000円
- 博堂伝説~ダスティン・ホフマンになれなかったよ~ 〈2度目の復刻版かつ新装版〉 - 2002年5月18日発行、岩崎電子出版、1,800円(2006年現在入手可能)
- 表紙・写真などが変更され、最終章「博堂との別れ、そして山田友人との出会い」が加筆された。
- 博堂は風になった - 大塚俊英著、1982年5月20日発行、日之出出版、980円
- 博堂の13歳違いの兄が1回忌に出版した追悼本。「大塚博堂、その短すぎた音楽人生」として、関係者の話や、新聞記事、労音機関紙、渡辺プロ機関紙などの資料を参考にして纏めた。
- 博堂は風になった 〈新装版〉 - 博堂生誕50年記念、1994年12月25日発行、吟遊社、1,200円
- 詩集・大塚博堂よ - 藤公之介著、1995年6月発行、吟遊社、1,800円
- 『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』の作詞家・藤公之介が、亡き大塚博堂に捧げた詩集。
- 劇画・ダスティン・ホフマンになれなかったよ - 原作:藤公之介、画:大木美千代、1995年5月18日発行、1,000円
- 女性誌「セブンティーン」1981年10月号に掲載されたものが、単行本として15回忌に発行された。内容は、1981年10月に銀座「博品館」で上演された博堂追悼ミュージカル「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」 のダイジェスト版。
- 大塚博堂・楽譜全集 - 1979年2月10日発行、ドレミ楽譜出版社 (写真及び資料提供 - 渡辺音楽出版社)、1,000円
- ファーストアルバム『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』から、4枚目のアルバム『LOVE IS GONE』までの44曲分が収録されている。
- 大塚博堂・楽譜全集 - 1984年9月20日発行、ドレミ楽譜出版社 (写真及び資料提供 - 渡辺音楽出版社)、1,800円
- ファーストアルバム『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』から、7枚目のアルバム「感傷」までの76曲に、ライブ盤・追悼盤とEP盤から7曲、合計83曲を収録。
[編集] 大塚博堂追悼曲
- 「ダスティン・ホフマンになれなたじゃないか」 - 1981年(昭和56年)10月 博堂追悼ミュージカルで発表。(唄:たちはらるい、作詞:藤公之介、作曲:たちはらるい)
- 「駆けぬけた風」 - 博堂に奉げる歌としてシャンソン歌手、青木裕史が作詞作曲し自分のコンサートで唄う。(唄:青木裕史、作詞:青木裕史、作曲:青木裕史)
- 「おまえの声が聞こえる」 - 1993年(平成5年) 博堂13回忌追悼CD「風の中で」に収録。(唄:山崎イサオ、作詞:山川啓介、作曲:宮川泰)
- 「Nice to Meet You」 - 1993年(平成5年) 博堂13回忌追悼CD「風の中で」に収録。(唄:山崎イサオ、作詞:池田裕幾、作曲:宮川泰)
- 「総天然色の日々」 - 1994年(平成6年) 博堂に奉げる歌としてリリース。(唄:原大輔 作詞:藤公之介、作曲:高関勝美)
- 「ダスティン~博堂別離の詩」 - 告別式で詠まれた弔辞の詩に作曲し、2004年(平成16年)発表。(唄:山田友人、作詞:井手ごいち、作曲:山田友人)
- 「一本のギター」 - 博堂生誕60年、24回忌記念曲。(唄:田口徹、作詞:藤公之介、作曲:田口徹)
- 「博堂の風に吹かれて」 - 博堂生誕60年、24回忌記念曲 2004年(平成16年)12月発表。(唄:山田友人、作詞:藤公之介、作曲:山田友人)
- 「今もそして永遠に…」 - 2006年9月に発売された大塚博堂デビュー30年、没後25年を機に作られた甥、大塚郷のCD「今もそして永遠に…」に収録。(唄:大塚郷 作詞:大塚郷 作曲:大塚郷)
[編集] 関連人物・項目
- 五木寛之 - アルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」収録曲、「一冊の本」の歌詞に登場する。13回忌の頃、ラジオ番組、五木寛之の夜 (TBSラジオ)で、三雲孝江と大塚の事を偲んだトークをしていた。歌詞の五木寛之の所に、色々な作家を当てはめて、やっぱり五木寛之がぴったりだな話したり、歌詞に出てくる男と女の愛の憎しみって、どの小説かな?と話したり、彼の声は低音はいいが、高いところの出ていいね、などと話していた。
- 江本孟紀 - 現役時代、知人を貰ったテープを聴きファンになる(大学の先輩である山本浩二と言う説もある)。その後、知人を介して大塚と知り合う。プロスポーツ選手歌合戦で、大塚の持ち歌を歌い優勝したこともある。1980年12月19日、新宿ロフトでジョイントコンサートを行った(ゲスト・古沢憲司)。その後、お互い忙しくなり、曲を大塚に書いてもらう約束をしていたが、亡くなったため実現せず。二日後先発の予定だったが、球団に許可をもらい通夜に参列した。また、メモリアルコンサートに数回出演している。野球関係では、他では、元・広島カープ・西武ライオンズ投手で、左のワンポイントとして活躍した永射保が大塚のファンである。
- 大沢悠里 - リクエスト葉書で名を知り、番組にゲストで呼んでから親しくなった。自分の番組のコーナーで「旅でもしようか」を流す。アナウンサー界の大塚博堂と自称している(テレビにあまり出ない為)。
- さとう宗幸 - フランスの吟遊詩人、ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)を敬愛する者同士、また、お互いにデビューが遅かったので、うまが合い親しくしていた。アルバムで、大塚の「過ぎ去りし想い出は」「娘をよろしく」を歌っている。「過ぎ去りし想い出は」に至っては、アルバムのタイトルになっている。
- 高倉健 - 知人に大塚の歌が入ったテープをもらいファンになる。作詞家・藤公之介に、新しいアルバムを出すので、大塚と組んで曲を作ってほしいと電話でオファーしたことがある(急ぎの仕事のため実現せず)、大塚と実際に会ったことはないが、メモリアルコンサートに数度、メッセージを贈る。
- 高橋真梨子 - 博多のクラブ「絹」、「長島」などでジャズシンガーとして活動していた時、同時期に活動していた。大塚の事を兄のように慕っていた。また、この当時、デビュー前の俳優田中健が、よく見に来ていた。
- はらたいら - 「めぐり逢い紡いで」と言う著書(1981年10月発行)の前書きにおいて、~「めぐり逢い紡いで」ーこのタイトルは、覚えている方も多いと思うが、今年、三十七歳で亡くなられた歌手、大塚博堂さんの歌から拝借した。職業こそ違え、ぼくとほぼ同年齢で、彼の歌にはどこか“同世代の哀歓”が感じられたからだ。~と記している。
- 藤山寛美 - 娘の結婚式で大塚が「娘をよろしく」を歌った。夫が渡辺プロの社員なので出席した。
- 布施明 - 「めぐり逢い紡いで」を歌う。他にも「新宿恋物語」をコンサートで歌っていた。
- ペギー葉山 - 1980年に、万葉集を現代風に作詞して、ニューミュージック系の作曲家に曲をつけてもらい歌う企画レコード「万葉の心を求めて」を出す。そのうち、「あかねさす紫野」「落葉の日」を、大塚が担当した(他には、来生たかお・南佳孝などがいた)。誰に作曲をして欲しいか?と言うのに、真っ先に大塚の名が思いついた。歌う前に、大塚が歌ったデモテープが届き聴いたが、それを聴いて、「こんな風に歌えるだろうか?」と怖気づいた。レコーディングには、大塚が一緒にいたが、表情を変えず、本当にいいと思っているのか心配になった。このアルバムは、この年のレコード大賞企画賞を受賞。大塚が亡くなった後、メモリアル・コンサートで泣いていた。その後、13回忌のイベントにゲスト出演。大塚とのエピソードを語った後、「あかねさす紫野」を歌う。
- 森進一 - 「めぐり逢い紡いで」を布施明と取り合った。
- 大分県出身の有名人一覧
- ワタナベエンターテインメント
[編集] 関連外部リンク
- めぐり逢い紡いで - 博堂の甥でシンガーソングライター、大塚郷のサイト
- やすらぎのラブソングをあなたに - 2000年(平成12年)11月「博堂を歌う、全百曲コンサート」で博堂シンガーとしてデビューした、山田友人のOfficial Website
- 大塚博堂EVERGREEN - 私設ファンサイト
- 大塚博堂倶楽部 - メルマガ「大塚博堂倶楽部通信」を発行
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