高倉健
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高倉 健(たかくら けん、本名 小田剛一 おだ ごういち、男性、1931年2月16日 - )は日本の映画俳優、歌手。福岡県中間市で、父は旧海軍軍人で炭鉱夫の取りまとめ役をするなど裕福な一家に生まれる。幼少期は肺を病み虚弱であった。福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科→明治大学商学部商学科卒、相撲部でマネージャーを1年やる。
日本を代表する文化人的芸能人であり、半世紀にもわたって活躍を続けるベテラン役者である。特に中国では、日本映画界を代表する俳優として絶大なカリスマ的人気がある。代表作は「網走番外地」シリーズ、「日本侠客伝」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズ、「山口組三代目」シリーズ、「八甲田山」、「南極物語」、「鉄道員」などでいずれも邦画史に残る大ヒットを記録している。70代になっても大作に主演し続け、国際的にも活躍するスーパースター。海外では特に中国で人気がある。愛称は健さん。元妻は歌手・女優の江利チエミ(故人)。1971年に離婚した後は、現在まで再婚せず独身のままである。元オリックス監督の仰木彬は高校の後輩。2006年、文化功労者に選ばれた。
江戸時代末期に「東路日記」を記した筑前の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。
画像:144-4485 IMG.jpg== 高倉健データ ==
- 身長 180㎝
- 体重 81kg
- 趣味 旅・車・乗馬
- 高倉プロモーション所属
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[編集] 出演状況
1955年(昭和30年)、東映に入社。当時、ニューフェイスは俳優座演技研究所で6ヶ月、プラス、東映の撮影所で6ヶ月の修行(端役出演など)が決められていたにもかかわらず、入社わずか1ヶ月あまりで映画「電光空手打ち」の主役で華々しくデビュー。それまで演技経験も全くなく、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない新人の高倉がすぐに主役デビューすることはまさに大抜擢であった。その後、現代劇を中心に主演スターとして活躍。だが、まともに演技のトレーニングを受けたことがないまま映画出演を続けたことが、ずっとコンプレックスになっていたという。1960年代前半までの時代劇映画中心の東映では大スターとはいえず、片岡千恵蔵や美空ひばりの映画作品の助演も多かった。
その流れが変わることになるのは、ヤクザ映画ブームの起点となる「人生劇場・飛車角」(1963年、鶴田浩二主演)に出演し注目を集めてからである。1964年から始まる「日本侠客伝」シリーズ、1965年から始まる「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなる。当時の学生運動の闘士達にも大人気でオールナイト興行にまで学生達があふれ、立ち見が出た。飲む打つ買うの映画界にあって、自らを厳しく律し、酒を飲まず筋力トレーニングを続けて肉体美を作っていた健さんの刺青姿の立ち回りは圧巻で、他のスターとは別次元の凄みがあった。たくましい体の背筋をピンと伸ばし、寡黙、言い訳をせず筋を通すという健さんのイメージはこの頃作られ、21世紀の現在まで役柄に現れている。
歌手としてもドスの利いた渋いノドを聞かせ大人気となる。「網走番外地」は、歌詞のため放送禁止になったがミリオンセラーの大ヒット。「昭和残侠伝」シリーズの主題歌「唐獅子牡丹」も大ヒットとなり、今でもカラオケなどで歌い継がれている。1975年まで凄まじい数のヤクザ映画に出演。今でもヤクザ映画のシンボル的存在として歴史に残っている。
1960年代に入って新東宝の倒産に始まり、映画は本格的なテレビ時代の到来(1962年にテレビの普及台数は1200万台を突破し、アメリカに次いで世界第2位になった)や高度経済成長によるレジャー・娯楽の多様化などに押され、観客数が激減し続ける斜陽産業になり、1971年には大映も倒産、同じく業績不振だった日活も低予算のにっかつロマン・ポルノに変更を余儀なくされ、残りの大手映画会社も同時期から制作本数を大幅に減らし、戦前から長く続いてきた各映画会社専属制のスター・システムもついに崩壊。石原裕次郎、中村錦之助(萬屋錦之介)、若尾文子、佐久間良子らをはじめとする、それまでの日本映画黄金期のスター達の多くが映画に見切りをつけテレビドラマに活躍の場を移したが、高倉だけは2007年の現在まで唯1人、映画スターであり続けている。テレビドラマやバラエティー番組などにはほとんど出ない。近年出演したのは『SMAP×SMAP』(フジテレビ)くらいである。この貴重な出演は後日の「SMAP×SMAP特番」でも視聴者たちからの『ビストロSMAP名場面リクエスト第1位』に選ばれた。今も純粋に役者として現役で演じている数少ない映画スター。ちなみにテレビCMへの出演は少なくない。近年ではFMVのテレビCMに出演しコミカルぶりも見せている。
来る日も来る日も同じようなストーリーのヤクザ映画へ休みなく出演し続けることに嫌気がさし、1973年に高倉プロを設立。1975年には東映を退社。1977年には松竹の『幸福の黄色いハンカチ』で初の他社映画出演を果たす。75歳を超えた現在でも客を呼べる主演スターとして君臨している例は世界でも珍しく、他に日本でも有名な俳優としてはハリウッドのクリント・イーストウッドくらいである。
[編集] 人物
とても礼儀正しい人として知られている。共演者にも挨拶を忘れず、監督やプロデューサー、果ては若手スタッフにも敬意を払いお辞儀する。超ベテラン俳優の高倉健にお辞儀されると監督やプロデューサーもふかぶかとお辞儀を返すので製作者側、キャスト側で良好な人間関係が築かれているという。堅実な役柄などが多いが、実際堅実な男である。非常に落ち着いた物腰と態度を持ち、共演者を安心させるオーラを発散させている。マスコミにまでも礼儀正しく接するので社会的にもとにかく受けが良い。主に硬派な演技、シリアスな演技を得意とし、男の中の男を演じるさまは男女問わず多くの共感を誘う。ちなみに高倉健のスター性は今現在では絶対的なものとなっており、例えベテランの役者や古参芸能人でさえも近くに行くと緊張してしまうほど。衣装にしわをつけないために撮影現場ではほとんど立ったままで過ごすと言われている。[要出典]
又、非常に謙虚で、『夜叉』で共演したビートたけしが映画公開時に自身がDJをしていたオールナイトニッポンにて発言した所によると、真冬の青森へロケに行った際、高倉は休みの日だったがロケ現場へ激励に現れた。厳冬下であったので出演者・スタッフは焚火にあたっていたが高倉は焚火にあたろうとしないので、スタッフが焚火にあたらないのかと聞いた所、「自分はオフなので、自分の様な者が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた為、スタッフだけでなく、共演者も誰一人申し訳なくて焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃああたらせていただきます」とようやく焚火にあたれることが出来たそうである。尚、たけしは「健さんたのむから帰ってくれ」と思ったという。
同じ「夜叉」の撮影初日が終わり役者、スタッフの泊まる旅館へ帰り、食事を取るため食堂へ行くと、健さんと監督の前だけ他の人とは違い豪華な料理が並んでいるのを見て、「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と発言し改めて尊敬を集めることになる。
役作りにも非常に熱心で、やくざシリーズが終焉し役者として再起を図るために出演した「幸せの黄色いハンカチ」では、最初の登場シーンで、刑務所から出所し食堂でビールとラーメンとカツ丼を食べるシーンではリアルな演技で1テイクで山田監督からOKが出る。あまりにも見事な演技だったので問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした。」と言葉少なく語り、山田監督も唖然としたようである。
高倉健のファンである中国の映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉健が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたのを見て、「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない。」と発言している。そのため連日スタッフも椅子に座ることが出来なくなってしまった。また、張芸謀は中国で初めて、彼の主演映画である佐藤純彌監督の『君よ憤怒の河を渉れ』が上映された時、中国人の反日映画に出てくる日本人へのイメージが変わり、日本人のイメージは彼によってかなり良好になったとも発言している。その映画は中国人の半分が観たとも言われており、その映画の宣伝のために高倉健と田中邦衛が訪中した時、宿泊先のホテルには高倉健目当てのファンが大勢詰め掛けた事から、当時の中国での彼の人気がすさまじかった事がうかがえる。[要出典]
上記の様な理由から、役者の中でも尊敬している人も多く、これもビートたけしがオールナイトニッポンで発言していたが、映画で共演した武田鉄矢は100m先で高倉健を見かけると、「健さ~ん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきたと言われている。 その他、石倉三郎、小林稔待、坂東英二など同業の俳優からも絶大な支持を得ている 石倉三郎は、芸名に「倉」の字を貰い、小林稔寺も息子に「健」の名前を付けたりと多大な影響を与える。 親密になった共演者には「ロレックス」などの高級時計に「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣がある。 近年では、『ブラックレイン』で競演した松田優作がいるが、旅先で訃報を聞き帰国後松田邸へ出向き 婦人に、やはり時計を手渡したと言われる。この時の時計はロレックスのGMTマスター。 彼ならきっと世界に通用する俳優であると確信した健さんの想いがこの「グリニッジ標準時」の時計に現れている。
「不器用ですから」の台詞が代名詞になるほど、無骨で無口なイメージがあるが、実際の彼は非常におしゃべりだそうである。ビートたけしがオールナイトニッポンにて発言した所によると、漫才師から役者業に進出してきたビートたけしに対抗して、逆に田中邦衛と漫才をしようと目論むが、田中にやめといたほうがいいと止められる。「それではお前は何をやるんだ」と言う健さんに対して、田中邦衛が「二種免許取ります」と返答したことが同番組で随分ネタにされていた。
好きな音楽は、愛を歌う吟遊詩人、大塚博堂。友人にもらったカセットテープを聞いて、自分にない何かがあると感銘を受ける。大塚とよく組んでいた作詞家の藤公之介に、大塚と組んで曲を作ってほしいと電話で頼んだこともある(この時は、大塚が忙しく、別の作曲家で曲を作るが、その後、まもなく大塚が逝去したため実現せず)。「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」「ふるさとでもないのに」が特に気に入っている。直接、会ったことがないが、大塚のメモリアルイベント等に、一ファンとして、何度かメッセージを贈る。
志村けんと岡村隆史のファンらしく、志村には自ら『鉄道員』の出演要請を出し、「お笑い一本」と決めている志村を口説き落とした。
特に野球には関心がない様であるが、ロッテの村田兆治の1990年の引退試合の中継を見て、とても感動をした様で、面識の無い留守の村田の自宅前に花束を置いて帰ったという話がある。[要出典]
[編集] 出演作品
- 季節風の彼方に(1958年) 久我美子と共演
- 森と湖のまつり(1958年) 有馬稲子と共演
- べらんめえ芸者罷り通る(1961年) 美空ひばり と共演
- 万年太郎と姐御社員(1961年) 山東昭子(当時は女優。現・国会議員)と共演
- 裏切者は地獄だぜ(1962年) 片岡千恵蔵と共演
- 東京丸の内(1962年) 佐久間良子と共演
- 三百六十五夜(1962年) 美空ひばりと共演
- 宮本武蔵シリーズ (1963年-1965年) 中村錦之助(萬屋錦之介)と共演
- 人生劇場 飛車角(1963年) 鶴田浩二と共演
- 暗黒街最大の決斗(1963年) 久保菜穂子と共演
- 飢餓海峡 (1964年) 伴淳三郎と共演
- 日本侠客伝シリーズ (1964年-1971年) 中村錦之助(萬屋錦之介)と共演
- 昭和残侠伝シリーズ (1965年-1972年)
- 網走番外地シリーズ (1965年-1972年) 嵐寛寿郎と共演
- 人生劇場 飛車角と吉良常(1968年) 鶴田浩二と共演
- 燃える戦場 (1970年アメリカ映画) ヘンリー・フォンダ、マイケル・ケインと共演
- 日本やくざ伝 総長への道(1971年) 若山富三郎 ・鶴田浩二と共演
- 博奕打ち外伝(1972年) 鶴田浩二と共演
- 山口組三代目(1973年 山口組三代目組長・田岡一雄役(主演))
- ゴルゴ13 (1973年)
- ザ・ヤクザ (1974年アメリカ映画) ロバート・ミッチャム、岸惠子と共演
- 無宿 (1974年) 勝新太郎 と共演
- 新幹線大爆破 (1975年) 宇津井健と共演
- 神戸国際ギャング (1975年) 菅原文太と共演
~~~~~ 東映を退社 ~~~~~
- 君よ憤怒の河を渉れ (1976年)
- 八甲田山 (1977年) 三国連太郎と共演
- 幸福の黄色いハンカチ (1977年) 倍賞千恵子と共演
- 冬の華 (1978年) 池上季実子と共演
- 野性の証明 (1978年) 薬師丸ひろ子と共演
- 遙かなる山の呼び声 (1980年) 倍賞千恵子 と共演
- 動乱 (1980年) 吉永小百合と共演
- 駅 STATION (1981年)
- 刑事物語 (1982年) 武田鉄矢と共演
- 海峡 (1982年) 森繁久弥と共演
- 南極物語 (1983年) 渡瀬恒彦と共演
- 居酒屋兆治 (1983年) 大原麗子、加藤登紀子(歌手)と共演
- 夜叉 (1985年) ビートたけし と共演
- 海へ See You (1988年)
- ブラック・レイン (1989年アメリカ映画) マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシアと共演
- あ・うん (1989年) 板東英二と共演
- ミスター・ベースボール (1992年アメリカ映画) トム・セレックと共演
- 四十七人の刺客 (1994年)
- 鉄道員(1999年) 大竹しのぶと共演
- ホタル (2001年) 田中裕子と共演
- 単騎、千里を走る。 (2005年中国映画)
TVドラマ
- 1956年 ぼんぼん頑張る
- 1962年 判決(1)
- 1977年 あにき
- 1992年 チロルの挽歌
- 1993年 これから 海辺の旅人たち(CX)
- 1995年 刑事 蛇に横切られる(NHK)
以上、6作のみ
[編集] 代表曲
- 1965年 網走番外地
- 1965年 男の裏町
- 1965年 横顔(「男の裏町」B面)
- 1965年 唐獅子牡丹
- 1965年 男涙の雨が降る(「唐獅子牡丹」B面)
- 1965年 男の誓い
- 1966年 霧の波止場
- 1966年 泣かせるぜ
- 1968年 男ごころ
- 1971年 望郷子守唄
- 1975年 はぐれ旅
- 1976年 朝顔の詩
- 1979年 男の忘れもの
- 1979年 日本海
- 1983年 時代遅れの酒場
- 1990年 挽歌(八代亜紀とデュエット)
- 1994年 あの人に似ている(裕木奈江とデュエット)
- 1995年 約束
- 1996年 旅人
[編集] 受賞・受章歴
- 第 1回(1978年)日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
- 第 4回(1981年)日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『動乱』、『遥かなる山の呼び声』
- 第 5回(1982年)日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『駅 STATION』
- 第23回(2000年)日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
- 第42回ブルーリボン賞(1999年度)・主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
- 第23回モントリオール世界映画祭・主演男優賞
- 第51回(1977年)キネマ旬報・主演男優賞
- 1978年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
- 1982年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
- 1990年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
- 1999年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
- 2007年度サンディエゴ映画批評家協会・主演男優賞
- 文化功労者(2006年)
- 紫綬褒章
[編集] その他
[編集] 書籍
[編集] CD
- 南極のペンギン(集英社) 曲:宇崎竜童
[編集] CM出演
- レナウン(1978年)
- 三菱自動車工業 「三菱・ギャランΣ」(2代目・3代目、1980年~1985年)
- 日本生命保険 (1984年)「ロングラン」
- ネスカフェ(1986年)
- JRA(1992年、1993年)
- キリンビバレッジ 「生茶」
- 富士通 FMV(1994年~1999年)
- キリンラガービール