奥田靖雄
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奥田靖雄(おくだ やすお、1919年10月19日 - 2002年3月22日)は日本の言語学者、国語教育の理論的指導者。本名:布村 政雄。言語学研究会のリーダーとして言語学・日本語学の集団研究を指導した他、日本教職員組合教育研究集会中央講師、教育科学研究会国語部会(教科研国語部会)の指導者として国語教育の近代化を推進し、戦後国語教育に大きな影響を与えた。
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[編集] 年譜
- 1919年10月19日-富山県富山市愛宕町に生まれる。兄、布村一男(ペンネーム、一夫)は、民族学者。
- 1932年-旧制富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)に入学。
- 1933年-両親が死去、旧満鉄調査部に就職した兄をたよって旧満州国に渡り、旧南満州鉄道株式会社立新京商業学校に転校。
- 1938年-同校を卒業、日露協会立専門学校哈爾浜学院(ハルピン学院)に入学。
- 1941年-同校を卒業、満州国立建国大学研究員助手となり、以降、ツングース民族学を専攻。師に民俗学者大間知篤三がいた。
- 1943年-同助手をやめ、蒙古族、ツングース族の住む、旧満州国興安北省(現・内モンゴル自治区内) 索倫旗特尼河村で国民学校教諭となる。
- 1945年-奥田靖子と結婚。8月、ソ連軍の侵攻と満州国崩壊の混乱の中、身の安全のため、村民の提供した馬車を駆って妻を連れ興安嶺を超え、鉄道のあるチチハルに逃れる。同年12月から大連で連合軍司令部のロシア語通訳を勤めている。
- 1948年3月-同通訳をやめ、妻と引き揚げ船で帰国。このとき苦労して貴重なツングース文献数冊を持ち帰る。東京都世田谷区成城に間借り。生活の苦労を夫人と共働きしながらしのぎ、研究を再開。成城の民俗学者・柳田国男邸を、また、東京大学の言語学研究室に服部四郎を訪ねている。
- 1949年~1950年頃-ツングース文献の入手が困難なため、同民族学の研究を断念、言語学・現代日本語研究に転じる。
- 1951年-この頃からペンネーム・奥田靖雄を用い始める。ペンネームの由来は、生活の労苦をともにした、夫人・奥田靖子にちなむ。民主主義科学者協会の言語科学部会を活動の拠点としつつ、言語学の集団的研究の指導者として頭角をあらわす。
- 1952年-日本コトバの会設立に参加、武藤辰男、大久保忠利らと、運営委員となる。
- 1955年-朝鮮中央師範学校(現朝鮮大学校 (日本))の講師として言語学を講じ、8年に及んだ。教え子に、朝鮮語学を専攻した金礼坤がいる。
- 1956年-教育科学研究会(略称:「教科研」)の運営世話人を務める。以後、教育科学研究会国語部会の指針となる56年テーゼの設定などに尽力する。また、民主主義科学者協会言語部会の消滅、日本コトバの会の分裂などの事情により、言語学研究会の創立を主導した。以後、ここと教育科学研究会国語部会を活動の拠点とした。
- 1961年-この頃、川崎市登戸新町に住む。
- 1962年-教育科学研究会御岳集会に参加。この頃から、教育科学研究会国語部会の他、日本教職員組合の全国教育研究集会、東北民教研など各地の指導者・講師として多忙な日々を送った。
- 1963年-日本教職員組合の第12次全国教育研究集会の中央講師(助言者)となり、以後、20次まで、9年に及んだ。(その報告は著書『国語科の基礎』に収録されている。)また、無着成恭らの明星学園国語部、のち秋田、群馬、新潟、岡山などの教師との協力のもとに言語の教育の副読本『にっぽんご』シリーズ(むぎ書房)の編集を始める。同シリーズは、のち、民間教育研究運動に参加する教師達によって、広く学校現場で用いられるようになった。
- 1965年-教育科学研究会国語部会の機関誌として『教育国語』を創刊。
- 1971年-宮城教育大学教育学部教授に就任する。
- 1975年-研究者らの『にっぽんご』シリーズの印税をもとに新潟県岩船郡朝日村の三面川べりに言語学研究会の合宿所を建設。
- 1984年-宮城教育大学を定年退官。
- 1985年-5月、南京大学と北京外国語大学で集中講義。以後、しばしば南京と北京で講義を行い、共同研究会を開催、北京大学北京外国語大学などの中国人研究者との交流を深め、その日本語文法教科書編集を援助した。
- 1986年-言語学研究会の論文集『ことばの科学』(むぎ書房)を創刊。第一集を発行。以後、2001年の第10集に及ぶ。(2006年、11号が追悼号として発行されている。)
- 1987年-教育科学研究会・国語部会編『一年生のにっぽんご』(むぎ書房)上下を刊行。
- 1990年-教育科学研究会・国語部会編『二年生のにっぽんご』(むぎ書房)を刊行。
- 1991年-『教育国語』100号をもって廃刊。以後、第2、第3、第4期の『教育国語』があとをつぎ、現在に至っている。
- 1993年-大阪大学より文学博士号を授与された。
- 1994年-10月18日、靖子夫人逝去。
- 2000年-12月、宮城教育大学名誉教授となる。
- 2001年-4月8日、自宅で原稿執筆中に脳梗塞で倒れ、横浜新都市病院脳神経外科に入院。
- 2000年-3月22日、死去。82年5ヶ月の生涯であった。
[編集] 著書
[編集] 編著書
- 『講座 現代の用字・用語教育』全三巻(中村通夫、金田一京助と共編 春秋社 1957年)
- 『読み方教育の理論』(国分一太郎と共編、国土社 1963年、1974年よりむぎ書房)
- 『国語教育の理論』(国分一太郎と共編、むぎ書房 1964年 )
- 『続国語教育の理論』(国分一太郎と共編、むぎ書房 1966年 )
[編集] 共著書
[編集] 参考文献
- 『追悼 奥田靖雄』(奥田靖雄先生追悼文集刊行委員会編、むぎ書房 2003年7月25日発行)
- 『国文学 解釈と鑑賞 872 三上章と奥田靖雄』(至文堂 2004年1月1日発行)
- 『国文学 解釈と鑑賞 908 言語研究と文学研究』(至文堂 2007年1月1日発行)