小林興起
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小林 興起(こばやし こうき、1944年1月1日 - )は、日本の政治家。国民新党所属の元衆議院議員。東京都練馬区出身。
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[編集] プロフィール
日比谷高校、東京大学法学部卒。同大学卒業後通商産業省に入省。1973年に政府派遣留学でアメリカのペンシルバニア大学院修士修了(MBA取得)。帰国後通産省資源エネルギー庁産業政策局に配属される。1980年に聖心女子大学講師に就任。1982年に通商産業省を退官した。先輩に堺屋太一、斎藤健とは入れ替わりに退官。
2回の落選を経て1990年2月衆議院議員に初当選するものの1993年には落選した。1996年10月に2選し同年11月から労働省政務次官を務めた。また、ILO国際会議で日本政府代表で英語による演説も行う。1999年の東京都知事選挙では、石原慎太郎を立候補・当選させる功労者でもある、翌年の2000年に3選。2002年には第1次小泉第1次改造内閣で財務省副大臣を務めた。2003年には4選を果たした。
また2004年のプロ野球再編問題に絡み、2004年8月4日に自民党の国会議員16人と共に「2リーグ制を守り、プロ野球の発展を図る議員連盟」を発足させ、代表世話人に小林が就任した。
2005年3月、渋谷区議会議員の奈良明子と結婚。
2005年7月、郵政民営化法案採決で高らかと反対票を投じたため、同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では党の公認を得られなかった。そのため新党日本から東京10区に出馬したが、地元支援者からも小池百合子の環境政策と郵政民営化に関する一連の言動・行動に関して理解を得られず、また、TVの前においては猪口邦子に暴言を吐く始末に。小選挙区では自民党公認の刺客候補として兵庫6区から鞍替えしてきた小池百合子らと戦い惨敗した上、比例代表東京ブロックにおいても届かず落選。投票後には、私設秘書2人が、詐偽投票を行い公職選挙法違反で逮捕される。加えて、週刊誌に女性関係に関する醜聞を書きたてられた。10月、自由民主党から除名処分。
落選後は新党日本代表代行としてビートたけしのTVタックル、NNNニュースプラス1などの番組に出演している。TVタックルでは、小泉純一郎、竹中平蔵の政治姿勢を「対米隷従」として痛烈に批判している。また、著書『主権在米経済 The Greatest Contributor to U.S.』の巻頭では、2006年3月15日83会が在日アメリカ大使館と行った「日米親善野球」について、東京ドームのレンタル料や大使館側へのプレゼントなどすべて日本側が負担していたことを挙げたり、井脇ノブ子、武部勤、世耕弘成、飯島勲に対しても批判をしている。当時民主党代表だった前原誠司に対しても怒りをぶつけていた。 叉、2006年4月23日に行われた千葉7区補欠選挙では影で「民主党のジャンヌ・ダルク」こと太田和美を当選させた影の功労者としても活躍。また、中川一郎の死においては自民党候補の斎藤健に対して恨みを持っている。
2006年10月31日、田中康夫の長野県知事選落選と荒井広幸の首相選挙においての造反と神奈川16区・大阪9区の補欠選挙で民主党候補が敗れた影響を受けて新党日本を離党。翌11月1日に国民新党に入党した。
[編集] 著書
- 『「新井戸端会議」文化論』1985年2月、創知社
- 『日本の未来をあきらめない―知的創造大国への道』2003年9月、出版文化社、ISBN 4883382877
- 『決意!新日本創造への挑戦』、2005年07月、出版文化社、ISBN 4883383180
- 『主権在米経済 The Greatest Contributor to U.S.』2006年5月、光文社、ISBN 4334933815