小池百合子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小池百合子(こいけ ゆりこ、1952年(昭和27年)7月15日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)。
日本新党、新進党、自由党、保守党、保守新党を経て自由民主党に所属。
生年月日 | 1952年(昭和27年)7月15日 |
---|---|
出生地 | 兵庫県芦屋市 |
出身校 | カイロ大学文学部社会学科卒業 関西学院大学社会学部退学 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 参議院議員 キャスター アラビア語通訳 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
内閣総理大臣補佐官 (国家安全保障問題担当) |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
東京10区 |
当選回数 | 5回(参1回) |
所属党派(現在) | 自由民主党(町村派) |
党役職(現在) | ‐ |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館343号室 |
ウェブサイト | KOIKE Yuriko 2007 |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
甲南女子中学・高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部とE.S.Sに所属。1971年9月、関西学院大学社会学部中退。神戸で衣料関連の貿易商を営んでいた父親が石原慎太郎の新党結成の動きに呼応し衆議院選挙に兵庫2区から立候補し惨敗、一家はエジプトに渡る。「アラビア語が国連の公用語になる」との新聞記事がきっかけで、カイロ・アメリカ大学でアラビア語を修めたのち、カイロ大学へ進学。1976年10月、カイロ大学文学部社会学科卒。 エジプト滞在中に、ピラミッドに登った経験もある(現在はエジプト政府によりピラミッドに登ることは禁止されている)。
ジャーナリスト時代はアラファトPLO議長(当時)や、リビアのカダフィ大佐への単独インタビューを成功させるなどして名声を高めた。
[編集] 政界渡り鳥
1992年7月に日本新党比例区で参議院議員に当選、翌1993年7月に兵庫2区で衆議院議員に当選した。その後、諸政党の分裂・統合に際しては新進党、自由党、保守党と所属政党を渡り歩く。その為、政界渡り鳥と揶揄されることもある。
[編集] 自民党入党
2002年12月27日に自民党に入党して当時の総裁派閥である森派(現・町村派)に所属。第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に抜擢されて入閣。2003年の総選挙では近畿ブロック比例単独で比例名簿第3位に登録されて当選した。第2次小泉内閣でも環境大臣として再任され、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役となった。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の対立候補として兵庫6区から東京10区に移り立候補。東京10区(豊島区)を選んだ理由として、選挙区帰りやメディアのインタビューにおいて東京に近いことが望ましいこと、小林興起が自民党の反郵政民営化派としてメディア露出が多かったこと、前回総選挙で小林興起と鮫島宗明の票差が僅差であったことなどがあげられている。「刺客」と呼ばれメディアに注目される選挙区となったが、次点候補に大差をつけて圧勝した。選挙後、温暖化対策という名目で環境税と銘打った新税の導入構想を発表した。「環境行政は国民の協力なくして効果が出ないが、地球温暖化対策とか循環型社会とか、大義だけでは国民的運動にならない。例えばクールビズでは涼しい、楽だ、カッコいいというような共感の部分が必要。環境行政は規制が多く、『ドント(するな)』になりがちだが、『ドゥ(しよう)』へ転換していった」
「新しい歴史教科書をつくる会」をサポートする目的で作られた「歴史教科書問題を考える会」(会長:中川昭一農水相)や「拉致議連」のメンバーでもある。
第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)も兼務。
病に倒れて病気療養した事がある。その病が当初は肺炎だと言われていたがいっこうに退院の気配がなく、2006年4月6日発売の週刊新潮で「永田町では危篤説や自殺未遂説が流れている」と報じられたりしたが、同14日に退院し、公務に復帰。復帰会見で「女性の場合、男性の10倍くらい結果を出さないとなかなか認められないから、つい、がんばりすぎちゃうんですよね。」と発言。また、クールビズの時には、男性社員の厚着のせいで女子社員が冷房で寒い思いをしている、と働く女性への擁護発言もあった。
[編集] 略歴
- 1971年 甲南女子高等学校を卒業し関西学院大学社会学部に入学、のち中退
- 1976年 カイロ大学文学部社会学科卒業
- 1977年 アラビア語通訳、講師(日本アラブ協会顧問)
- 1979年 日本テレビで、番組「世相講談」のキャスターなど
- 1990年 テレビ東京で、番組「ワールドビジネスサテライト」のキャスターなど
- 1992年7月 日本新党から比例区で参議院議員に初当選
- 1993年7月 日本新党から兵庫2区で衆議院議員
- 1993年8月12日 総務政務次官に就任(-1994年4月28日)
- 1994年11月7日 笑っていいとも!・テレフォンショッキング出演。
- 1996年10月 新進党から兵庫6区で衆議院議員
- 1999年10月5日 経済企画総括政務次官に就任(-2000年4月5日)
- 2000年4月5日 経済企画総括政務次官に再任(-7月4日)
- 2000年6月 保守党から兵庫6区で衆議院議員
- 2002年12月 保守党を離脱。自由民主党に入党
- 2003年9月22日 環境大臣に就任(-11月19日)
- 2003年11月 自由民主党から近畿比例区で衆議院議員
- 2003年11月19日 環境大臣に再任(-2005年9月21日)
- 2004年9月27日 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)兼任(-2005年9月21日)
- 2005年9月 自由民主党から東京10区で衆議院議員
- 2005年9月21日 環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)に再任(-2006年9月26日)
- 2006年9月26日 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任
- 2007年4月13日 笑っていいとも!・テレフォンショッキング13年ぶりに出演。
[編集] 文献
[編集] 単著
- 1982年1月 『振り袖、ピラミッドを登る』講談社、ISBN 4062002701
- 1983年1月 『3日でおぼえるアラビア語』学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月、ISBN 4311710011
- 1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』太陽企画出版、ISBN 4884660749
- 1994年6月 『永田町ブロードキャスター』朝日新聞社、ISBN 4022567430
- 週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
[編集] 共著
- 1995年12月 パラダイム・ファクトリー著『日本破局のシナリオ 待ったなし、日本再生構想』新講社、ISBN 4915872106
- 2001年8月 相沢英之、ほか編『一問一答金庫株解禁等に伴う商法改正』商事法務研究会、ISBN 4785709553
- 共編集。他の編集者: 長勢甚遠、谷口隆義、金子一義、根本匠、漆原良夫
- 2001年12月 『対論:テロは日本を変えたか』広済堂出版、ISBN 4331508579
- 古森義久との共著
- 2002年11月 山本一太監修『私が総理になったなら 若き日本のリーダーたち』角川書店、ISBN 4048837877
[編集] 対談など
- 1993年9月 佐高信著『日本人の死角』徳間書店、ISBN 4191452908
- 対談「私は政治改革のモルモット」を収録
- 1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』ダイヤモンド社、ISBN 4478180202
- 第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿
- 2001年2月 佐和隆光、浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』ダイヤモンド社、ISBN 4478200653
- 鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録
[編集] 余談
- 1984年、東京大学に在籍していたトルコ人留学生の抗議を受け、「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」と改められた。この青年に陰で指導したのが、青年と親交があった小池と言われていたが、本人も後日新聞報道でそれを認めている。(1985年4月11日毎日新聞夕刊報)。
- 平沢勝栄と同様で政界一の“亀田興毅ファン”を自認。小池自身も亀田の所属する協栄ボクシングジム練習生である。
- 小泉内閣の環境大臣として、クール・ビズ、冷房の28℃設定、などの導入を先導してきた。しかし、お膝元の環境省では、トップダウンで冷房設定を28℃にしたところ、OA機器の廃熱等により室温30℃近い部署が続出し、36℃超の部署まで発生したため、職員から労働安全衛生法違反との声が出た。
- 厚生労働大臣柳澤伯夫の「女性は子供を産む機械」発言に対し、2007年2月4日、小池はテレビ番組にて「柳澤(伯夫)さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも、日本における男性の、女性に対する見方は遅れてるんじゃないか」と語り、イスラム国家は「女性に対する見方が遅れている」との前提に立って柳澤に対し苦言を呈した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
|
|