平良市
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平良市(ひららし)は、沖縄県の宮古島にあった市である。2005年10月1日に多良間村を除く 宮古郡の全町村と合併し宮古島市になった。市役所は西里に置かれた。
目次 |
[編集] 地理
- 行政区
- 池間(いけま)、前里(まえざと)、大神(おおがみ)、狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)、大浦(おおうら)、西原(にしはら)、荷川取(にかどり)、東仲宗根(ひがしなかそね)、西仲宗根(にしなかそね)、西里(にしざと)、下里(しもさと)、久貝(くがい)、松原(まつばら)、東仲宗根添(ひがしなかそねぞえ)の15の字に区分される。
(宮古島市に合併後はこれら行政区の前に旧市名の「平良」をつけ「宮古島市平良字○○」となった)
[編集] 歴史
[編集] 有史以前
宮古島は、地質学的に比較的新しい島であり、約1万5千年前から4千年前に出来上がった隆起珊瑚礁の島である。
平良市内での化石人骨は未発見であるが、上野村から約2万6千年前とされる化石人骨(ピンザアブ洞人)が発見された。宮古島の南東側の海岸線にある新石器時代・約2500年前の砂丘遺跡からは、シャコ貝で作られた斧やイモガイで作られたアクセサリーなどが出土する。しかし、その当時どの様な人々が住んでいたかは、人骨等の直接人に関わる考古学上の発見がないため不明である。沖縄本島や奄美大島からは、同時代の遺跡からは同様な貝製品は出土せず、台湾やフィリピン等の同時代の遺跡からは貝製品が出土するため、沖縄本島よりも台湾やフィリピン等の南方との関連があったと考えられている。
もっとも宮古島に関わる古い文献は、中国の元の時代の歴史書『元史』「温州府志」である。婆羅公管下密牙古人が温州に漂着したとある。婆羅とは、現在の城辺町字保良のことだと言われている。およそ12世紀頃から、農耕が盛んになり地域をまとめるリーダーが誕生し、積極的に海に乗り出し交易を行っていた。その当時の人々の多くは、丘陵地に集落を作り住んでいた。シャコ貝製の斧を残した人々が、時代を経て丘陵地に移り住んだと考える説もある。
[編集] 古琉球時代
琉球王国の正史、『球陽』によれば、西暦1388年に宮古島の豪族・与那覇勢頭豊見親真佐久(よなはせどとぅゆみゃまさく)という人物が中山国に上がり、西暦1390年に中山王察度に八重山の使者と共に朝貢を行い臣下の礼をとある。このことから通常14~15世紀には、宮古八重山地域も琉球王国の支配下に入ったとする説もある。この15世紀ごろの宮古島の有力な豪族達は、琉球王国(中山国)の力を後ろ盾にして、八重山群島にまで勢力を伸ばそうとしていた。「豊見親(とぅゆみゃ)」とは名高き領主という意味で、宮古島群島の地域の豪族をまとめる人物に称号として与えられた。
1500年に、時の琉球国王・尚真王は、八重山で行われていた伊里機屋安真理(いりきやあまり)神への信仰と祭礼を禁止する命令をだす。この命令に反感を持った八重山の人々はオヤケ赤蜂をリーダーにして「オヤケ赤蜂の乱」が起きる。この反乱の鎮圧に功績をあげた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)は、琉球国王より宮古島の頭職に任じられた。そして、その次男・祭金(まつりかね)は、八重山守護職に任じられたが、1504年に祭金は病死したので、三男の知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)が、その後任となった。
1522年には、与那国島で鬼虎が乱を起こしたがこれもまた仲宗根豊見親のに鎮圧された。琉球王国の力を背景にして仲宗根豊見親は、武力で宮古と八重山を支配下に納めた。
以後、19世紀・琉球処分までの約380年間、仲宗根豊見親の子孫・忠導氏(ちゅうどううじ)。知利真良豊見親の子孫・宮金氏(ンミャガーニうじ)。与那覇勢頭豊見親の子孫・白川氏(しらかわうじ)。この3つの氏族は、門閥をつくり宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫達が占める様になった。
仲宗根豊見親の死後、宮古島の頭職を仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親が、継承した。しかし、人々の名声は現在の城辺町字友利の豪族で勇知に優れ、善政を行った金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親に集まった。1532年、金志川への誹謗中傷を信じた仲屋金盛は、金志川那喜太知をだまし討ちに掛け殺してしまう。この事件を「大嶽城の変」と呼んでいる。この事件がきっかけとなり「豊見親」の称号は琉球国王の命令で廃止され、仲屋金盛は自殺を命じられた。以後、宮古島は琉球王府より平良大首里大屋子(うぷしゅりうぷやぐ・琉球国王の代官)と下地大首里大屋子が二人の頭職として任命され統治に当たった。このときをもって、宮古群島と八重山群島は、実質的な琉球王国の支配下に入ったと見なしている。
[編集] 琉球王府時代
[編集] 明治以降
- 明治末期まで平良市域は平良・砂川・下地間切に属していた(大半が平良間切)。
- 1908年4月1日 島嶼町村制により平良村となる。同時に多良間島・水納島も同村域となった。
- 1913年2月14日 多良間島と水納島が分村し多良間村となる。
- 1924年2月1日 町に昇格、平良町となる。
- 1947年3月7日 市に昇格、平良市となる。
- 1956年 宮古空港が開港。
- 1959年9月 台風14号が宮古島を通過、同島での最低気圧が908.1ミリバール(ヘクトパスカル)と観測(宮古島台風)。
- 1964年 琉球放送が久貝にラジオの中継放送局を開局(1150kc、2005年にFM中継局に転換したため廃止)
- 1966年9月 台風18号が宮古島を通過、同島の最大瞬間風速が85.3m/sと観測。この記録は日本での観測史上最大の記録である(第2宮古島台風)。
- 1967年12月22日 沖縄放送協会(OHK・現在のNHK沖縄放送局)が宮古島をはじめ先島諸島で沖縄本島に先駆けてテレビ放送を開始(KSDY・US9ch、復帰後1976年まではNHK沖縄宮古総合テレビジョンとなる。なお沖縄本島では1年遅れて放送が開始された)。
- 1968年9月 台風16号が宮古島を通過、死傷者を出す大きな被害だった(第3宮古島台風)。
- 1972年6月 NHKがラジオ第1と第2の放送を沖縄本島と同時に開始。
- 1975年4月 宮古島の県道平良与那覇線(西里~上地)、城辺下地線(現在の同路線名の県道とは別ルート)、平良保良線(福里~保良)が国道に昇格され国道390号となる。同島では初の国道となる。
- 1976年12月22日 NHKテレビの沖縄本島・日本本土との同時放送が開始(同時に教育テレビ・FM放送も開始される)。また電話も沖縄本島や日本本土と即時通話可能になった。
- 1978年5月 宮古島初のケーブルテレビ局である宮古島有線テレビ(現在の宮古テレビ)が開局。
- 1978年12月 宮古空港~那覇空港間にジェット機(B737型機)が就航。
- 1985年4月 第1回宮古島トライアスロン大会開催。
- 1989年7月 宮古空港と初の本土直行便となる東京(羽田空港)便が就航。
- 1992年1月 池間島との間に池間大橋が開通。
- 1992年2月 宮古島で初のプロ野球オープン戦開催(中日-大洋戦)。
- 1993年2月 プロ野球オリックスが宮古島で初のキャンプを実施。
- 1993年12月16日 琉球放送と沖縄テレビが宮古島など先島諸島でテレビ放送開始。
- 2005年10月1日 城辺町・下地町・上野村・伊良部町と合併、宮古島市となる。平良市は廃止された。市役所はそのまま宮古島市役所となる。
[編集] 隣接していた自治体
現在はいずれも宮古島市
[編集] 行政
- 市長(最終)・伊志嶺亮(合併後、初代宮古島市長となる)
[編集] 姉妹都市・提携都市
これらの都市は合併後の宮古島市でもそのまま継続された。
[編集] 国内
[編集] 海外
[編集] 現在の宮古島市平良地域
[編集] 交通
- 空港
- 道路
- 国道390号
- 沖縄県道78号平良城辺線(主要地方道)
- 沖縄県道83号保良西里線(主要地方道)
- 沖縄県道190号平良新里線
- 沖縄県道191号与那覇上地線
- 沖縄県道192号平良久松港線
- 沖縄県道194号鏡原増原線
- 沖縄県道195号野原越七原線
- 沖縄県道200号川満山中線
- 沖縄県道201号友利線
- 沖縄県道230号池間大浦線(池間大橋)
- 沖縄県道243号高野西里線
- 沖縄県道252号平良下地島空港線(伊良部架橋が基となる県道・予定)
- 港湾
- 平良港
[編集] 教育
- 高等学校
- 沖縄県立宮古高等学校
- 沖縄県立宮古工業高等学校
- 沖縄県立翔南高等学校(かつては宮古水産高校だった。2008年に宮古農林高校と統合予定)
- 沖縄県立宮古農林高等学校(2008年に翔南高校と統合予定)
- 中学校
- 宮古島市立平良中学校
- 宮古島市立北中学校
- 宮古島市立西辺中学校
- 宮古島市立狩俣中学校
- 宮古島市立久松中学校
- 宮古島市立鏡原中学校
- 宮古島市立池間中学校(池間島)
- 小学校
- 宮古島市立平良第一小学校
- 宮古島市立平良北小学校
- 宮古島市立東小学校
- 宮古島市立西辺小学校
- 宮古島市立狩俣小学校
- 宮古島市立宮島小学校
- 宮古島市立久松小学校
- 宮古島市立鏡原小学校
- 宮古島市立宮原小学校
- 宮古島市立池間小学校(池間島)
- 小中学校
- 宮古島市立大神小中学校(大神島)
[編集] 名所・旧跡・催し・祭り
[編集] 名所
- 西平安名崎
- 池間大橋
- 人頭税石
- 「フバカリ石」とも言う。平良市字荷川取の海岸線にある、全長143センチの石灰岩の自然石である。琉球王府時代にこの石よりも身長が達すると「人頭税」を課税されたという伝承がある。しかしこの伝承は、歴史的な事実ではない。「人頭税」は、15歳になると課税され50歳まで粟や反物で納めなければならなかった。琉球王府は、正確な戸籍を作成し人頭税を宮古の人々に税を課した。農地を持たない人にも課税したため必然的に重税となった。1925年に刊行された。民俗学者・柳田国男の著書『海南小記』中で紹介されたことから有名となった。
- ガングリーユマタ
- 「カタパズ・ピンザ」と言う妖怪が現れたという交差点。片足の山羊という意味の名前で、この妖怪に出会うと近いうち(3日以内)に死んでしまうと言われている。「ガングリ・カングリ」という音を出しながら暗闇より現れるという。「カタパズ・ピンザ」の話は、昭和40年ごろの小学生を恐怖で震え上がらせた。
- 地名の由来は、ガン(かつて宮古島の葬式に使われた死者を墓地まで運ぶ道具、100キログラムほどの重さがあり大人4人ほどで運んだ)を納める小屋・ガン屋があった場所である。標準語に訳せば、ガングリー(ガンを下ろす・捨てる・納める)ユマタ(四辻・交差点・道路)の意味である。
真相は、昭和40年ごろ高校の生徒指導の先生が、生徒が夜遊びをしない様に考え出した怪談であるらしい。
[編集] 旧跡
- 漲水御嶽(はりみずうたき)
- 宮古島を作った神・古意角(こいつの)と姑依玉(こいたま)の二神を中心として、水を司る「竜宮神」、宮古島を守護する「子方母天太」等の神々が祭られています。島内最高の霊場として島の人々の信仰を集めています。その周りをめぐる石垣は、1500年のオヤケ赤蜂の乱の戦勝記念として仲宗根豊見親が奉納したと伝えられています。
- 久松みゃーか
- 松原に2ヶ所、久貝一つに存在する。みゃーかは、14世紀頃から16世紀頃に造られたと見られる支石墓である。
- 大主御嶽(うはるずうたき)
- 大主神社(標準語風の名称)ともいう。宮古島に住んでいる人々の運命を司る神「うらせりくためなうの眞主(まぬす)」を祭る御嶽。大主御嶽は、池間島と字西原、伊良部町の佐良浜にも存在する。字西原と伊良部町の佐良浜は、池間島からの移民で誕生した集落であり、池間島から移民した人々が御嶽を集落の近くに新しく建立した。大主御嶽は、池間島にルーツがある人々から信仰を集めています。現在でもこの御嶽(神社)を中心として、多くの神事が行われています。
- 大和井(やまとがー)
- 国指定の史跡。陥没ドリーネで出来上がった泉を石積みで囲っている。宮古島に多くある降井戸(うりがー)の中で最も手を凝らした建造物である。1720年ごろに作られたと言われている。荘厳な建造物であるから、琉球王府時代は身分の高い人物しかその水を飲むことを許されなかった、という伝承がある。薩摩藩から派遣された役人が、主にその水を飲んだことからその名前の由来であるという。
- 盛加井(むいかがー)
- 平良市指定文化財・史跡である。平良市字東仲宗根200番地に在する。宮古島によくある、うりがーである。百数十段の石段があり、底の方には二つの泉があるが、現在は入口に近い方が土砂で埋まっている。その石段の途中には小規模ながら貝塚があり、古い時代の土器・中国から伝わった青磁器等の破片が落ちている。千年以上前から使用されていた井戸(うりがー)である。
- トーガー
- 唐井という字を宛てる。非常に水量が豊富でまず枯れることがない。平良市字大浦に在する。集落の入口より東側にある。現在の大浦集落は、1714年に当時の琉球王府の移民政策で誕生したとされている。それ以前の13~14世紀に中国大陸で元から明へと時代が変わる戦争があり、その時代・中国の福建省(福州)の人々が移り住んだと言う伝説がある。その時代に移り住んだ人々が掘り当てた井戸だという。
[編集] 催し
- 全日本トライアスロン宮古島大会
[編集] 祭り
- 宮古まつり
- 八重干瀬まつり
[編集] 旧平良市出身の有名人
[編集] 外部リンク
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