木村政雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 政雄(きむら まさお、1946年5月26日 - )は、京都府京都市伏見区生まれのフリープロデューサー。
目次 |
[編集] 来歴
新聞記者志望だったが新聞社の入社試験に落ちて吉本興業株式会社に入社。この時、父親は「お笑いの会社入るとは、罰当たり物やな」と落胆していたという。京都花月の従業員を経て、製作部へ異動をし横山やすし・西川きよしのマネージャーを8年半つとめ、笑福亭仁鶴、花紀京のマネージャーを務めた後、1980年に東京事務所(現在は東京本社)所長に就任し、部下だった大崎洋と共に漫才ブームを築く。1988年大阪本社へ戻り製作部次長に就任、低迷していた吉本新喜劇を再生させる。1994年に取締役製作部長に就任、1997年4月 常務取締役に就任した後、2002年10月に退職(原因は、当時社長だった林裕章と仕事観をめぐっての対立が原因の説もある)。その後、「木村政雄の事務所」設立(ちなみに、「の」は鏡文字)。
元大阪府堺市顧問、株式会社先駆舎代表取締役主宰、法政大学大学院客員教授、京都精華大学理事などもつとめる。妻は、元タレントの響マミ。長男と長女がいる。
[編集] 著書
- 「50歳力」
- 「35歳革命」
- 「人をつくる」という仕事
- やすし・きよしと過ごした日々 マネージャーが見た波瀾万丈回想記
- 人間の賞味期限 こうすれば伸ばせる!
- 笑いの経済学 吉本興業・感動産業への道
- 気がつけば、みんな吉本 全国“吉本化”戦略
- 吉本興業から学んだ「人間判断力」
- 五十代からは、捨てて勝つ 自分株式会社をつくろう
[編集] 出演番組
- ズバリ快答!テレフォン身の上相談(TBSラジオ)※毎週金曜日
- こんちわコンちゃんお昼ですよ!(MBSラジオ)※月1回
- もっともっと関西(NHK大阪放送局)※火曜ゲストコメンテーター
- ブロードキャスター(TBSテレビ)※ゲストコメンテーター
- 木村政雄の楽園計画(文化放送)11月4日~2007年3月(予定)毎週土曜日19:00~19:30(※新番組)
[編集] 過去の出演番組
- 吉田照美のやる気MANMAN!(文化放送)※毎週月曜日の「マイクサイドボクシング『俺に言わせろ!』」
[編集] エピソード
- 自称エグゼクティブフリーター、暗黙の了解のカツラ疑惑がある。
- 間寛平が吉本から独立して東京で活躍したいと考えた時に、懸命に説得し慰留させた。
- 月亭八方が東京でのレギュラー番組を降ろされ、落ち込んでいた時に「みんなが頑張っとるからこそ、逆にローカルチャンピオンになるべきや。くよくよしたってしゃあない。むしろ、ローカルチャンピオンでがんばったらええ」と慰めた。八方はこれを機に、立ち直ったと言う。ローカルチャンピオンの意味は、関西で有名になると言う意味であろう。
- 吉本在籍時、一時低迷していた吉本新喜劇を再生させた反面、会社の方針に従わないベテラン芸人を大胆にリストラするなど、企業人としての冷酷な一面を見せている。特に横山やすしが吉本興業から解雇された時に、やすしへの解雇通告を行ったのも、記者会見で解雇通知書(当時専務だった林裕章の署名入り)を読み上げたのも木村本人だった。その時の記者会見で記者達から「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに「そうですね。我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら、会社の姿勢も疑われる」とコメントした事はあまりにも有名。
- 吉本退社は創業者一族の復帰に邪魔な存在であったことから圧力をかけた結果だったと中田カウスが週刊現代で告白している。また、中田は最初暴力団を使って消そうと目論んだが実行したら国民全体が激怒して吉本興業自体が排斥されると恐れて実施しなかったとも告白している。
[編集] 木村政雄を演じた俳優
- 秋野太作『桂三枝が書いた、サスペンス吉本興業~吉本興業殺人事件~』(1988年、火曜スーパーワイド (ABC/テレビ朝日系))
- 西川弘志『俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ!波瀾万丈の51年を生きた最後の芸人』(1997年、MBS/TBS系)