中邨秀雄
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中邨 秀雄(なかむら ひでお、1932年10月20日 - )は、吉本興業の社長、会長、名誉会長を務めた財界人、フリープロデューサー。芸能プロモーター。大阪市中央区出身。
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[編集] 来歴・人物
[編集] ラガーマンから吉本へ
大阪府立生野高等学校から関西学院大学文学部に進学し、ラグビー選手として活躍。1955年5月、吉本興業に入社し、駆け出し時代は人気漫才師、花菱アチャコのマネージャーを務めた。
[編集] 劇場開館・新喜劇躍進等で活躍
うめだ花月劇場の開館、吉本新喜劇の立ち上げに尽力し、人気テレビ番組「ヤングおー!おー!」をプロデュース。所属タレントを積極的にテレビに出演させる戦略が実を結び、「お笑いの吉本」の地位を不動にした。 その後、制作部長に昇進。
[編集] ひょうきん族で認知度上昇
一般的な認知度で比較的知られてると思われてるのは、「オレたちひょうきん族」内で明石家さんまがやっていたブラックデビルの「食らえ!中邨部長(当時)光線だ!!働け!働け!働け!・・・」というのがあった。その後、常務・専務・副社長を歴任
[編集] 社長・会長・名誉会長を歴任
1991年4月、会長だった林正之助の死去に伴い、代表取締役社長に就任、東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本を「全国区」に押し上げた。1999年に会長、2003年に名誉会長となり、2004年に退任した。
[編集] 兄弟
[編集] 芸能プロモーターとして
会長だった林正之助・そして後に社長・会長になった林裕章、現社長の吉野伊佐男と同様、、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川・バーニングプロダクションの周防郁雄・ケイダッシュの川村龍夫・渡辺プロダクションの創業者の渡辺晋と妻の渡邊美佐と長女でワタナベエンターテインメントの渡辺ミキ・田辺エージェンシーの田辺昭知・ホリプロの堀威夫・会長の小田信吾、副会長の堀一貴、代表取締役社長の堀義貴・ビーイングの長戸大幸・エイベックスの松浦勝人・アップフロントエージェンシーの山崎直樹と並ぶ芸能プロモーターの一人でもあった。
[編集] 手がけた番組
[編集] 著書
[編集] 逸話
[編集] 横山やすしへの思い・西川きよしの結婚での逸話
横山やすしを嫌っており、やすしの告別式にも参列しなかった。さらに、1993年に「やすしを囲む会」が行われたとき、当時社長だった中邨は、芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けたことからわかるように、「アンチやすし派」の一人である(他に林裕章や富井善晴や松本人志らがいる)。しかし「横山やすしは、まさに天才だった。しかし、彼はあの事故(飲酒運転)を起こしてしまったので、私としてもかばいきる事が出来なかった。」と自身の著書で個人的な心情と思いを述べた。また、西川きよしがヘレンと結婚を決意した時に猛反対したが、きよしが有名になった現在は認めている様である。
[編集] 松本人志への大説教事件
松本人志が「ダウンタウンのごっつええ感じ」の降板騒動を起こして打ち切りになった当時、松本に大説教をした事がある。その時に「番組降りたかったら、降りろ! その代わり仕事が無くなるど! それでも良かったらやめろ! 大体お前は、昔からそうやった! NGKに出してもお客さんとけんかするし。お前の才能はよう分かる。でもな、所詮お客さんが入ってからこそ成り立つ商売なんや! お客さんの言う事を聞かん奴は吉本にはいらん! 今すぐやめぇ!」と松本に怒鳴り散らした事は有名。ちなみにこの一件は、中邨自身が学生時代スポーツマン(=ラグビー選手、ラガーメン)であり、降板騒動が運動競技関係者に対する侮辱である事を松本にわからせるためだったという説がある。また、かつてのマネージャー経験や一企業の要職の立場として、厳重注意が必要だった説もある。