林正之助
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林 正之助(はやし しょうのすけ 1899年1月23日-1991年4月24日)は、吉本興業元会長。興行師、芸能プロモーター。
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[編集] 経歴・人物
兵庫県明石市生まれ。大阪府大阪市北区出身。姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。 娘婿は林裕章。実家は米穀商を営んでいた。
1917年、吉本興業の前身、吉本興行部に総監督として入社。 初代桂春團治・横山エンタツ・花菱アチャコ等の多くの芸人を育て上げた。また、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を一代で、日本最大手の芸能事務所に築きあげた。
1968年1月11日、山口組組長(田岡一雄)と組んでのレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕されている。
息子の様に可愛がっていた横山やすしがトラブルを起こした時は何度もかばい続けてきた。
1991年4月24日、逝去 享年92。亡くなる3ヶ月前まで劇場運営等などを指揮をした。
[編集] 芸能プロモーターとしての評価(笑芸界のドン)
後に社長・会長・名誉会長になった中邨秀雄、後に社長・会長になった林裕章、現社長の吉野伊佐男、、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川・バーニングプロダクションの周防郁雄・ケイダッシュの川村龍夫・渡辺プロダクションの創業者の渡辺晋と妻の渡邊美佐と長女でワタナベエンターテインメントの渡辺ミキ・田辺エージェンシーの田辺昭知・ホリプロの堀威夫・会長の小田信吾、副会長の堀一貴、代表取締役社長の堀義貴・ビーイングの長戸大幸・エイベックスの松浦勝人・アップフロントエージェンシーの山崎直樹・スターチャイルド(キングレコード)の大月俊倫と並び、業界では言わずと知れた芸能プロモーターの手腕として、長年に渡り関西お笑い界・芸能界、そして日本のお笑い界の首領(ドン)として君臨し、日本のお笑い界・芸能界・そして経済界・政財界に多大な功績を残した。
また、関西でも松竹芸能の会長だった勝忠男とケーエープロダクション社長の藤井康民と並ぶ言わずと知れた芸能プロモーターの一人。
[編集] 演じた俳優
- 沢田研二『にっぽん笑売人』(1988年 関西テレビ 花王名人劇場枠)
- 桂三枝『桂三枝が書いた、サスペンス吉本興業~吉本興業殺人事件~』(1988年、火曜スーパーワイド (ABC/テレビ朝日系))
- 松方弘樹『俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ!波瀾万丈の51年を生きた最後の芸人』(1997年、MBS/TBS系)
[編集] エピソード
- ライオンの様な顔とアントニオ猪木の様なあごは、多くの芸人を震え立せた。
- 横山やすしを可愛がり、やすし自身がトラブルを起こした時もかばい続けた。しかし、やすし解雇の時に記者陣からの質問に「反省の色が無い。これ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」と匙を投げ、やすしに対して絶縁を宣言した事は有名。今でも関西のお笑いファンの間で、賛否両論の声も相次いでいる。
- ダウンタウンが東京進出する前になんばグランド花月で漫才を公演した時に浜田雅功が冗談で「会長の杖は殴るために持っている。」と言った後に、公演後に「わしは、人を殴る為に持ってへんぞ~! 訂正せえ~!」と突っ込みを入れた。
- なんばグランド花月完成から亡くなる3ヶ月前まで、毎日行われる興行を視察する等、興行師としての片燐も見せた。
- 劇場の興行システムを10日ごとから7日ごとに変更することを、当時の部下だった木村政雄が直訴したところ「かまわん。やりなさい」と一発返事で承認した事がある。
- 自身の一代記を描いた「にっぽん笑売人」で冒頭とエンディングに出演。自身を演じた沢田研二等と対談した。最終回前にナレーションの桂三枝と自身の銅像前で対談し、三枝に「わしの銅像の隣に、お前の銅像も作ったるわ」と笑いながら話した。尚、自身の銅像は吉本本社内に置かれているが、未だに三枝の銅像は作られていない。
- 自身の晩年のちに東京本社の社長になる横沢彪に「こんなんが(会社に)入ってきたら日本はつぶれまっせ」と落胆した逸話がある。これは横沢によると、晩年は丁度バブル景気盛んな時期で、男が女の便利な遊び道具にされ、結果使い捨てられるところを偶然見たとの事で、これを見た自身は悔しくてたまらなかったのだそうである。