横山やすし
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横山 やすし(よこやま やすし、 1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。身長163cm(本人談)。血液型B型。
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[編集] 来歴・生涯
[編集] 人物
高知県宿毛市沖ノ島出身。大阪府堺市堺区に育つ。愛称は「やっさん」。結婚歴2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、殆ど公開されていない。 西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に、中学時代の同級生で競艇選手(現選手会長)の野中和夫と後にやすしが所属する阪田エージェンシー社長で住職の阪田教揮がいる。眼鏡を掛けていない時の顔がミッキーマウスに似ており、師匠の横山ノックの漫画トリオ時代の仲間の上岡龍太郎にも似ている。上岡はその風貌から「理性ある横山やすし」と比喩された事がある。
[編集] 天才少年漫才師誕生・負けず嫌いなポリシー・阪田教揮との出会い
少年時代から、ラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いでもあり負けず嫌いでもあり「漫才教室」に出場をした事を契機に漫才師になる事を決意した、中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたがこれを固辞し漫才師になる事を告げる、卒業式で漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた、「漫才教室」の本番前に同じ中学の同級生で後に所属事務所の社長になる阪田教揮がやすしのうるさい態度に激怒をしやすしがけんかを売ってそれを阪田が言い返してやすしが反撃しなかった逸話がある、後に和解し友情を深める事になる。 1959年、堺市立旭中学校卒業後松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社、漫才作家秋田實の門下に入り芸能界のしきたりから漫才台本の書き方を教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで少年漫才師としてその年の5月に角座でデビュー、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた、しかしネタが中学時代の思い出話がメインだった為かそれが裏目となり、人気も次第に衰退、さらに相方の岡田が「辞めたい」と言い出した為1961年にコンビ解消をする。(一説に岡田がやすしの強固で強引な態度に付いて行けなかった為けんか別れをした説もある。)
[編集] 横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われまたやすし本人も横山エンタツをもっとも評価し、エンタツより続く漫才の名門屋号「横山」姓への憧れがあった事から改めてノックに弟子入りし、「横山やすし」となり同時に吉本興業に移籍する(秋田には弟子入りするとの了解を得ていたらしいが、一説ではやすしの短気な態度と岡田とけんか別れをした事に秋田がさじを投げ「破門」に近い意味合いであったとの説もある)厳しい修行だったがノックからの指示を完璧にこなした。
[編集] やすきよ結成と最愛の父の死と最初の過ち
数回のコンビ結成~解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。そんな絶頂の時、悲劇が起こる。
1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切を渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に、意識が戻ること無く他界した。その10日後に長男・一八が誕生。父に息子を見せて上げたかったが、かなう事が出来なかった。更に翌年に、事件を起こしてしまう。
1970年、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期の謹慎処分を受ける、同時に最初の妻と離婚しその後の自らのライフワークであるモーターボート(競艇)の全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝した事で当時「病気療養中」とマスコミには会見していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという話等、通常なら恥晒しとされる話が武勇伝として語り継がれているのも彼の特徴である。
[編集] 競艇選手の夢
数回のコンビ別れを繰り返していた当時、一度引退を考え、競艇選手になろうと決意して受験をした。しかし、視力が低かった為不合格になり、父の庄吉にも反対され、友人の野中和夫を口説いて競艇学校に通わせて競艇選手にし、自分の夢を友人に託したという逸話がある。しかし笹川良一からは特別にアマチュアボート選手のライセンスを交付されている。また娘のひかりも父に「競艇選手になれ」と勧められ、競艇選手の試験を受けようとしたが、父と同じく視力が低かった為断念した逸話もある。やすしに夢を託された野中は後に競艇界で初めて年間獲得賞金1億円の大台に乗せ、更にはSG17勝(史上最多)を挙げ、7冠グランドスラマーとなる等の記録を打ちたてて「モンスター」と言う異名を取った。
[編集] 現夫人との再婚・愛娘ひかりの誕生
1975年3月に3歳年下の啓子夫人(余談ではあるが本人もバツイチ)と再婚し、大鳥大社(堺市西区)で挙式した。余談だが啓子夫人には、前の夫との間に1男1女がいる。 そして、1980年10月に二人の間に愛娘、光(次女)が誕生した。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。現在もその色紙は大切に保管されている。
啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。
[編集] 相方の参議院選出馬と度重なるトラブル
1983年には日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔っ払いながら生放送に出演し、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれた事に立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全く喋らなかった事も。そして1984年10月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のすっぽかしをした為にそのまま降板、吉本からは無期限謹慎処分も受ける。
1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、見事当選する。そして当選後に行われた『復活漫才』を以て「やすしきよし」は活動を事実上停止する事となった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と反発していたと伝えられる。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、タレントとしてもそして芸人としての生命も徐々に薄れて行く事になる。
1988年2月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ製作 日テレ系)で酒気帯び出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒してやすしを舞台裏でビンタをした事は有名。この事件が原因で番組を降板する。またその年の10月には二日酔いを理由に「三枝・やすし興奮テレビ」(MBSテレビ)のすっぽかしを行い降板。そして翌月、やすしがかつて起こした過ちを今度は長男の一八が起こしてしまう。
11月、長男・一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こし現行犯逮捕、一八はやすしを通じて解雇を言い渡された。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、「男は喧嘩するぐらいが丁度いい」などとコメントしていたが、後に被害者が一八に一方的に暴力を受け意識不明の重体に陥った事を知ると、記者会見で陳謝し、「自分の教育が間違っていた」と自身の息子に対する教育論の過ちを認めて大号泣、その責任を全て負う形でやすしは無期限謹慎を自ら申し出る。
[編集] 芸能界復帰と吉本解雇・事実上の芸能界追放
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰。きよしが司会の『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや、(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時既に吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は解雇する」と最後通告を受けていた。しかし、それを通告されていたにも関わらず、わずか1ヶ月後に芸人として更にタレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。
同年4月、飲酒運転によるバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に怪我を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」と慰めたと言う。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、やすしを解雇した。実は、やすしが事故直前にゲスト出演していたラジオ大阪の「入川保則の日産さわやか文庫」の収録中にウイスキーを飲んでいた事や、ホテルプラザで前日宿泊時から飲酒していたと、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった。やすしは多くの報道陣に対し「やめる。もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
しかし啓子夫人の証言よると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが当日の朝は実際にはビール一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者の「どのぐらい飲んだのか?」との問いに対し、やすしは「ウイスキーボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定してしまったようである。夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞いた所、「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。
当時、吉本の社員で解雇を言い渡した木村政雄は、報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」と真剣な表情でコメントをした。またやすしが様々なトラブルを起こしたときにかばい続けてきた会長の林正之助氏も報道陣からの問いに対し「やすしは問題ばっかり起こし続けるので反省の色がない。うちとしてもこれ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」と匙を投げた格好でコメント、師匠の横山ノックは「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」と淡々とした表情でコメントした。解雇されたのを聞いた西川きよしは「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません」と厳しいながら悔しさを露わにしていた。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ等の他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放される。さらに吉本からは一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は、「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「しょうがないやろうな」との一言であっさり決定したと言う。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、妻の啓子と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告をし、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びる事が出来なかった。
[編集] 解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観する等の流浪な生活を送っていた。ただし知人のスナックの開店祝いの司会等で謝礼や一部の親しいファンからプレゼント等をもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活は困ってはいなかった様である。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。同時に中学時代の同級生だった阪田教輝が社長を務める阪田エージェンシーへ移籍。しかし、1989年の夏には赤穂市のホテルで従業員が出した紙のおしぼりに激怒してビンタし、更に「船を出せ!」と喚くトラブルを起こした。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がない事。これで完全に復帰は無理でしょうね。まぁあんな漫才師がおったと言う思い出にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後やすしにとって悲しい事が起こる。
1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐ事は無かった。そのショックな出来事が原因で酒の量が更に多くなったと思われる。
[編集] 挫折した断酒
1990年に芸人仲間の若井ぼん(若井はんじ・けんじの弟子)・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へやすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビス本人はその時点でもうやすしを怒る気も無かった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。ぼんちゃん・エビっちゃん、ありがとう。やすしより」とメモに書き残して行った。エビスは「この手紙に落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう、酒を止める事が出来なかったのはやっぱり意志が弱かったんやと思います」と淡々とした表情でコメントした。おそらく断酒が出来ていればやすしはもっと長生きしていたであろう。尚、そのメモは現在もエビス本人が保管している。
[編集] 芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
1991年に内田裕也主演の「魚からダイオキシン」で芸能界に復帰、活動の場をVシネマ等に移す。学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。
1992年、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨てた。また、記者からの「(選挙区では)誰に投票しましたか?」の質問に対し、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合でも当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じているはず」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは失語症となるが驚異の回復力で復活をする。
1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め100人は出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた。しかし木村政雄はお忍びでこそっと来ていたらしい)。
1994年には、大人気シリーズ「ミナミの帝王」に萬田銀次郎の先生役で出演、漫才を演じているときとは何ら変わりない様子を見せていた。
その後、1995年7月には京都府八幡市にある石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体も振らついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿が覆された衝撃的な姿を目の当たりにした。
更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。
そして、月日が過ぎ、やがて死期を迎える事となる・・・。
[編集] 晩年、そして死
1996年1月21日、自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見し、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止、意識が戻ることなく急逝した。享年51歳。亡くなる前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院へ見てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の前にビール缶が多く入ったごみ袋が写っており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいた事が弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であった事が裏付けられた。
やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたら10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後にそれが現実となってしまった。
やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃が走り、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。 若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子はうめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。また木村政雄は「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のちに正式に免除された。
当時吉本の専務だった林裕章は「人の話を聞かんからこうなった」、師匠の横山ノックはやすしの遺体が安置された摂津警察署へ訪れ、「最後まで警察の厄介になりよって…」と共に真剣な表情でコメント、横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ)は「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。
これらの経緯からすると吉本を解雇されて以降、やすし自身の人生は特に晩年にあたって不遇で終わったといえる。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間でも「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」等の賛否両論の声が相次いでいる。
[編集] 最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。
やすしの相方だった西川きよしは「もうええかげんゆっくりしいや、ゆっくり休んでや」と泣き崩れながら弔辞を読み上げた。また師匠の横山ノックも「君の芸は師匠の僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と弔辞を読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子程、可愛いといいますが、それ程、完璧に僕の指示をこなしてくれた。」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。親友だった野中和夫は泣きながら「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」と弔辞を読んだ。
出棺の時、ファンからは「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上り、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から散骨された。その後、テレビ番組ではやすしのデジタル出演によりデジタルやすきよ漫才の要望もある。
[編集] 受け継がれる芸風とものまね
現在、生前からやすしのものまねをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。
近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている。(後述#横山やすしを演じた俳優参照)
[編集] 最後の破滅型芸人
やすしの人気絶頂期は既に些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまうテレビ時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化する様な旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述で書かれた「数々のトラブルはあくまでネタである」というスタンスを貫こうとしたやすしはこの時代の流れに最後まで抗おうとしていた懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型芸人」と称される事もある。また、毒舌も短気な性格も上岡龍太郎、やしきたかじん、萩原健一、初代・桂春団治、石橋貴明、松本人志、更にはドナルドダック、亀田三兄弟、ジャイアンにも通じるものがある。また、破滅型のパターンは田代まさしに通じるものがある。
[編集] ギャグ
- 毎度!横山や!
- 怒るでしかし
- メガネ、メガネ …(眼鏡を探す時に言う。)
- 正味の話が!
- かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う)
- 持っとけ弟子!(といって上着を舞台袖に投げる。大抵投げ返される)
[編集] 出演番組
[編集] やすしきよしとしての出演番組
- 初期のみ出演、後に西川きよし単独司会に。
- ヤングおー!おー!(毎日放送テレビ)
- モーレツ!!しごき教室(毎日放送テレビ)
- サンデーお笑い生中継(毎日放送テレビ)
- やすしはタモリと司会を担当。きよしはレギュラーメンバー。
- 婚約診断スイッチON(毎日放送テレビ)
- やすきよの結婚します(毎日放送テレビ)
- てなもんや三度笠(朝日放送テレビ)
- プロポーズ大作戦(朝日放送テレビ)
- 仁鶴・やすきよのただいま恋愛中(朝日放送テレビ)
- 初期のみ出演、後に笑福亭仁鶴ときよしの司会に。
- シャボン玉プレゼント(朝日放送テレビ)
- 爆笑寄席(関西テレビ)
- 相性診断!あなたと私はピッタンコ(関西テレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)
- お茶の間寄席(フジテレビ)
- THE MANZAI(フジテレビ)
- やすきよのスター爆笑Q&A(よみうりテレビ)
- 後にきよしが参議院選挙出馬のため降板、桂文珍がきよしの後任を務め、やすし1人で出演していたが、後に降板。
- やすきよの腕だめし運だめし(よみうりテレビ)
- 歌まね振りまねスターに挑戦!!(日本テレビ)
- おはよう!こどもショー(日本テレビ)
- テレビ3面記事 ウィークエンダー(日本テレビ)
- スター誕生!(日本テレビ)※末期の司会を担当。
- ワールドクイズ ザ・びっくり地球人!(日本テレビ)
- きよしは司会、やすしはレギュラー回答者。
- 象印ライバル対抗大合戦!(テレビ朝日)
- やすきよ笑って日曜日(テレビ朝日)
ほか。
[編集] やすし単独の出演番組
- ツッパリやすしの体当たり60分(東京12チャンネル、現・テレビ東京)
- 久米宏のTVスクランブル(日本テレビ)
- やっさんのハチャメチャ捕物帳(朝日放送テレビ)
- ザ・テレビ演芸(テレビ朝日)
- やすしの度胸一発(TBS)
- 新伍のお待ちどおさま(TBS)
- 三枝やすし興奮テレビ(毎日放送テレビ)
- やすしの漫才教室(読売テレビ) ほか
[編集] 映画
- 唐獅子株式会社
- ビッグマグナム黒岩先生
- 主演。木村一八も生徒役で出演。エンディングのスタッフロールのバックに流れていた映像は愛機・月光号の飛行シーン。
- 矢吹金造役。萬田銀次郎の師匠、先生である。
[編集] テレビCM
[編集] レコード
[編集] 所属事務所
[編集] 弟子・付き人
横山たかし・ひろし、萩原芳樹、横山ひとし、佐野隆仁(付き人)但し、たかしは3代目。
[編集] 逸話
[編集] スパルタ育成
ほとんど弟子を取らないきよしに対し、やすしは生涯に20数人の弟子を取っていた。しかし弟子に対して理不尽な暴君であったのは有名で、一人前の芸人として生き残った弟子は "たかし" と "ひろし" と "ひとし" だけである。中でもひとしは、やすしの最後の弟子である。きよしの弟子の西川のりおと競艇選手の佐野隆仁も付き人として修行していた。また、放送作家の萩原芳樹もやすしの弟子。
弟子に対する扱いの例を挙げると「師匠の前で食事をする時は早食い」「車を運転する時はレーサー並みの速さを要求」など。また、ほんの一瞬でもミスした場合や失態した場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門にするなどのスパルタ育成ぶりだった。これは、将来何事にも一着を取って一人前の芸人になってもらいたい思いがあったためであると説明されているが、本人が度々警察沙汰になることを起こしたり最終的に吉本を解雇されたことを考えると、こじつけ感は否めない。
横山ノックの門下時代、師匠に対しては要領が良く、師匠に誉められていたと言う。また、師匠や漫画トリオ時代の上岡龍太郎、青芝フックにも気配りをしており、上岡と青芝からも絶賛を受けた。その完璧主義ぶりがスパルタ育成を生み出す由縁となった。後にオール巨人、チャーリー浜、中田カウスも同じ手法を取り入れる事になる。
やすしの弟子育成の厳しさはオール巨人、チャーリー浜、中田カウスらと肩を並べるほどだと言われていたが、巨人以外、やすし、チャーリー浜、中田カウスは、私生活等での姿勢から「弟子には厳しいが自分には甘い」という批難を浴びる一方、巨人は生前のやすしを強く尊敬し、やすしに可愛がられ、更に完璧主義者である為「弟子にも自分にも厳しい」と内外から一目置かれている。
とかく粗相をした人に対して暴力を振るうことが多く、一度は人の頭をハンガーで殴りつけたため血が噴き出してしまったことがある。当時の芸人は「やっさんにハンガーで殴られハンガーが突き刺さってハンガーがプロペラみたいにクルクル回って飛んでった!(ドラえもんのタケコプター状態)」と茶化した。
また、スタッフに回し蹴りを決めようとしたが相手が空手の有段者で難なく受けられてしまい、「今日はこの辺にしといたる!」という新喜劇のコントのような結果になったこともある。
弟子が家の2階に住み込んでいた時ドタドタと階段を降りて「師匠、お時間です」といったら「あほんだら、階段くらい静かに降りぃ!」と怒り、反省した弟子が 次の日の朝そーっと降りて戸を空けて「お時間です」というとカミさんと事の真っ最中で「アホ、音出さんかい!」って言ったっていう話はよくたけしがしていた。
[編集] 大平サブローの物まね
横山やすしの物真似は吉本興業の後輩である「大平サブロー」がするものが最も有名。サブローの物真似は生前のやすし本人からも公認されており、子供達に「俺が死んだらこいつを頼れ。こいつが第二の父親だ」と言わせるほどの腕前だった。物真似歴の年数はやすしの芸歴年数を上回ったという(サブローは中学生の頃からやすしのものまねをしている)。2004年に発表されたパチンコ『CR横山やすし伝説』ではやすしの声を担当したほか、キッコーマンの焼肉のタレ「我が家は焼肉屋さん」のテレビCMではサブローがやすしに扮して出演したり、関西ローカルでもNTTドコモ関西の携帯料金のCMの声を担当していた。これらが話題と評判を呼んだことから、西川きよしとともに『新やすし・きよし』を結成するなどサブローは自ら“平成のやっさん”と称している。因みに、大平シローが西川きよしの物真似をし、「サブロー・シロー」時代に『オレたちひょうきん族』ではよく物真似のコンビ漫才をしていた。
[編集] 松本人志の物真似と根深い確執
フジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナーに、松本人志が横山やすしに扮したコント「やすしくん」があった。「第二の自分」と絶賛された太平サブローとは対照的に、松本の物真似に対してはやすし本人と家族全員が怒っていた。特に「やすしくん」が朝食を作るコント(ガス・水道・電気・電話が滞納で止められるという設定)では、やすし本人の経験を無断でパロディ化し家族をも侮辱されたとして、やすしは松本に謝罪を求めた。奇しくもやすしが亡くなった日(1996年1月21日)にも「やすしくん」は放映されていた。しかもその前に放送された内容は「飛行機を操縦していて翼とプロペラが外れたりするなどのトラブルになった後、『日本一の漫才師、死ぬ!』と言って飛行機から飛び降りる」というものであった(横山やすし自身もかつてセスナ機を持っていた)。もちろん偶然が重なった事とはいえ、この事態には松本への批判が集中し、やすしの死後、長男の木村一八が紙面において松本に謝罪を求める(週刊文春に木村一八の「松本人志よ、あやまらんかい!!」というインタビューが掲載され、全国紙に大きくこの号の見出しが取り上げられた)。しかし松本はこれを一切無視し、謝罪しなかった。木村一八が謝罪を求めたという報道に対し、松本は「あんなもんウソ、まるで自分がやっさんを殺したように言われる」と挑発的な発言をしている。 フジテレビ側は事態混乱を抑えるため、横山やすしが亡くなった次の週から「やすしくん」を打ち切る事にした。この対応に松本はフジテレビが勝手に自分のコーナーを打ち切った事に不快感を感じ、フジテレビと確執が生まれ、後の同番組の打ち切りへとつながったのではないかと推測される。
この背景には、松本が相方の浜田雅功とライト兄弟(ダウンタウンの前名)時代に出演した『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)で「家庭内暴力の報道が少なくていいな」という浜田に対する松本の「どこがええねん、親を甘やかしたらあかんで、親なんか子供が本気出せばすぐに殺せるということを教えとかな、あいつらに」「家庭内暴力は家の中で要らん奴を考えてやらんといかん。まず一番要らんのはグランドマザーです。その次はオトン。」といったネタと、やすしが尊敬するライト兄弟の名前を名乗っていた事が気に入らずやすしが激怒し(激怒というほどではなく諭すような口調だった)、「お前らはなめとんのか! そんなもん漫才やない! チンピラの立ち話やないか!」「テレビでやるような漫才ちゃうやんか。そんな親をけなしたりな、自分らは新しいネタや思うてるかも知れんけどな。航空業界にも迷惑かけるわ、ライト兄弟いう名前はね。」と言い放ったことを、約10年後に出版された自らの著書に「たまたま聞いたチンピラの立ち話が面白かった、(漫才というものは)それでええやないか。何が悪い。」「あの時やすしを殴っといたらよかった」と書くほど相当な憤りを持っていた様子が伺えるため、両者のお笑いに対するスタンスの違いが後々まで尾を引いていたと思われる。
番組の終了後、腹の中が煮えくり返って気が済まないやすしは二人を楽屋に呼び、説教を行った。「お前らは、どこの事務所じゃ?」と聞くと二人は「吉本です」と答え、それを聞いたやすしはさらに激昂、「何?吉本?辞め!辞め!消えてなくなれ!」と二人に引退を勧告し、「何がライト兄弟じゃ、しょうむない名前付けやがって!出直してこい、ボケ!」と吐き捨てた。
説教後、当時、東京事務所(現在は東京本社)所長だった木村政雄は、部下の大崎洋(現・副社長)と二人を呼び「あれは横山流の漫才に対する価値観であって、そこから外れとるから悪い事やない。」と慰めた。
やすしがダウンタウンを叱った原因は、単なる好き嫌いだけではなく、当時のダウンタウンの芸やネタのレベルが低かったことである可能性も高い。「ザ・テレビ演芸」には糸井重里等の審査員も何人か登場するのだが、審査員も当時のダウンタウン(ライト兄弟)の芸に対し、ことごとく否定的なコメントを述べている。もっとも、やすしの怒りが余りに激しかったため(酒を飲んでいた説もある)、審査員がやすしに反対するような意見を言いづらくなり、ダウンタウン(ライト兄弟)に辛い評価を与えるしかなくなったのではないかという意見もある。
やすしと松本の関連については、松本とビートたけしとの対談『コマネチ』Vol.2(新潮45別冊)に詳しい。
松本は吉本の中でも「アンチやすし派」(社長だった中邨秀雄も専務だった林裕章もその中に入る)の一人でもあった為、やすしに相当恨みを持っていた(ただ番組には、いずれやすし本人を招く予定でいたという、もし実現していればやすしに現在の立ち位置を再確認させ再出発の糸口にできたのではと評価する意見もある)。
なお横山やすしの葬儀にダウンタウンは「仕事多忙」を理由に欠席した。
[編集] 若手芸人との確執
NSC出身者などの、弟子経験のない芸人に対して否定的であった。また、彼らが思い思いに付ける芸名、コンビ名も気に入らなかったようである。前述のダウンタウンとの諍いもネタの内容に加え、当時彼らが名乗っていた芸名「ライト兄弟」が無類の飛行機好きである自身の尊敬する人物を(彼から見れば)安易に芸名に使っていたことが許せなかったようである(※ダウンタウンにしてみれば飛行機好きのやすしに気に入られようとしてこの芸名にしたようである)。「ひょうきん予備校」に講師役として出演した際も生徒役の非常階段に「こんなしょうもないコンビ名、さっさと変えろ!」などと怒鳴り散らしていた。
[編集] 煙草嫌い
煙草嫌いでも有名であり、楽屋で煙草を吸っている芸人や、飲みに行った先でも近くで吸っている人が居れば取り上げ、足で消して「吸うな!」と一喝したと言う。 しかし、その反面喫煙者が前もって「吸ってもいいか?」と聞けば「構へんよ」と言っていた(弟子・横山ひとしの著書による)。
『久米宏のTVスクランブル』で嫌煙権の話題が(否定的に)取り上げられた際、司会の久米宏が薄笑いを浮かべながらやすしの顔面にタバコの煙を吐きかけた事がある、当時(1980年代初頭)の日本は嫌煙権が社会的に話題になり始めたばかりの時期であり愛煙家には危機感のない時期だった、愛煙家の久米は煙草嫌いの人間への揶揄のニュアンスで前記の行動を取ったと思われる、やすしは久米の余りにも失礼な態度に対し「あんたわしの弟子やったら大変よ」と言うにとどめた。
横山やすしの代表的な主演映画『唐獅子株式会社』では、月亭八方がやすしのタバコ嫌いのために出演不可となっている、その理由は以前やすしとタバコの件でもめているからである。(原作者・小林信彦の著書による)
[編集] 久米宏と横山やすし
後に木村政雄は「やすしさんが酒を飲んで仕事をするようになったのは久米さんと仕事をするようになって以降で、当時は久米さんに精神的に飲まれないようにするためだった」という意味の発言をしている、やすしは豪放なイメージと裏腹に小心な面もあったと言われ、大卒の知性派で身長181cmと身体も大きく人気実力ともに定評のあった久米に対し、何らかのコンプレックスを感じていた可能性が高いと見る向きもある、久米もそれを見透かしたかのような態度を見せる瞬間があり(上記のタバコ吹きかけ等)、木村の話にも納得できる点があるかも知れない。
なお「TVスクランブル」にやすしが起用されたのは、司会者である久米が熱望したためだったと言われている、噛み合いそうもない強烈な個性をあえて相方に選んだ久米の判断力と度量に対しやすしは最初から飲まれてしまっていたという意見もある。
なお、やすしが亡くなった日に久米は「ニュースステーション」のエンディングで上記の共演の事を振り返り、「やすしさんは例えば飛行機の事等、何に於いても一生懸命に取り組む人でした」とコメントしていた。
[編集] 最初で最後の共演
とんねるずとは『うちの子にかぎってパート2』の第2話で共演したが、それが最初で最後の共演であった。また、同い年の田村正和と関口宏とも最初で最後の共演した。特に田村とのやり取りは絶品であり、名シーンとしても有名。
[編集] 破天荒な金遣いの荒さ
年収は1億円あったが、初代桂春團治と藤山寛美の様に金使いも荒かった。ボート、セスナ機購入等で借金が膨らみ差し押さえを受けたこともあった。セスナ機には娘の「ひかり」にちなんで「月光号」と名付け、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで、落ちたるねん。要するに空飛ぶ棺桶やがな」と自慢げに話し大爆笑させた。そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放す事になり『新伍のお待ちどうさま』(TBS系)にゲスト出演した時に公開オークションに掛けたりもした(実際には、そこで売れたのか他で売れたのかは不明)。やすし自身が金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからであろう(後にやしきたかじんもやすしの言動を含んで魅力に惚れる事になる。)。家族へは、月に30万円しか入れていなかったという。
その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いた時でも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい!」と叫んでいたという話もあるなど、「横山やすし」というキャラクターを守る為に普段でも舞台と同じキャラクターになろうとしていた節がある。
[編集] 恐怖の時計鍋伝説
やすしは、自宅で数人と酒席を開いた時に、先に帰って行く人間を極度に嫌った。中でも自分より若い人間が腕時計を見た瞬間をやすしが目撃すると、その腕時計を取り上げた上、鍋の中に入れて故障させ二度と使えない様にしてしまったとされる「恐怖の時計鍋」と言う伝説があった。その伝説は、死後、追悼特番等で明らかにされ、度肝を抜いた。
この様な伝説が生まれた背景には、やすし自身の幼い頃の嫌な体験があった事にある。両親が共働きであった為に、やすし自身が夕食を自分で作っていた為、それの辛さを紛らわす為、若い人間に対して当たり散らす目的で起こした行動である説もある。
[編集] 師匠に暴言
師匠のノックら横山会(エンタツ以来の横山姓の一門会)が中田ダイマル・ラケットのテレビ出演を見ていた時、ノックらは「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」と語っていたところ、やすしが激怒し、「誰や!今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは?」と怒鳴りだし、なだめようとしたノックに対して「お前か!このハゲ!ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ!ボケ!」と暴言を吐き、巷間でも語り継がれた。やすしがダイマルを尊敬していたからであるが、どうやら呑んでいたものと思われる。幸い破門は免れた。
[編集] マラソンと陸上競技
マラソンと陸上競技にも造詣を持ち、意外と健脚の持ち主でありアスリートでもあった。当時堺に住んでいた自宅からうめだ花月までの道のりを走っていた事は有名。リレーでも上位を競う程、速かった。マラソンへ対する情熱は後に上岡龍太郎、間寛平らに多大な影響を与えており、上岡も間もアスリートとなった。
[編集] ビートたけしとの友情
やすしに弟子の様に可愛いがられていた島田洋七と東京での仕事が一緒になったとき、東京で一番面白い若手、と洋七にビートたけしを紹介してもらったのがたけしとの最初の出会い。それ以降、やすしはたけしを弟子の様に可愛いがり、やがて公私共々友情を築き上げて行った。1987年にたけしがフライデー襲撃事件で逮捕された事を聞き、「悪いのはたけしやない!悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材のやり方に対して痛烈に批判した。
[編集] 横山やすしを演じた俳優
横山やすしの生涯は、何度かテレビドラマ化されている。
- 北村一輝『航跡~横山やすしフルスロットル~』(2004年)・『横山やすしフルスロットル~阿波鳴門純愛物語~』(2005年)(いずれも関西テレビ(当初は木村一八が父・やすし役を演じることになっていたが降板))=アマチュア競艇選手としてのやすしを描く(関西ローカルで放送)。・・・・・・※ポニーキャニオンからDVD化され、全国で発売されている。
- 川谷修士(2丁拳銃)『ドラマ・コンプレックス ヘレンときよしの物語』(2006年8月29日、日本テレビ系)
- 西川きよし役=西川忠志(西川きよしの長男)。
[編集] 著書
- 『まいど!横山です ど根性漫才記』 (徳間書店 ISBN 4-19-597219-1)
- ゴーストライターを使っていない本人の執筆。小林信彦は「そのために読みにくいが異様な迫力が生れる」(『天才伝説 横山やすし』序章)と評している。
[編集] 参考文献
- 『天才伝説 横山やすし』 - 小林信彦・(ISBN 4-16-353750-3)
- 『横山やすし 夢のなごり~やっさんが逝って大阪おもろなくなったわ~』 - 古川嘉一郎・(ISBN 4-584-19129-8)
- 『横山やすし 壮絶な死と生の真実』 - 岡本さとる・(ISBN 4-8422-0218-1)
- 『ひとつ星のように ~夫・横山やすしとの忘れられない日々~』 - 木村啓子(やすしの妻)・(ISBN 4-575-28577-3)
- 『師匠』 - 横山ひとし
- 『遺作 横山やすし日記 ~浪速男の意地、笑い、涙』 - 横山やすし・保志学(ISBN4-575-28680-X)
[編集] 関係人物
- 横山ノック
- 上岡龍太郎
- 西川きよし
- やしきたかじん
- 木村一八
- 横山プリン
- レツゴー正児
- 横山たかし・ひろし
- 横山ひとし
- 佐野隆仁
- 野中和夫
- 林正之助
- 林裕章
- 木村政雄
- ビートたけし
- オール巨人
- 中田カウス
- チャーリー浜
- 藤山寛美
- 石橋貴明
- 松本人志
- 萩原健一
- ジャイアン
- 亀田三兄弟
- 田村正和
- 関口宏
- 久米宏
- ドナルドダック
[編集] 外部リンク
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