正力マイクロ波事件
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正力マイクロ波事件(しょうりき・まいくろは・じけん)とは、1950年6月1日に電波三法が施行され公共と民間の放送事業体が並存された日本で起きた政治事件である。1954年暮れの参議院通信委員会決議により決着したとされる。正力事件、正力マイクロ事件、正力マイクロウェーブ事件とも呼ばれる。
正力とは読売新聞7代目社長である正力松太郎を指し、マイクロ波とは極超短波の無線伝送方式による通信中継システムを指す(詳細は後述)。戦前よりのテレビ研究を踏みにじる形でアメリカ主導のテレビ放送の標準方式が決定した日本において、さらに放送・通信分野に大きな影響を持つ国内基幹網を米国の資金と技術によって建設し公共企業体や保安隊へ貸与する構想が世間に流布した事で騒動が起きた。大国アメリカへの意地から日本の技術者が燃えた点で技術史にも名高い事件。マイクロ中継回線はイギリスのSTC(Standard Telephones and Cables)社の技術導入、日本電気と電気通信開発所が国産送信機を、三菱電機がアンテナを開発したことにより日本電信電話公社(以下『電電公社』)が東京-名古屋-大阪間に完成した。(1953年8月着工、1954年4月15日完成)
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[編集] 電波三法とマイクロ波
電波三法は太平洋戦争前の電波の政府管掌の反省の上にたち、電波を民間に開放し公共福祉のための規制をつくる事を目的とする。具体的には同一の周波数帯域利用での混信を防ぎ、社会的には電波の独占が生じないように規制する事である。また財団法人から特殊法人へ衣替えしたNHKは日本全国あまねく受信できるように放送する事を使命とする自治機関へ再生した。官庁からの独立したスタンスでの電波監理されるように電波法・放送法の実体法とともに電波監理委員会設置法が施行され委員会行政が敷かれる。総理府の外局だが委員会のメンバーは国会の同意を得て内閣総理大臣が任命する事により独立性と透明性を保つ事とした。極端に言えば立法(規則制定権)、司法(聴聞)と三権を束ねる強力な権限を持っていた存在だが現実には2年で廃止(詳細は後述)。ともかく、この時点では放送における表現の自由が守られ健全な発展を遂げる事が希求されていた。
マイクロ波とは電波の一種である。波長が短く強い指向性をもつため搬送できる情報が多くアンテナや消費電力が小さくすむ利点を持つが送信距離が短く障害物に弱い。1940年代後半よりレーダー研究から離れた人材が各国で研究を進め、通信分野においては同軸ケーブルとともに長距離伝送路としての役割を担っていくが施設設置に時間がかからず、初期投資が抑えられる点がメリットである。アメリカではAT&T(アメリカ電信電話会社。Ma Bell ベル母さんで呼ばれるテレコム界の巨人)が大陸横断のテレビ中継システムを完成させ、州際通信と国際通信を規制するFCCによる1959年の周波数帯域の自由化(above 890)まで独占体制を築くことになる。通信・放送分野で中継効果を得るためには例えば生駒山と霊山のように見通し場所同士の頂上に受信用また送信用パラボラアンテナと中継器を設置して山頂と山頂を電波で繋ぐマウンテン・トップ方式が採用された。
[編集] 電波監理委員会について(1)テレビ免許
1950年、電波三法により電波が民間に開放された結果、当時の電波行政を管掌していた電波監理委員会(以下『委員会』)は放送局の開局免許に関する申請を9月末で72件受理している。許認可権を持つ『委員会』は基準に適合するか審査の上で1951年の4月に第一回の予備免許(放送設備設置の許可)を16社へ交付している。免許を交付されたのは全てラジオ局でありテレビ局に関する申請も提出されていたが審査はなかった。
世田谷区砧のNHK放送技術研究所(以下『NHK技研』)に設置された実験局は東京や全国の主要都市でテレビの公開実験を続けており、また読売新聞も1951年の元旦にテレビ放送実験を開始すると社告記事を掲載して世間の耳目を集めていた。『委員会』にとってもテレビ免許問題は避けられる状況ではなく1951年5月、衆議院本会議から「テレビジョン実施促進に関する決議」が出され速やかに有効適切な措置をとるよう行政は求められている。1951年の4月の免許交付から数日後、アメリカ側の招待により『委員会』の委員4名が渡米しテレビ放送の視察を行っている。
[編集] 柴田秀利のロビイ活動
同じ飛行機でNHKの解説委員だった柴田秀利も随行したがワシントンD.Cではカール・ムント上院議員と会談をしている。1950年に共産主義に対抗するため日本を含むアジア太平洋地域でアメリカの宣伝放送「VISION OF AMERICA」(VOA)を発信するための放送網構想を公表したムントに対し、柴田は日本におけるテレビ放送網は日本人が運営すべきでありその中心人物は正力松太郎こそ相応しいが、現在の彼は公職追放処分中であると伝えている。
1948年の暮れに三極真空管発明者として有名なリー・ド・フォレストが発明家の皆川芳蔵に対し日本でテレビ放送を運営する計画を持ちかけ、皆川が新聞人である正力に対し放送局の運営を勧めた事により日本の民間テレビ放送が胎動したとするのが通説である。しかし、フォレスト・皆川ルートでの働きかけは正力自身が公職追放の処分に遭っていた事、また連合軍総司令部が承認しなかったことから成功はしなかった。
ムントは柴田の説明に対して正力への協力を約束する。会談を終えた柴田はサンフランシスコに寄るがアメリカに視察に来ていた古垣鉄郎NHK会長の一行とホテルロビーで偶然の再会を果たす。帰国後はテレビ分野に進出するつもりと抱負を語る柴田へ古垣たちは「あまり勝手な動きはしないで解説の仕事に戻っては」と冷淡な態度を見せている(『戦後マスコミ回遊記』柴田秀利より)。
[編集] 公共放送の立場
古垣は後にフランス大使となりレジオン・ド・ヌール勲章を受勲した人物だが、この時は高野岩三郎会長の後任として日本国営放送(以下『NHK』)の舵取りを任されていた。今回の視察旅行もイギリスとアメリカのテレビ放送の運営について研究するのがテーマであった。『NHK技研』は戦前より続けていたテレビ研究を1946年1月より再開、1950年11月には定期実験放送を開始していた。また中継回線についてもマイクロ波中継の試作装置の開発を進め翌年の暮れに完成させる事になる。テレビ放送の実現のために布石を打っている『NHK』だが、問題はラジオに比べてテレビ受信機はその数が圧倒的に少ない点であり受信環境の整備にあった。
国内の製造機器メーカーの技術も外国に比べ遅れており、まだ量産体制に入っていなかった状態では「テレビは時期尚早」の声も少なからず聞こえていた。古垣も開発研究の動きを見てから「カラーテレビから始めてみても」と口にしている現状の日本では、民間テレビ放送局を立ち上げても採算が取れるとは思えず、古垣たちは柴田がテレビに進出するといった言葉を「アメリカで作った古い受像機を日本のテレビメーカーに売ろうとしているのか」ぐらいにしか考えていなかった。
[編集] 正力構想
柴田、ムント会談の結果8月22日にアメリカの通信技術の専門家3名が来日する。翌年の1952年。8月の正力の公職追放処分解除による復帰、アメリカとの提携は海の向こうでの朝鮮戦争のニュースと共にある種の緊張感をもって世論に迎えられる。さらに正力は9月4日の読売新聞にマイクロ波中継構想を公表する。後に構想は二転三転するが骨子としては「日本の山頂にアンテナを設置して(『マウンテン・トップ方式』)中継システムを構築。東京から日本中にテレビ放送を広げる。余った帯域分は『電電公社』に貸与して長距離通信網やデータ通信に利用してもらう」といった内容である。10月に正力は「日本テレビ放送網」の開局免許の申請を『委員会』へ提出した。