清瀬一郎
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清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年7月5日 - 1967年6月27日)は兵庫県飾磨郡夢前町(現、姫路市)出身の弁護士、政治家、衆議院議長、法学博士である。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
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[編集] 人物
弁護士としては小作争議裁判や思想事件等を手がけ、政界入りしてからも普通選挙運動を推進したり治安維持法に反対するなどリベラルな政治家として知られてきたが、1930年代以降親軍派に転向。極東国際軍事裁判では東條英機元首相の主任弁護人を務めたことでも知られる。戦前の親軍転向を理由にGHQから公職追放された。
追放解除後も憲法改正を主張するなど典型的な戦前派政治家と目されたが、清廉さを身上とするが故に政界復帰後は同じく清廉潔白の三木武夫と行動をともにし、衆議院議長に就任した際も「公平さを期するため」と党籍を離脱した。当時は議長・副議長の党籍離脱は慣例化しておらず、清瀬の党籍離脱は異例ともいえる。
衆議院議長としては、教育委員の準公選制を任命制にしたことや、日米安全保障条約の強行採決の敢行などが挙げられる。余談だが、日米安保強行採決時に清瀬議長を護衛役として突進した金丸信によって、右足首を負傷・骨折。「黒い霧事件」など政界の汚職事件については、自民党綱紀粛正調査会会長に就任し調査、粛党答申をまとめ政界浄化を訴えた。
衆議院議員選挙に通算14回当選した。法学者の清瀬信次郎は一郎の子。
[編集] 略歴
- 1907年:京都帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。
- 1908年:弁護士を開業。その傍ら法政大学講師、関西大学教授を務め法学者としても活躍。
- 1920年:立憲国民党公認で総選挙に立候補し初当選。
- 1922年:革新倶楽部の結成に参加。
- 1925年:治安維持法の制定に反対。立憲政友会との合同(政革合同)に参加せず、のちに革新党を結成。
- 1928年:衆議院副議長に就任。
- 1932年:立憲民政党を離党した安達謙蔵らと革新党が合同して国民同盟を結成、幹事長に就任。
- 1938年:法政大学教授に就任。
- 1940年:大政翼賛会総務に就任。
- 1946年:公職追放。追放期間中は弁護士として東京裁判で東條英機の主任弁護人を務める。
- 1952年:追放解除にともない改進党から政界に復帰。改進党幹事長、日本民主党政務調査会長を歴任。
- 1955年:第3次鳩山内閣に文部大臣として入閣。
- 1960年:衆議院議長に就任。
[編集] 所属政党
[編集] 著書
- 『秘録東京裁判』(中公文庫)
[編集] 外部リンク
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