漢那憲和
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漢那 憲和(かんな けんわ、明治10年(1877年)9月6日 - 昭和25年(1950年)7月29日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍少将、政治家。海軍兵学校27期卒。
大正時代、当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦・香取の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元・沖縄県選出の衆議院議員となった。
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[編集] 経歴
明治10年(1877年)漢那憲慎・オトの長男として琉球藩那覇区西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。
明治25年(1892年)沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。同期に伊波普猷がいた。
明治28年(1895年)4月、連合艦隊の旗艦「松島」が那覇沖に投錨した際、佐野常羽少尉と出会う。海軍へ進むきっかけとなる。
- 同年11月 沖縄一中ストライキ事件が発生。首謀者の一人と目された。
明治29年(1896年)11月 海軍兵学校へ入学。沖縄出身者として初。席次は123名中、4番の成績であった。
明治32年(1899年)12月、海軍兵学校を卒業。卒業者113名中、3番の成績で、恩賜の双眼鏡が授与された。
明治33年(1900年)7月 約6ヶ月の遠洋航海を終え横須賀に帰港。「橋立」乗組となる。その後、「金剛」「磐手」の航海長をつとめる。
明治38年(1905年)第三戦隊所属の巡洋艦「音羽」に乗り組み日本海海戦に参加。
明治39年(1906年)海大乙種学生を卒え、翌年、海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜される。
- その後、兵学校教官兼監事を命ぜられ、35期から38期までを教える。この生徒の中に、南雲忠一などがいた。
明治42年(1909年)「宗谷」「阿蘇」二艦の練習艦隊で、旗艦「宗谷」の航海長兼指導教官として参加、北太平洋を航海する。
明治43年(1910年)少佐に進み、海大甲種学生となる。その頃、尚泰侯爵の五女政子と結婚する(漢那33歳、政子18歳) 。
大正3年(1914年) 海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、まもなく中佐に進級。同年、第一次世界大戦が勃発。
- この頃教えた甲種学生の中には、山本五十六などがいた。
大正5年(1916年)5月、大戦下の欧州視察を命ぜられ、約11ヶ月を費やして、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スイス、アメリカの7ヶ国をつぶさに視察。
大正6年(1917年)12月 「対馬」艦長に補せられる。
大正7年(1918年) 大佐に進級し、同年12月、軍令部参謀(軍令部第四課長)に補せられる。
大正10年(1921年)3月3日から9月3日まで、御召艦香取艦長として東宮殿下の欧州遊学に同行。同年12月、「扶桑」艦長に補せられる。
大正12年(1923年)12月、少将に昇進と同時に横須賀防備隊司令に補せられる。
大正13年(1924年)12月、軍令部出仕となる。
大正14年(1925年)8月、待命となり、12月に予備役編入となる。
- 48歳という若さでの予備役編入を聞き皇太子殿下(昭和天皇)は「なぜ、漢那がそんなに早く予備役になるのか」と洩らされたと言う。
- 海軍を退役後、郷党の熱烈な懇請により、政界への進出を決意。
昭和2年(1927年)沖縄から衆議院議員に立候補して当選、以後、当選5回、勤続10年にもおよんだ。5回のうち4回は最高得票であった。
昭和12年(1937年)内務政務次官をつとめる。
昭和17年(1942年)選挙遊説中、過労による脳卒中で夫人が倒れる。一命は取りとめたものの半身不随の体となる。
昭和20年には衆議院議長候補にも擬せられた。
- 4月、米軍は沖縄本島に上陸。
- 6月14日、小禄にあった海軍部隊は全滅。
- 翌15日、米内海相に招かれ、6月6日付沖縄方面根拠地隊司令官太田実少将からの訣別電文を見せられる。さすがの剛毅な漢那も、肩を震わせて鳴咽を堪えていたという。
昭和24年(1949年)このころから嫌な咳をするようになり、翌年には吐血するようになった。診察をうけたところ、肺癌と診断された。
昭和25年(1950年)東京にて逝去。73歳。
[編集] 関連書籍
恵隆之介著『天皇の艦長 沖縄出身提督漢那憲和の生涯』光文堂 1985年
[編集] 関連項目
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