田部武雄
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田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945年6月)は、プロ野球黎明期の選手、東京巨人軍創成期の1番打者、2代目主将。巨人で最初に背番号3を着けた選手。戦火に散華した幻の名選手の一人。
[編集] 来歴・人物
広島県広島市旭町(現南区旭町)出身。実兄謙二は、1915年全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に広島一中(現広島国泰寺高校)の6番捕手として出場した。その後毎日新聞記者となり1920年、セミプロ野球団「大毎野球団」の結成に参加。1924年から始まる選抜高等学校野球大会開催にも関与した。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めた。
1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学するが、1年で退学。理由は兄らの仕事を手伝うため、或いは野球部の満州遠征の加えられなかった不満からか、との説がある。このため単身満州に渡り、営口実業団で野球を続ける。1926年秋には大連実業の1番二塁手として内地を転戦。1927年帰国し広陵中学四年に復学。この頃春の選抜大会には年齢・学年とも制限が無かったため、この年、21歳にして甲子園に出場。この前年度初優勝した広陵は、八十川胖(のち明大、八十川ボーク事件で有名)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(ベーブ山城、立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われ、春連覇を狙い田部がエース3番として勝ち進み決勝までいくが、快速球左腕小川正太郎の和歌山中学(和中)の前に敗れた。しかし大投手・小川から7回裏に公式戦で初めての被本塁打(ランニングホームラン)を浴びせている。同年夏の選手権は他チームでの在籍は1年のみ、という制限に引掛かり田部は出場できなかった。(代わってエースとなった八十川が2回戦、対敦賀商業戦で史上2人目のノーヒットノーランを達成するなどして勝ち進むが、またしても決勝で水原茂(慶大・巨人他 野球殿堂)らのいた高松商業に敗れた)
1928年、広陵中に籍を置いたまま22歳で明治大学の3年に進学。主に二塁と遊撃を守ったが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取った。また塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし片足を突き出してピッチャーを威嚇、大騒ぎする観客の中、まるで隣の家に行くように盗塁を簡単にやってのけた。全てを兼ね備えた天才選手といわれ明治の黄金時代に貢献。『明大野球部史』にも「昭和初期に最も"神宮の森"を沸かせた選手」とある。この時代の活躍については大和球士著、『真説 日本野球史 《昭和篇その一》』に詳しい。1931年、初来日したジョー・ディマジオら米大リーグ選抜チームと対戦する日本選抜チームに外野手でファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場。大学の先輩・小西得郎が可愛がり小西の神楽坂に自宅に居候していた。
1932年明治大学を卒業後、藤倉電線(東京市)に入社。補強選手として東京倶楽部で第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場するが、この大会優勝した全神戸に田部の暴走で敗れた。この頃当時の日活のトップ女優・伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせた。伏見姉妹の方が熱を上げ、田部に会いに来たところをよく目撃されたらしい。芸能人と付き合った最初の野球選手の一人と思われる。しかし仲が良かった苅田久徳の著書によると本命は日本橋の老舗のお嬢さんで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消したといわれる。その後山口県の九州電気軌道に勤務し車掌をしていた。
関係者が奔走し、たまたま地方紙の記者が田部の存在を知っていたため1935年、三宅大輔に歓誘され大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。背番号3。1936年背番号1。東京六大学出身で端整なマスクにスマートなプレーは、女性からの人気が非常に高かったといわれる。また伝説的な韋駄天選手として知られ、同年、第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録、また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させたりで、アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。翌1936年にもアメリカ遠征に参加。この年は全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板した。沢村栄治(巨人 野球殿堂)と二人だけ写真入りで取り上げられ、共に大リーグから勧誘を受けた。帰国後、主将としての役目上選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団。渡米前に辞めさせられた三宅大輔と仲良しだった苅田久徳の復帰の直訴が、受け入れられなかったためとされる。 同年プロ野球リーグ開幕。結局プロ野球には身を投じなかった。
その後同じ年の秋、杉田屋守らと関西鵜軍(コーモラント)なる新球団結成に参加予定(マスコミ発表のみ)だったという説がある。その後再び満州に渡り、1940年、第14回都市対抗野球大会に大連市・大連実業団のエースとして出場(準優勝投手)。1942年、第16回都市対抗野球大会にも出場。1944年、大連で現地召集され、戦況悪化の激戦地、沖縄に向かう。
1945年、地上戦最中の6月、沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡。(と記録には残るが没日ほか詳細は不明) 享年39。
10歳下の弟・田部輝雄はプロ野球入りした。広陵、立教大学、戦後は石本秀一の勧誘で国民リーグの結城ブレーブス、西日本パイレーツなどでいずれも主力選手として活躍した。引退後は芝浦工業大学の初代野球部監督を務め、同校を東都大学の強豪チームに育て、また伊原春樹、片岡新之介ら多くの後進を育てた。
[編集] 関連項目
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