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章炳麟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

章炳麟(しょうへいりん、Zhang Binglin 、1869年 1月12日-1936年 6月14日)は、中国末から中華民国にかけて活躍した学者革命家。

目次

[編集] 生涯 - 革命を中心に -

[編集] 戊戌政変まで

章炳麟は、字を枚叔(ばいしゅく)、号を太炎(たいえん)という。浙江省余杭県の地主の家の四男坊として 1869年同治七年)1月12日に生を享けた。幼少より母方の祖父と父から考証学漢学あるいは 樸学ともいい、ここにおける考証学とは経学・小学・史学・礼制の学・諸子学を総合したものを指す)の手ほどきを受け、1890年からは杭州にある詁経精舎に入り兪樾(ゆえつ)に師事した。そこで古文経学小学(文字の形体・音韻・訓詁について研究し、経学を基礎づける学問)、史学を修める。すなわち章炳麟は戴震(たいしん)から続く皖派考証学に連なる学者であるといえよう。なお、章炳麟は科挙のための学問を軽蔑していたため、まともに受験せず、結果進士とはならなかった。章炳麟は世が世なら革命とは無縁に過ごし大学者としてのみその名を残したであろうが、時代がそれを許さず、考証学の先達顧炎武の後を追うかのように彼は反清活動へと足を踏み入れていくのである。

人生最初の転機となったのは1895年における日清戦争の敗北であろう。敗戦とそれに伴う領土割譲・賠償金の支払いに、他の知識人と同様かなりの衝撃を受けたことは想像に難くない。その証拠に章炳麟は康有為(こうゆうい)が戦争直後に立ち上げた強学会にすぐさま入会している。強学会とは、下関条約締結に反対する人々が中心となって、清朝の富国強兵を研究・推進することを目的として設立された団体である。まずは改革派の陣営に加わったことから、章炳麟がこの時期未だ清朝に絶望していなかったことが分かる。

これ以後、清朝がその滅亡まで手をこまねいている間に在野では、康有為とその弟子梁啓超 (りょうけいちょう)ら立憲君主制を目指す変法派(保皇派)と孫文(そんぶん)ら共和制樹立を目指す革命派が中国近代史の主役に躍り出て、両者が時に手を取り、時に対立しながら歴史の針を進めていくことになる。

[編集] 日本への亡命

強学会はすぐに弾圧され解散するが、章はその後変法派の機関誌『時務報』の記者となった。章炳麟は『時務報』に二編の記事を発表するなど、変法派としておよそ一年半活動するが、やがて 儒教を国教化しようとする主張に極めて違和感を覚え、袂を分かつことになった。よってその後に起きた戊戌変法のさなかは変法派とは距離をおいていたのであるが、戊戌の政変が起こると西太后(せいたいこう)らから厳しく追及され、台湾を経て日本へ亡命する。

日本では梁啓超と交わりを復し、その紹介で様々な西欧思想を吸収した。そして梁の紹介で革命派を率いる孫文と面会するのである。ただこの時はごく軽い交際で終わったようだ。章は孫文と出会ったおよそ一ヵ月後、上海へ舞い戻り、そこで今度は康有為の別の弟子唐才常(とうさいじょう)と知り合いとなる。唐才常は当時、後に自立軍運動とよばれる決起の準備のさなかであった。その縁で1900年6月、上海において開催された中国国会(会長容閎(ようこう)・副会長厳復(げんぷく))に章炳麟は参加する。唐才常はこの会によって変法派と革命派の手を結ばせることを画策し開催したのであるが、そのため会規には両方の主張を取り入れられており、種族革命と勤皇という相矛盾する要素が同居していた。種族革命とは革命の主体を民族におくもので、具体的には満洲人に対して漢民族が行う民族革命を指す。また勤王とは光緒帝に忠誠を誓い立憲君主制樹立のために動くことを意味した。すでに種族革命を志していた章炳麟にとって、勤皇を承諾できるはずもなく、以後中国国会に出席せず脱会した。のみならず辮髪を落とし、革命派の旗幟を鮮明にするに至る。そしてこれ以後、章炳麟は変法派の影響を完全に払拭し、それどころかその前に手強い革命派の論敵として立ちはだかるのである。

章炳麟が変法派と完全に決別した頃は、義和団事変が猖獗を極めていた時期でもある。この事変は西太后や一部の高級官僚によって煽られたあげく諸外国に鎮圧された。そのつけは大きく、巨額の賠償金や外国兵の北京駐留が代価として 列強 に支払われねばならなかった。これにより遅まきながら戊戌変法を模倣した光緒新政を西太后らは開始するが、革命の機運が衰えることはなかった。

同時期、孫文らは会党や新軍に浸透して次々と武装蜂起を行い、他方章炳麟は専ら言論でもって革命に参加し、革命が避くべからざることを鼓吹した。そのため再び清朝に睨まれたと分かると日本に亡命し、そこで孫文や 秦力山と交友を深めたようだ。その縁で1902年支那亡国二百四十二年紀念会」を東京に開く計画が立てられた。題における「支那亡国」とは南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより満洲王朝への復仇心を煽ろうとしたのである。会の宣言書は章炳麟が起草したが、その内容は高らかに革命を唱えるものであった。清国公使の要請により明治政府は当日になって会の開催を禁止したが、これ以後在日留学生の多くが排満革命に靡き、革命結社が続々と作られるに至ったと言われる。

[編集] 『蘇報』事件と光復会

その後、上海に戻った章は蔡元培(さいげんばい)が創設した愛国学社に加盟し、教師となった。そこで『革命軍』を著した鄒容(すうよう)と出会うことになる。この時鄒は弱冠19歳であり、その『革命軍』は革命を礼賛し、排満復仇を強く表明したセンセーショナルな書であった。すぐさま章炳麟と意気投合したのはいうまでもなく、やがて義兄弟となった。一方 章炳麟自身は1903年6月、「康有為を駁して革命を論ずる書」を雑誌『蘇報』に連載した。これは康有為が海外の 華僑にあてて立憲こそ中国がとるべき道で革命は非であると説いたことへの反駁の論である。上記の二著書は公然と清朝打倒を叫ぶもので、世を震撼せしめるに十分であった。そのためついに鄒容・章炳麟ともに逮捕され監禁されるに至る。途中鄒容は獄死したが、章は日々仏教書を読んで三年過ごした後に釈放され、そのまま日本へと亡命した。これが所謂「『蘇報』事件」の顛末である。『蘇報』事件によって一層章炳麟の名は高まり、鄒容の『革命軍』ならびに章炳麟の「康有為を駁して革命を論ずる書」はかえって余計に人々に知られることとなった。章炳麟の文章にしては非常に読みやすいのも幸いし、双方併せて『章鄒合刻』というタイトルで刊行された。『蘇報』事件は清朝の思惑に反し、かえって清末の世論を革命側へと引き寄せたと言えよう。

1904年、蔡元培および陶成章(とうせいしょう)が中心となって上海に浙江省出身者を中心とする革命団体、光復会を設立した。この会の設立には獄中にあった章炳麟が深く関与していたという。なお「光復」ということばには、清朝によって汚され従属せしめられた光り輝く中華を再度復するという決意が込められている。また1905年8月には孫文がこの光復会や 華興会・興中会を束ね、中国同盟会東京に立ち上げた。章炳麟は亡命後ただちに入会し、その機関誌『民報』の主筆となって種族革命を鼓吹し、変法派梁啓超の『 新民叢報 』と激烈な論戦を展開した。またアジアにおける被侵略民族にも眼を向けてその団結を図り、亜洲和親会を発起した。しかしやがて章炳麟と孫文両者の革命の方向性、すなわち種族革命志向と西欧的な民権の確立への志向の相違が明確になると孫文派と疎遠となり、1910年にあらためて光復会を立ち上げて同盟会とは対立するようになる。

[編集] 辛亥革命以後

1911年 10月10日武昌蜂起にはじまる諸段階を経て辛亥革命が成ったことを知った章炳麟はすぐさま帰国した。その革命鼓吹の功から民国政府より勲一等を授けられ、孫文や黄興とともに革命三尊と呼ばれることとなる。ただ「革命軍興れば、革命党消さん」と述べて中国同盟会の解散を主張したり、中華民国連合会(後に統一党と改称)を組織したため、やはり孫文とは意見が合わず、むしろ袁世凱(えんせいがい)に期待を寄せるようになる。辛亥革命直後、孫文らの南京臨時政府と袁世凱の北洋軍閥との間で以後どちらが主導権を握るかで激しいつばぜりあいが行われていた。争点の一つが首都をどこに定めるか、という問題であった。双方とも自らの地盤に首都をおきたかったがためである。さきの統一党は袁世凱を擁護して首都を南京ではなく北京に置くことを主張し、そのためか章は高等顧問や東北籌辺使に任命された。しかし1913年4月、宋教仁(そうきょうじん)が袁によって暗殺されると、章炳麟の袁世凱への期待は砕け散り、南方に下って袁世凱打倒の活動に加わった。その後北京に戻ったところを捕らえられ、以後軟禁されること三年間、長女の自殺という悲劇に見舞われながらも最後まで袁世凱に屈しなかった。1916年に護法運動が起きると、翌年章炳麟は北京を脱出して参加し、孫文の軍政府秘書長として広東雲南四川、湖北を転戦した。湖北から上海に帰り政界を去った後は、政体は中央集権よりも連省自治が望ましいとの主張をし、北洋軍閥及び孫文双方の統一に反対した。

1919年パリ講和会議において山東における ドイツ権益が中国に返還されるのではなく日本に移譲されることが梁啓超によって知らされると、日本に抗議する学生運動、すなわち五四運動が起こった。この運動に連動して「サイエンスとデモクラシー」を旗印に儒教を批判したり、また白話(口語)でもって文章表現することを主張する新文化運動が展開されたが、この時章炳麟は「国粋」・「尊孔読経」を唱え、且つ国共合作や「聯俄・聯共・扶助農工」政策に強く反対した。章炳麟は中国共産党に強い忌避感を覚えていたためである。当然ながら五四運動の代表的な論者からは白眼視され、かつて敵対した康有為とともに保守反動と批判された。

[編集] 晩年

しかし1931年満洲事変以後は「抗日救国」を唱えて蒋介石の「安内攘外」政策(中共を先に滅ぼし、その後日本軍を討つ)を批判し、また五四運動の時とは異なり学生運動を擁護した。1934年蘇州に移り住み、翌年には「章氏国学講習会」を起こして講学する一方、雑誌『制言』を発行した。戦火の中に消えようとする国学を守らんがためである。1936年6月14日逝去。享年69。遺体は杭州西湖南屏山の麓に葬られ、現在その近くには章太炎紀念館が建っている。

[編集] 章炳麟の思想1 -種族革命論-

章炳麟に論敵は多いが、とりわけ論戦を交わしたのが康有為たち変法派(あるいは保皇派ともいう)である。章炳麟の革命思想はそれとの論争を通じて明確化してきた側面があるので、相互比較しつつアウトラインを描く。両者の相違点は多岐にわたるが、あえて整理すれば以下の点が挙げられる。

[編集] 争点1:今文と古文

経学を思想基盤としていても、両者の学派は異なるため、自ずと思想も異なってくる。康有為は今文公羊学を、章炳麟は古文経学を奉じるが、両学派の傾向の相違は「公羊学派は六経を「経」(聖典)と見なし、左伝派は「史」(歴史)と見なす」と説明されることが多い。誤解を恐れずに言えば、公羊学の方がやや宗教的な傾向が強く、左伝派は実事求是を志向しているといえる。こうした傾向を最大限展開したのが、康有為の立憲改革論・章炳麟の種族革命論である。

康有為は、当時スタンダードとされた古文経学の経書『春秋左氏伝』が 後漢末・の学者 劉歆によって偽造されたものであって、今文公羊学にこそ孔子の真意が正しく伝えられていると主張した。さらに孔子の真意とは伝統を維持保存するのにあるのではなく、むしろ改革こそが孔子の行わんとしたこと(孔子改制)であるとし、実は六経は孔子が周公旦に仮託して書いたものだ、という。いうまでもなくこの意見はマイナーなものであって、正統な経学とは言い難い。こうした突飛なことが言えるのは、康有為が考証の堅実な積み重ねに拠らずして「微言大義」に依拠しているからである。「微言大義」とは経書の僅かな字句に孔子の隠された真の意図が込められていると考え、それを読みとろうとする解釈法である。非常に解読者の主観が忍び込みやすいと言わねばならない。

康有為によれば孔子の真の意図とは要するに立憲君主制や自由平等な社会の到来であったとされる。端的に言えば、康有為の孔子とは社会制度の改革者と宗教的な予言者を兼ね備えた存在であった。他方清末考証学において、孔子はすでに独尊の存在ではなく、墨子等の他の 諸子百家と同じ地平にまで引き下ろされていた。孔子の真の教えを考証でもって探ろうとした考証学は、皮肉にも孔子の聖人性を減じ、諸子の一人としてしまったのである。そうした清末の思想状況にあって、「孔子改制」を唱えるためには、六経およびそれを著した孔子は神秘性を帯び権威を持った存在であらねばならなかった。かくして康有為は儒教に孔子教(あるいは孔教)という新たな呼称を与えて、儒教を宗教化する運動を推進したのである。

しかし儒教宗教化は単に改革正当化としてのみ企図されたのではない。政治制度や価値観(三綱五常から自由・平等へ)をたとえ変えても、不変的な精神的支柱-たとえば西欧のキリスト教や日本の神道のごときもの-が国家にあらねばならないという意識も背後にはあった。いずれにしても康有為は経学・孔子のイメージを大きく書き換えようとしたと言えよう。

他方、章炳麟は「劉子駿私淑弟子」(子駿は劉歆の字)という印を使用していたことからも知れるように、古文経学の徒である。章がはじめ変法派に与していたことは上に述べたが、その中で次第に公羊学との差異を意識するようになり、その後『左氏伝』の民族主義的部分を殊更に強調し対抗するに至った。章炳麟は六経を聖典ではなく歴史ととらえる。よって孔子や経書に神秘性は全く不要であり、当然孔子教という発想にも猛反対する。そして「微言大義」の解釈恣意性を取り上げ、「孔子改制」は実質「康子改制」にすぎないと非難した。

しかし章炳麟にとって歴史として六経を解することは、決して経書及び孔子への敬意が損なわれることを意味せず、むしろ尊敬の所以に他ならない。また民族に歴史を与えた孔子は間違いなくそれだけで不朽の存在であった。何故なら歴史こそが民族に文明と伝統がいかに作られたかを知らしめるからだという。そして章炳麟はここから、孔子およびその後継者(つまり史家)は漢民族の輝かしい中華文明の事績を書き留めてきたが、その継承者たる漢民族が夷狄たる満洲族の足下にひれ伏してよいはずがない、と考えを押しすすめる。ここにいたって彼は古文経学から文明、すなわち国粋という概念を抽出し、それを光復するために種族革命を唱道するに至るのである。こうした思想は古文経学からのみ導き出されたのではなく、考証学の一学派たる浙東史学、とりわけ章学誠 (しょうがくせい)の「六経皆史」という考え方(儒教の経典は全て歴史として捉えるべきという考え)に影響されたためだと言われている。この浙東史学は民族主義的である点がその特徴の一つであって、章炳麟の種族革命はそれに助長された部分があると思われる。


[編集] 争点2:満州族支配をめぐって

清朝はいうまでもなく、17世紀満洲人が打ち立てた王朝である。その満洲人支配をどう解釈するかも、章炳麟と康有為の間に横たわる大きな差異であった。二人とも経学に拠って語る以上、それは畢竟華夷思想の基準は何かという点に行き着かざるを得ない。公羊学には社会が進むにつれて、中華と夷狄の差異が解消していき、最終的には大一統に至るという理念がある。康有為はそれを漢民族と滿洲族に当てはめ主張した。康有為によれば華夷思想における華と夷の違いとは、文明か野蛮かの違いであるという。したがって今の満洲人は教化・礼楽・言語・服飾いずれも漢民族と変わりないことから同一のものと見なすべきであり、皇帝が満洲人であってもなんら問題ない。さらに満漢相争う事となれば内戦とならざるを得ず、それは中国のためにならない、つまるところ「満漢不分・君民一体」をもってテーゼとしたのである。

これに対し章炳麟は華夷の別は民族にあり、ということを強く主張した。それは『左伝』の「我族類に非ざれば其の心必ず異る」といった民族主義的な箇所を拠り所とするものだった。また文字の獄のごとき、清朝初期の苛政を思うとき、章の心は平静でいられなかったためでもある。康有為は満洲人はすでに漢民族と同化しているというけれども、満洲語を保持し、固有の宗教観も持っている。何よりも辮髪は漢民族も行うが、これは支配受容の証として強制されているだけであって本来漢民族固有のものではない。つまりこれは同化ではなく抑圧であることの証拠に他ならない、よって漢民族は満洲人に復仇せねばならないと章は主張した。一言で言えば「駆除韃虜」をテーゼとすべきと説いたのである。章炳麟の主張は辛亥革命以前にあっては激烈そのものであったため、周囲と摩擦を引き起こさざるを得なかった。彼が名儒兪樾の門下であることはすでに述べたが、章が種族革命の旗幟を鮮明としたことで師弟の間には亀裂が生じた。すなわち兪越に「不孝不忠は人類に非ざるなり」と叱責・破門され、他方章も「謝本師」(『民報』第九号)を書いて師と絶縁するのである。(「謝」はいとまごいする、の意)

[編集] 争点3:改革か革命か

列強に圧迫される現状を好ましくないとする点では同じであっても、満州族支配をめぐって激しく対立する両者の政治方途が同じであるはずはない。康有為は満漢不分を唱えたが、それは満漢両民族ともに列強に圧迫され存亡の危機にさらされており、その意味では運命共同体にほかならず、この危機を乗り切るに当たって、公理に従い政治改革を進めなければならない、と康はいう。公理とはすなわち社会進化の法則であって、具体的には立憲君主制を経て共和制へ進む過程を指し、その順序をこえてアメリカフランスのごとき共和革命をいきなり行ってしまえば多大な流血を余儀なくし、列強につけ込まれてしまう、という主張であった。戊戌変法が失敗に終わり、清朝から刺客を差し向けられても、康有為が革命に傾くことはなかった。それどころか各国政府に働きかけて光緒帝の廃位を阻止し、保皇会を設けて海外から立憲運動を展開するのである。

一方章炳麟は立憲君主制を採用すれば、流血の事態とならないという康有為の主張を一笑に付す。彼はそもそも頼りとすべき光緒帝は惰弱であって頼むに足らないために、康有為の構想する上からの改革は必ずや流血を招かざるを得ず、であるならば革命の方が簡便である、というのである。よしんば立憲君主制が成就しようとも、議会には上下二院を設けるがその上院には満洲人の貴族たちが居座り、真の改革は行えないであろう、とも章は述べる。

さらに康有為の公理に対し、章炳麟も進化と革命を結びつける。すなわち進化とは生存競争であるが、その生存競争により智慧は生じ、その競争の主体は革命であらねばならないとする。そして革命によって共和と民主の世を招来せねばならないと訴えるのである。

ここで注意を要するのは、「革命」ということばが現在我々の使う意味での革命と同義になっている点である。清末まで革命は易姓革命を指していた。つまり現君主に対し異姓の君主が取って代わることで、代わったとしても君主制そのものはあり続けることが前提とされるものだった。しかし清末以後、孫文や章炳麟が使用する革命ということばは政治体制の変更をも視野においた革命であって、意味が現代的に変化しているのである。こうしたことばの変化は、西欧と接触した清末の状況によるものであるが、章炳麟の革命論の背後には単に満洲王朝への失望だけでなく、君主制という政体そのものへの深い絶望があったことは疑いない。

[編集] 章炳麟の思想2 -国学・仏教・西欧-

[編集] 国学の大成

章炳麟は革命家という枠に収まりきらない人物であった。学者・思想家としても一流であって、彼が逮捕拘留された際、「吾れ死してのち、中夏の文化も亦亡びん」と嘆息したのは嘘でも大言壮語でもない。革命事業のただ中に身を置きながらも、考証学を骨格として諸学問を昇華し、国学を大成したのは誰しも認めざるを得ない事実である。すぐ思いつく成果だけでも、注音字母の発明(現在未だ使われているものもある)、「中華民国」という呼称の制定、中国語諸方言を音韻学と結合させ新分野を開いたこと、戴震『孟子字義疏証』の思想的意義の顕彰等枚挙に暇がない。また多くの優秀な後進も育成している。たとえば民国期の北京大学の国学系教授はほとんどその門下(黄侃(こうかん)、 銭玄同(せんげんどう)、朱希祖(しゅきそ)、呉承仕(ごしょうし)等)で占められ、学閥をなしていたことは有名である。章炳麟が国学大師と称されるのも故無きことでは無い。

こうした国学の誕生は、欧米学問の刺激によるものである。清末に欧米から新学問が流入しはじめると、伝統的な学問に波紋を投げかけるようになる。既に述べたように元々清朝考証学はその一部門である諸子学を発展させ孔子や六経の聖性を希薄化する方向に進展してきたが、それが19世紀における外からの刺激によって一層加速した。列強が富国強兵であることの背後に中華とは異なる価値観・学問体系があることが認知され始めたからである。これを受けて伝統学術は再編成を余儀なくされたが、その試みの一つが康有為の儒教の宗教化や附会説であり、章炳麟にあっては国学の大成であった。章は国学によって中華の伝統・歴史を再発見し、民族の誇りを呼び起こそうとしたのである。このことから章炳麟の深い部分で種族革命と国学の大成が通底していたことが分かる。その著作の多くはあまりに難解な文章・思想で綴られていたために、かの碩学島田虔次をして「浅学われわれのごときにはほとんど句読もきれぬ」と言わしめたほどであるが、紙背にはその難解さに反比例するかのような素朴な民族主義的ロマンティシズムが流れていたといえよう。

ところでこの国学は清朝考証学がそのまま拡大し成立したものではない。国学には以下のような淵源があると言われる。

  1. 兪樾から受け継いだ古文経学や小学、諸子学
  2. 黄宗羲(こうそうぎ)や 万斯同(ばんしどう)、全祖望(ぜんそぼう)、章学誠らの浙東史学・礼制の学(『通典』(つてん)・『文献通考』(ぶんけんつこう)の学
  3. 唯識及び法相仏教哲学
  4. 社会進化論・宗教学

上記のような諸学問が密接に接合することで国学は誕生した。特に小学(音韻学、方言学)の分野では『新方言』や『文始』のような画期的な成果を世に残した。また『国故論衡』や『検論』にも多く小学の研究が収められている。この両著については、後に国故整理運動を推し進めた胡適(こせき)が『文心雕龍』(ぶんしんちょうりゅう)や『史通』に比肩する著作として激賞している。

章炳麟の小学研究は音韻を基礎に据えたものであって、文字はまず音があってその後に字形が作られたという。さらにそれまでの伝統的小学と異なるのは、こうした小学の成果を歴史・社会研究に積極的に活用した点である。これは漢字が表意文字であるからこそ可能であった。たとえばある文字が古文や 大篆にはなく、小篆にだけあるとすると、その文字が意味する概念は大篆を使用していた時代には無かった、という風に論ずるのである。章の構想した国学にあって、小学はすでに経学を単に補完するだけの学問ではなく、独自の存在理由を主張する学問であった。すなわち小学は国学の一翼を担った時点で儒教の軛を脱し近代的な言語学へと変貌していったといえよう。ただ章炳麟は甲骨文字の存在を承認せず、発見されたと称するものは全て劉鶚(りゅうがく)の偽造だと断じたため、この点は羅振玉(らしんぎょく)や王国維(おうこくい)らによって訂正されなければならなかった。

さらに章炳麟の業績としては仏教哲学を用いて解釈した諸子学についても触れなければならない。章炳麟は仏教哲学によって荘子思想を解釈した『斉物論釈』や『荘子解故』を著した。これは諸子学分野における代表作といわれる。

[編集] 章炳麟と仏教

仏教は清末になって再びの盛んとなった。改革・革命に投じる憂国の士の間に広く流行したと言ってよい。康有為然り、譚嗣同然り。章炳麟もその一人であったが、彼が特に好んだのは唯識などの徹底した唯心哲学をもった仏教であった。知人の宋恕(そうじょ)や夏曽祐(かそうゆう)らに勧められたらしいが、本格的に取り組んだのは蘇報事件で捕らえられていた期間に『成唯識論』(世親(vasubandhu)著・玄奘三蔵訳)や『瑜伽師地論』(同じく玄奘三蔵訳)といった仏教書を読破した以降であるようだ。章炳麟に拠れば、唯識は実証分析的且つ理論的である点が考証学に通ずるという。唯識に深く傾倒した章炳麟は、上に記したように諸子学研究に活用するなど、彼の学問・政治論全般にその影響は見られる。

論敵康有為が儒教を完全に宗教化しようとしたことは述べたが、章炳麟も中国に宗教が必要だと思う点では同様であった。それは改革・革命の失敗の原因は担い手の道徳腐敗にあると考えていたためである。そしてその道徳の退廃を正すために仏教が宗教として適切だとした。孔子教は論外であった。儒教には富貴利禄をもとめる伝統が染みついており、採用はできないとする。またキリスト教は西欧にはよくても中国には益はないという。今中国にあるキリスト教はヤハウェを信仰するのではなく、実は西欧を信仰するにすぎない偽キリスト教であって取るに足りない(欧化主義批判)、また真のキリスト教もローマ帝国の例を見れば分かるように野蛮な国が採用すれば進化するが、中国のような文明国が信仰すれば退化する、という。なお、しばしば対立した孫文は当時の知識人としてはめずらしくクリスチャンであった。

結局章が推奨したのは仏教であった。種族革命と仏教の取り合わせは一見奇異に映るが、章炳麟は以下の理由で問題ないとする。すなわち仏教(法相)は平等を重んじて奴隷根性を去り、平等を犯すものを廃する戦いを承認する。したがって満洲族と漢民族間、あるいは君臣間の不平等を一掃することに何ら不都合はないという立場なのである。革命道徳の話に戻せば、仏教(華厳)は「普(あまね)く衆生を度(すく)う」、「頭・目・脳髄、一切を衆生のために捨てるを辞さない」という自己犠牲精神を眼目とするために、今の世にふさわしいと章炳麟は言う。そう言うことで彼はこうした仏教の平等性を強調し、後述する社会進化論の影響で当然視されていた「弱肉強食」に真っ向から異を唱えようとしたのである。

こうした章炳麟の仏教への尊崇の念は、『五無論』(『民報』16号)のような 厭世主義的な文章を時に書かせた。すなわち当面は民族主義を掲げるが、やがては「無政府」・「無聚落」・「無人類」・「無衆生」・「無世界」に至らなければならないと言う。つまるところ章は個々人が多種多様であることを許され、かつ自立して他者を侵害しない世界を理想としていた。これは当時一世を風靡していた社会進化論の描く理想郷とは異なる世界といえよう。仏教はこれに対抗する強力な思想的武装だったのである。

[編集] 西欧、日本からの影響

民族ナショナリズムは章炳麟が国学を作り上げる大きな動機となっており、その点で日本の国学と通ずるところがあるのは事実である。しかし章炳麟の国学はひたすら純粋を求めるような排他性を有しない。そこが「漢ごころ」を排して成立した日本国学との大きな差異である。章は全面欧化主義者を批判したが、決して西欧の哲学・学問を否定したりはしていない。試みにその著述を開ければ、至る所にフィヒテカントショーペンハウアーなどに言及している箇所に、さして苦労せずしてぶつかるのである。

日本の思潮で似ているものをあえて挙げるとすれば、三宅雪嶺や志賀重昴らの結社政教社出版の雑誌『 日本人」』が唱えた「国粋保存」であろう。政教社のメンバーは東京英語学校や哲学館出身の者がほとんどで、彼らは国際社会の中における国粋の発揚を主張していた。実際、章炳麟の国粋という概念は政教社から影響を受けたという研究もある。上に挙げた西欧哲学者にしても、その学説を知ったきっかけは日本に滞在し、その翻訳を読んで知識を仕入れた可能性が高い。章炳麟に限らず当時日本にいた中国人は明治日本を経て西欧思想に触れたのであって、西欧思想という光を一方から受けて別の方へ照射するという意味で、明治日本は思想のプリズム的役割を当時果たしていたことになる。

社会進化論も明治日本を経由して章炳麟に影響を与えた学問に他ならない。社会進化論についてはすでに1895年に厳復が『天演論』を紹介し、一大ブームを中国に起こしていたが、如何せんその古風な文体のため読解が困難であった。ともかくそれに触発されて当時社会進化論の知識を求める者が多く、それに眼をつけた出版社が日本語に翻訳されたものを再度漢訳したり、日本人社会学者の著書を翻訳していた。その翻訳を担ったのが在日の中国人たちだったのであり、章炳麟はその一人であった。彼は日本に亡命した際、梁啓超の紹介で岸本能武太(きしもとのぶた)の『社会学』を翻訳し1902年 広智書局から刊行している。この本はハーバート・スペンサーの社会進化論に則って書かれたもので、章炳麟はこの本より種族間生存競争に勝つためには国粋への誇りを胸に宿して同種族が堅く結束し、多種族に対抗しなければならない、という社会進化観を獲得した。もっともそれはストレートに受容されたのではなく、従前の仏教によって修正されている。すなわち社会進化論では、往々にして進化とは悪が漸次無くなり、かわって善なるものが増加する過程だとされる。これに対し、章は「倶分進化論」(『民報』7号)において、進化とは善なるものも、悪なるものも並進して進化するのだという。今の人類は太古のそれより生活は豊かになったが、文明の利器によって多くの同類を殺戮できるではないか、というのである。ではどうすればよいのか、という解決について章炳麟は必ずしも明確ではないけれども、現在の我々から見て、章の進化論理解はあながち荒唐とはいえないものがあるといえよう。

日本の土を三度踏んだ章炳麟は、日本と浅からぬ縁があることは言うまでもない。清朝からの追っ手を避けた先が日本であったし、西欧知識や仏典を獲得したのも日本であった。しかし同時に、清朝の依頼とはいえ度々革命活動を明治政府に妨害され、文部省が『清国留学生取締規則』を公布したために尊い同士陳天華を自殺に追い込まれてもいる。さらに決定的なのは、日本が 対華21ヶ条要求満州事変などいくつもの侵略行為を行ったことであって、これが章炳麟を日本嫌いにしたといえよう。これに対し日本側もその奇矯ぶりをあげつらったり、西欧哲学の理解が一知半解だとする批判を展開し、好意的でない部分があるのは事実である。日本と章炳麟との出会いは不幸であったと言わざるを得ず、その関係には日中両国の間に横たわる近代化の光と陰が凝縮されているのである。

[編集] 章炳麟その人-小説家たちの眼から見た-

章炳麟の風貌については、芥川龍之介が書き残している。彼は「氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顎髭は気の毒な程薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、-上品な縁無しの眼鏡の後に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確かに出来合いの代物じゃない」(『上海游記』)と記しているが、これは 1921年、章炳麟54歳の時に会見したものである。この文につづけて芥川は、章炳麟が袁世凱に捕らえられてなお生きていられたのは、この眼の鋭さのためだと述べており、老いてなお眼に力が宿っていたことが窺える。

章炳麟は奇行が多いことで知られ、瘋子(常軌を逸した人)と諷された。種族革命に心血を注ぎ、変法派に徹底した批判を加えた革命家の熱情が、時として変法派以外にも向けられたためであろう。すなわち孫文を痛罵し、五四運動に反対し、白話運動にも非難を加え、学術方面では甲骨学にも異を唱えた。また日本及び日本の学者にも批判の矛先を向けている。革命事業においてその熱情は反骨精神として高く評価されるが、それ以外に向けられた場合(特に辛亥革命以降)には頑固な保守、あるいはアナクロニズムと評されることが多い。章炳麟評を聞く限り、周囲に緊張を強いて、ある種近寄りがたい雰囲気をもつ人物だったかのようだ。しかし魯迅が回想する章炳麟像はやや趣を異にする。

魯迅こと周樹人は、章炳麟の弟子である。1908年当時、日本に留学していた魯迅は東京小石川にあった章炳麟の自宅にて『説文解字』の講義を受けた。魯迅は同じ浙江出身の章炳麟を尊敬していたようで「先生の業績は革命史に残るものの方が、学術史に残るものよりもきっと大きいであろう」との評を下している。また「先生のにこやかな音容は今もなお眼のあたり見るごとくであるのに、講義していただいた『説文解字』の方は、一句もおぼえていない始末なのである」、「お偉方にはとかくむかっ腹をたてられたが、学生に対しては実に優しく、家族や友人と同様に気軽に談笑された。・・・まじめかと思えば冗談をとばし、にこにこ講義をされる」とも述懐している。(訳文は下記島田本より引用。ただし一部を漢字に改め、かつ省略あり) 周囲の厳しい章炳麟評を当然承知していただろうに、魯迅は「にこやか」、「冗談をとばし」といった形容を挿入しており、ここに章炳麟に対する彼の深い敬愛の念を感じ取れるのではないだろうか。ちなみに章炳麟と魯迅の師弟は同年に亡くなっている。そして上に引いた文章「太炎先生に関する二、三の事」は魯迅が亡くなるわずか十日前に書かれた絶筆であることを付け加えておこう。


[編集] 主要著書

  • 訄書』初刊本、1899年
  • 『訄書』重訂本、1904年
  • 『章氏叢書』1915-1919、24冊
春秋左伝読』敍録一巻、『新方言』十一巻、『荘子解故』一巻、『斉物論釈』一巻、『国故論衡』三巻、『検論』九巻等を収む
  • 『章氏叢書続編』1933、4册
『広論語駢枝』一巻、『菿〈草+到〉漢微言』六巻、『春秋左氏疑義荅問』五巻等を収む。
  • 『章氏叢書三編』1939
『太炎文録続編』七巻、『自定年譜』、『古文尚書拾遺定本』等を収む。


[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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