英国海外航空機空中分解事故
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英国海外航空機空中分解事故(えいこくかいがいこうくうきくうちゅうぶんかいじこ)とは、1966年3月5日に発生した航空事故である。この事故は英国海外航空 (BOAC) の世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解したもので、搭乗員全員が犠牲になる惨事となった。
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[編集] 事故の概要
[編集] 経過
1966年3月5日、英国海外航空911便(ボーイング 707 / 機体記号 G-APFE、バーナード・ドブソン機長)はロンドンを起点として世界一周する航空路線を運行中であった。当日の911便は本来なら前日にホノルルから到着するはずであったが、東京・羽田空港が濃霧のため閉鎖されたため、板付空港(福岡)にダイバートしていた。そのため羽田空港へは昼前に到着していた。午後1時58分に羽田空港から香港に向けて離陸した。羽田空港の滑走路はこの前日、濃霧のなか着陸に失敗して大破・炎上したカナダ太平洋航空のDC-8(カナダ太平洋航空機墜落事故)の残骸が散乱しており約20時間以上遅れの出発だった。
機長は離陸前のタクシングを始める寸前に、提出済みの羽田空港から伊豆大島経由で香港にむかう計器飛行方式 (IFR) によるコースではなく、富士山上空へ直行する有視界飛行方式 (VFR) を要求し受理されていた。離陸完了後、機長から管制塔への無線通信による「ごきげんよう (Good day) 」が当該機からの最後の言葉となった[1]。
午後2時15分ごろ、御殿場市上空付近15,000フィート(およそ5,000 m)を飛行中、乱気流に遭遇して右翼は分断されるなどし空中分解、 静岡県御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下した。衝突時の衝撃で操縦席を含む機首部分が消失した。機首付近は本来燃料タンクがないので炎上しないはずであったが、911便は乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破り機首付近に溜まっていたのが原因であった。
この事故で乗員11名、乗客113名の124名全員が犠牲となった。なお乗客のうち75名がアメリカ人団体客で、ミネソタ州の冷凍機器会社であるサーモキング社の成績優秀な販売業者のボーナスとして日本及び東南アジア旅行に招待された会社重役とその家族であった。この旅行団は京都を訪問した後に悲劇に見舞われたもので、新聞には祇園の料亭で開かれたすき焼きパーティーの際の記念写真が掲載された。
[編集] 事故調査
搭載されていたフライトデータレコーダー (VDR) は回収されたが墜落時の火災によりデータは破壊されていた。しかし、墜落までの光景は富士演習場の自衛隊員をはじめ多くの目撃者がおり、富士スピードウェイで行われていたレースを取材中の平凡パンチのカメラマンらによって、墜落してゆく機体の写真も撮影されていた。また墜落時刻であるが、前述の自衛隊員がたまたま休憩中であり、NHK第一ラジオの「巨人」対「西鉄」のオープン戦の中継を聞いていた。そのため「1回表の巨人の6番打者が打席に入った時に飛行機の空中分解が始まった」と証言したことから、正確な時刻が判明した。
これらの目撃証言に加え、乗客のひとりが持っていた8ミリカメラ(アメリカ・キイストン社製)が回収され、この内容(事故直前の機内から山中湖周辺の光景が撮影されており、画面が一瞬【2コマ】飛んで機内と思われる流れた映像【ひっくり返った客席と引きちぎられたカーペット】が写ったところで終わっていた)[1]が事故原因究明に大きく寄与した。
[編集] 「山岳波」
当日の天候は快晴。それまでも富士山の周囲では、山岳波という特殊な乱気流の発生が知られていた。しかしヘリコプターなどでの頂上部への接近は危険であるが、旅客機による上空通過は問題視されていなかった。ところが後の天気図や気象衛星画像、風洞実験等による分析で、この日中国大陸からの強い季節風のため、従来の予想を大幅に上回る強い山岳波が発生していたことが判明した。
この強い乱気流により、ボーイング707の設計荷重を大幅に超える応力(事故分析では7.5 G 以上、この数値の推定に上記 8 ミリカメラ映像が役立った)が各部にかかった。これにより同機は垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落、主翼全体から漏れ出した燃料がまるで白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落に至った。
なお、山岳波は富士山のような孤立した高い山の風下が特に強くなるとされている。またその影響は標高の5割り増しの高度まで受けるといわれている。そのため当日の富士山の場合、南側かつ高度5800m以下の飛行は特に危険であり、事故機の飛行ルートはまさに該当していたといえる。
[編集] 飛行経路
機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは判然としないが、ホノルルから羽田へのフライトは濃霧(前日のカナダ太平洋航空機事故の一因となった)によるダイバートにより板付飛行場(現在の福岡空港)へ着陸後、当日朝に羽田に再度向かったため、出発が20時間以上遅れていた。そのため、
- 飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかった。
- 乗客にある種日本の象徴である富士山を見せたいと思った(前述のように、アメリカの団体観光客が乗っていた)
等の要因が推定される。
また運航航空会社は、911便の直前に離陸した伊豆大島経由で鹿児島に向かう全日空機の存在が判断に影響したと指摘したが、この機はターボプロップ機であり、巡航高度も巡航速度も911便よりも低かったため、無関係とされた。
事故原因調査の過程で、本事故以前に同じ911便が何度か富士山上空を経由して飛行したことが確認されたが、この時に富士山経由の飛行を行った機長の姓は「ドブソン」であったが、事故機のバーナード・ドブソン機長とは別人であった。このことは柳田邦男の「マッハの恐怖」に触れられており、2月5日の911便の飛行は乗客が撮影した富士山山頂の写真もあったが、この時の飛行は富士山の北側からであった。事故調査委員会はこの事にも注目し検証を行ったが、事故機機長が富士経由の飛行を決断した理由について明らかにすることは出来なかった。そのため、航空会社は事故に対して不可抗力であったと表明した。
なお、現在も富士山上空を飛行する民間航空路は存在するが、必ず富士山北側を計器飛行方式で飛行し、なおかつ充分な高度をとっているため、墜落する危険度はほとんどないとされている。
[編集] そのほか
1966年は日本で旅客機が墜落する事故が5件発生した。すなわち、「全日空羽田沖墜落事故(ボーイング727)」(2月4日)、「 カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故 (DC-8) 」(3月4日)、「日本航空訓練機墜落事故(コンベア880)」(8月26日)、「全日空松山沖墜落事故 (YS-11) 」(11月13日)である。
そのため日本の航空会社は、東京オリンピック後の経済不況と東海道新幹線開業による顧客離れに加え、さらなる営業的ダメージを受けることになり、いずれも惨憺たる営業状態であったという。
[編集] 風刺
当時の1コママンガにこの様な風刺マンガがある。外国人観光客が飛行機から富士山を見てゾッとしている。見ると、富士山には「B.O.A.C.様」と書かれた、葬式用の花がかかっていた。