高木文雄
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高木文雄(たかぎ ふみお 1919年4月6日 - 2006年2月14日)は日本の大蔵官僚、弁護士。大蔵事務次官、日本国有鉄道(国鉄、現JR)総裁等を歴任した。位階勲等は従三位勲一等。
[編集] 来歴・人物
東京市に三井物産社員の高木雄次郎・ハルの子として生まれる。父は京橋区の商家に生まれ育ち「3代続かねば江戸っ子とはいえない」と江戸商人の生まれを誇りにした。母は大阪市のお茶卸商の娘。祖父の藤七は孤児同然の生い立ちで小学校も出ず中井酒店の奉公人から支配人に出世した人物。祖母は日本橋の畳屋の娘。高木家のルーツについてははっきりしないが記録によると1772年頃には江戸に出ていたという。
慶應義塾普通部(旧制)から旧制浦和高等学校を経て、1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年、大蔵省に入る。大阪国税局長時代、1968年1月31日、部落解放同盟中央本部と7項目の密約を結ぶ。その内容は、大阪府同和建設協会(同建協)加盟業者など同和地区出身業者が提出する税務申告書は無審査で通すというものである。これ以降、部落解放同盟傘下企業は国税庁黙認のもとに脱税する特権を得た。いわゆる同和利権問題の起源の一つである。
1974年から1975年まで大蔵事務次官を務める。主計局長を務めずに主税局長から昇格した珍しい事務次官の一人である。田中角栄の後ろ盾により、同じく福田赳夫の後ろ盾にあった時の主計局長で同期の橋口収との次官争いは、角福戦争の代理戦争ともいわれた。1976年、赤字に苦しむ国鉄の総裁に就任し、人員削減などに辣腕を振るったが、運賃値上げによって乗客が減少し逆に赤字が悪化する結果となったため、1983年、任期半ばで辞任した。その後、1984年から1995年まで、横浜市の第三セクターである横浜みなとみらい21の社長を務めた。2006年2月14日死去。享年86。
[編集] 栄典
[編集] 関連
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