プロレス中継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プロレス中継(-ちゅうけい)とは、プロレスの試合の模様をテレビで放送する番組の俗称。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 日プロ~男子3団体・女子1団体時代
1953年、力道山が日本最初のプロレス団体・日本プロレス協会を立ち上げ。その後、正確な年月は不明であるが、日本テレビが同社のスポンサーとなり、金曜20時枠の「三菱・ダイヤモンドアワー(三菱アワー)」にて日本プロレス中継を開始(当初はディズニーアニメとの週代わり放送であった)。
1968年、吉原功がヒロ・マツダと手を組んで旗揚げした団体・国際プロレスの中継をTBSがスタートさせる。
1969年、当時のNETテレビ(現・テレビ朝日)がプロレス番組に参入し、ワールドプロレスリングを開始する。しかし、メーンエベンターのジャイアント馬場、ナンバー3の坂口征二両選手の試合、及び主だったタイトルマッチなどは日本テレビが独占中継としていたため、同団体ナンバー2の地位にいたアントニオ猪木関連の試合を放送するに留まった(即ち、メーンエベントの中継は殆ど不可能だったということになる)。
だが、1971年に猪木が同団体を解雇(日プロは協会として成り立っていたため、実質は除名である)される。猪木という主役を失ったNETテレビは日プロに馬場の試合の中継権を要求し、日プロ側は快諾した。だが日本テレビ側には了承を取っておらず、1972年、NETテレビが日本テレビとの協定を破り、馬場の試合を中継したため日本テレビ関係者が激怒。日本テレビ・日本プロレス中継は打ち切りとなった。
同年10月、日本テレビが後ろ盾となって馬場をトップレスラーとする全日本プロレスが旗揚げされると、同時に日本テレビも全日本プロレス中継(以下・全日中継)を、土曜日20時枠でスタートさせた。一方の猪木も1971年に新日本プロレスを旗揚げしていたものの、こちらはテレビ中継が無いこともあり人材難・資金難で、倒産も時間の問題とされた。新日本側がかつて猪木の試合を中継していたNETテレビに放送再開を求めたところ、既に崩壊寸前であった日プロに残留していた坂口の加入が絶対条件という回答があり、新日本は坂口に「トップの猪木と対等の条件」を出して引き抜く(だが、新日本入団後は対等ではなく、常に猪木の黒子に回らざるを得なかった)。このことで1973年より、新日本プロレスを中継する新番組としてのワールドプロレスリング(以下・WPW)が水曜21時枠でスタートする。
また、女子プロレスも全日本女子プロレス一団体のみであったが、フジテレビにて「全日本女子プロレス中継」が放送された。解説として後援紙デイリースポーツの記者が就き、実況は元日本テレビアナウンサーの志生野温夫が2002年の番組終了まで務めた。
[編集] 1980年代
国際プロは68年の中継開始以降、TBSが中継を請け負っていた。一時は「TBSプロレス」を名乗っていたが、エースのストロング小林がベルトを持ったまま新日本に移籍してしまい経営が厳しくなると、諸事情で打ち切りとなる。1974年からはTBSプロデューサーの紹介により東京12チャンネル(現・テレビ東京)で中継を開始する。この中継からはラッシャー木村、マイティ井上、サンダー杉山らがブレイクするものの、東京12チャンネルは当時ネット局を持っておらず、関東圏以外では放送が難しかったこともあって全国的な人気を得るまでにはいかなかった(その為、全日、新日両団体に参戦することもあった)。そして1981年にレギュラー放送が終了。団体もその後崩壊し、所属選手は両団体に移籍することになった。
70年代より新日本は猪木の異種格闘技戦などで絶大な人気を獲得し、80年代前半にはタイガーマスク(佐山聡)の登場などで全盛期を迎え、金曜20時に移行していたWPWは「伝説の金曜8時」とも言われ、視聴率が20%を超えることも珍しくなかった。この全盛期には、テレビ朝日アナウンサー・古舘伊知郎の「マシンガン実況」とも呼ばれる、フレーズをマシンガンの如く繰り出す過激な実況が絶大な人気を得たことも大きく関係している。当時は生放送であり、番組が終盤の時間帯になると、不可解な裁定で無理に試合を終わらせることも少なくなかった。
一方、全日中継はジャンボ鶴田という新たなエースが誕生したものの、人気の新日本と比べると地味感が否めなかった。80年代中盤には土曜夕方枠に移行となり、WPWより一足先にゴールデンタイムから陥落してしまう。しかし、1986年に大相撲元横綱の輪島大士が入団すると、その話題性から人気が回復し、再び土曜20時のゴールデン枠に返り咲いた。また、この時代は、日本テレビと全日本との結びつきが最も強い時期でもあり、全日本の社長ポストは日本テレビの役員が出向の形で就いていた。
1984年、新日本を離脱した前田日明、佐山聡らが、従来のプロレスよりも格闘色を強くした新プロレス路線を目指して第一次UWFを旗揚げする。国際プロ中継終了後、「世界のプロレス」という、その名の通り世界のプロレス団体の模様を紹介していた番組を放送していたテレビ東京で試合の一部が中継されるものの、レギュラー放送開始には至らず、またネット局の少なさから知名度のアップにも貢献しなかった。第一次UWFはスポンサー企業の倒産や資金難により崩壊。
WPWも1987年、山田邦子をメインパーソナリティとし、バラエティ色を強めた「ギブUPまで待てない!ワールドプロレスリング」にリニューアルするが、古参のファンに受け入れられず視聴率が半分にまで低下してしまう事態に陥る。そして1988年、土曜夕方枠に移行。プロレスのレギュラー放送はゴールデン枠から転落することになった。
80年代までは「プロレス団体にはテレビ中継が不可欠」と言われており、放映権料は団体の収入に於いて、興行収入よりも大きなウエイトを占めていた。前述の通り第一次UWFの崩壊には、レギュラー放送の獲得に失敗したことが一因に挙げられる。余談ではあるが、仲田龍によると当時日本テレビから全日本に支払われていた放映権料は7億円だという。当時の7億円は、大規模会場での興行(日本武道館、両国国技館、田園コロシアムなど)に頼らずとも選手にギャランティが十分支払える額であった。
[編集] 新生UWF・インディーズの台頭と中継の転機
1988年、一度崩壊したUWFが1年のブランクを置いて再び発足(通称・新生UWF)。所属選手達は1年間、新日本に出戻っており、ファンには衝撃的な試合を披露したことで、UWFスタイルの格闘技が注目されていた。そのため、旗揚げ戦のチケットは数十分で完売。月1回しか興行は打たないものの、その興行収入とスポンサー収入で団体の資金は十分賄えており、テレビ中継も無かったが1989年には東京ドームで興行を打つまでになった。このことがプロレス団体にとってテレビの放映権料に頼らずとも団体運営が可能なことを見せ付ける大きな結果となった。そのUWFものちにBS放送チャンネル・WOWOWとの契約を締結させることに成功させたが、中継開始直前に内部の不協和音から団体が崩壊。しかし、3つに分裂した後継団体を含め、これらの事項により「非TV中継」「主要キー局以外との放送契約」という、プロレス界・格闘技界に新たな一ページを刻むことになった(ちなみにWOWOWは、前田の後継団体・リングスと契約し、2002年まで放送を続けたほか、WOWOWもリングスをキラーコンテンツとしてアピールしていたことから、リングス側も世界構想などを形にすることが出来、のちのHERO'Sの礎につながってゆくこととなった)。
90年代になると、世間では既にバブルは終焉へと向かっていたが、プロレス界のバブルはこの時代から隆盛を迎えることとなる。まず全日本から二枚看板の一人・天龍源一郎が引き抜かれ、メガネスーパー社がスポンサーとなって設立されたSWSは、その資金力をバックに、それまでのプロレス界では考えられなかった演出や高額年俸などで話題となった。このSWSの旗揚げ戦はテレビ東京の深夜枠で放送され、木村匡也がディスクジョッキー風に実況を展開するという一風変わった中継を行っており、こちらの方も一部マニアの間で話題となった。これらの演出は当時、「派手」「時代を先取りしすぎ」との批判が多く、またSWS自体も一部マスコミから「金権プロレス」などと大々的に叩かれ、結局内部闘争などもあり呆気なく団体崩壊の憂き目になってしまうこととなった(一方で、最近では「ハッスル」などの演出を先取りしていたとして上記の番組を再評価する人も見受けられる)。
このSWS崩壊後、各団体は旗揚げしては崩壊、旗揚げしては崩壊を繰り返した。インディーズ団体の誕生である。その最大の団体が、1989年に誕生したFMWであった。全日本を退団していた大仁田厚が発足したこの団体は、それまでの日本のプロレス団体では見られなかった電流爆破などのデスマッチを売りにし、エンターテイメントプロレスのハシリとなった。こうしたインディーズ団体は、規模や知名度のマイナーさ(および放送を躊躇うほどの過激さ)などからテレビ中継は殆ど無かったが、一方で今までにない形式が興味を呼び、いわゆる「口コミ」などで確実に固定客を獲得し、中継に頼らない団体経営が当たり前のように行われるようになっていった(ちなみにFMWは川崎球場などの大会場で興行を行うまでに成長し、後述のようにCS中継を獲得するまでになっている)。
一方、メジャー団体の新日本・全日本も、テレビ主導ではない、現場主導の全盛期を迎えていた。既に両団体共に放送枠は深夜に移っており、視聴率や放映権料などの面で全盛期の後塵を拝する状態とはなっていたが、新日本は闘魂三銃士の活躍により東京ドームを始めとする全国のドーム会場で大会を開き、常に5万人以上の観客動員を集めるようになり、全日本は馬場の堅実経営もあってドーム会場での興行は控えたものの、プロレス四天王が空前の人気を獲得しており、年間7回の日本武道館大会は全て超満員札止めとするようになっていた。また通常のプロレス中継は深夜帯であったが、90年代の新日本ドーム大会などはスペシャル番組としてゴールデン枠で放送されており、特に小川直也vs橋本真也の一戦は、「橋本真也負けたら即引退」などの煽り文句を付けるなど、内容こそ賛否を呼ぶものであったが、視聴率25%を獲得するほどであり、数字だけ見れば80年代の黄金時代以来の注目度となった。しかし深夜帯のレギュラー放送は、このころから全日本プロレスの放送時間が1時間から30分に短縮されて「全日本プロレス中継30」となるなど、目に見えて冷遇されてゆくようになる。
そんな中、最大のインディ団体・FMWは大仁田厚の退団によりエンタメ路線への大幅な軌道修正を行ったこともあり、1998年より当時日本で展開を始めたばかりのCS放送チャンネル・ディレクTVと「3年3億円」の放映契約を締結。横浜アリーナなどの大規模会場で興行を行うほか、AV女優までリングに上げてしまうという、まさにショープロレス路線を突き進んだが、ファンの支持を得ることは出来ず、迷走が始まる。迷走は歯止めがかからず、2000年にディレクTVがスカイパーフェクTVと統合すると、放映権料は大幅に下落。団体は倒産し、社長が自殺するという最悪の結末を迎えた。
[編集] ゴールデン枠との決別・インディ団体乱立・CS中継の拡大
2000年、馬場逝去後の全日本で社長に就いていた三沢光晴が、馬場夫人でオーナーの馬場元子との確執から代表取締役社長職を解任されると、三沢以下殆どの選手・社員が全日本を退社し、プロレスリング・ノアを旗揚げ。その際、放映権を持ち全日本の大株主でもあった日本テレビも株を手放し、中継即打ち切りを発表。28年にも及ぶ同番組の終了は、あまりにも突然であった。尚、番組枠は掛布雅之司会のプロレス情報番組・コロッセオに切り替わるものの、翌2001年4月からは新番組・プロレスノア中継(以下・ノア中継)を開始。一方の全日本は資金難・人材難でピンチを迎え、暫くの間地上波中継ゼロの状態へと転落することとなってしまった。
WPWは全国のネット局で放送枠がバラバラであったものの、ドーム大会になるとゴールデン枠で、真夏の祭典・G1 CLIMAX決勝戦は日曜夕方で、それぞれ特番を放送していた。しかし他局が「K-1」や「PRIDE」など他の格闘技番組を次々と放送するようになったことや、大大会でのプロレス中継における度重なる乱闘劇やノーコンテスト判定、および昨今のバラエティ番組によく見られるテイストをゴールデンでの中継に導入したことから、次第にファンや俗に言う「一見さん」がプロレス中継から離れてゆくこととなり、テレビ朝日は2002年5月のドーム大会以降ゴールデン枠での特番から撤退。G1決勝戦特番も2003年を最後に全国ネットから外れてしまった。
2000年代からは、スカパーの普及などで衛星放送での中継が目立つようになる。ノアの中継は日本テレビのCSチャンネルであるG+で、新日本の中継もテレビ朝日のBSチャンネルであるBS朝日などにメイン放送がシフトしていった(但し従来の地上波プロレス中継も時間を短縮させながら継続している)。また、乱立するインディ団体の中継にもCS放送は一役買っており、格闘技専門チャンネル・FIGHTING TV サムライ(サムライTV)を筆頭に、スポーツ系の各チャンネルが中継している。またこのころからプロレス中継のネット配信も行われるようになり、日本テレビのノア中継のホームページから過去の試合を有料で閲覧できるようになった他、新日オフィシャル動画配信サイトなどでも名勝負の動画を見ることが可能となっている。
一方、長年において全日本女子の試合を中継したフジテレビは、90年代後半から番組タイトルを「格闘女神ATHENA」にリニューアルし、エンターテイメント性の高い番組へと移行させていたが、団体の二度の不渡りやテレビコンテンツとして成り立たなくなった状況などから2002年、20年以上の女子プロレス中継の歴史に幕を閉じた(但しフジテレビは放送終了以前からフジテレビ社屋での全女お台場大会の興行も行っており、放送終了後もお台場興行自体はノーTVの状態で行っていた)。
2003年、新日本を退団していた橋本真也が設立したZERO-ONEの中継番組「破壊王プロレスZERO-ONE」がテレビ東京でスタート。月1回のオンエアーであった。だが、こちらは自然消滅した。
2004年、武藤敬司社長体制の新生全日本の地上波レギュラー番組・プロレスLOVEがテレビ東京でスタート。テレビ東京は制作に一切関わらず、GAORAの放送素材を使ってアテレコの形で実況を入れて全日本が番組を作り、テレビ東京に放送してもらう新しいスタイルの番組であった。その為視聴率などは気にする必要が無かったが、番組制作予算が全日本の予算と合わなくなったことで翌2005年に終了。だが2006年に、スペシャル版として深夜枠に復活放送された。
[編集] 現在
ここ最近はネットやPPV方式の普及などで中継形態も変化している。2004年から始まったハッスルは、同じ興行団体が主催するPRIDEと同じくSKY PerfecTV!によるPPV方式を採用し、また公式ホームページでの有料動画配信を行うなど、地上波にウェイトを置かない中継システムを採用している(ちなみにハッスルは一時、「東海地方のみの地上波定期放送」という珍しい方式を採用していた。詳しくはハッスルの項目を参照)。
またGyaOやYahoo!動画などのブロードバンドの普及により、日本テレビとつながりの深いノアを除く多くの団体がブロードバンド配信による中継配信に進出している。これらはネットに接続さえすればいつでも見ることが可能であるので、少々強引ではあるが、考えようによっては、「プロレスがゴールデンに帰ってきた(ゴールデンの時間帯にネット中継を見た場合)」と表現することもできる。
他方、地上波に関してはK-1やPRIDEなどの格闘技番組に押され、プロレス中継は衰退の一途を辿っているといわざるを得ない。現在地上波で中継されているプロレス団体は新日本とノアのみ。それも全くのノンプライムでの放送となっている。それでもキー局と同系列のローカル局の殆どで現在も深夜中継が継続されているのは、プロレス中継にとって唯一の救いといえるのではないだろうか。
[編集] 現在のプロレス中継番組と放映権を持つ放送局
[編集] 日本(男子)
[編集] 新日本プロレス
- テレビ朝日(地上波)「ワールドプロレスリング」
- J SPORTS ESPN(CS)「SXW」
- FIGHTING TV サムライ(CS)
[編集] プロレスリング・ノア
[編集] 全日本プロレス
- GAORA(CS)「ALL JAPAN B-Banquet」
[編集] DRAGON GATE
- テレビ西日本(地上波ローカル)「DRAGON GATE~龍の扉~」
- GAORA「DRAGON GATE~無限大~」
[編集] ZERO1-MAX
- FIGHTING TV サムライ「ZERO-1 MAX 中継」
[編集] DDTプロレスリング
- FIGHTING TV サムライ「DDTドラマティックファンタジア」
[編集] 大日本プロレス
[編集] 大阪プロレス
- スカイ・A SPORTS+(CS)「それいけ!大阪プロレス」
[編集] パンクラス
- スカイ・A SPORTS+「パンクラス中継」
- FIGHTING TV サムライ「パンクラス・ハイブリッドアワー」
[編集] ビッグマウス・ラウド
- J SPORTS ESPN「BML」
[編集] KAIENTAI DOJO
- GAORA「プロレスKING」
[編集] みちのくプロレス
- GAORA「プロレスKING」
[編集] 無我ワールド・プロレスリング
- FIGHTING TV サムライ
[編集] 海外
[編集] WWE
- J SPORTS
[編集] TNA
- FIGHTING TV サムライ
[編集] ROH
- FIGHTING TV サムライ
- 日本テレビ・日テレG+
[編集] AAA
- GAORA「プロレスKING」
[編集] 闘龍門MEXICO
- FIGHTING TV サムライ
[編集] 日本(女子)
[編集] JDスター
- GAORA「プロレスKING」
[編集] OZアカデミー
- GAORA「プロレスKING」
[編集] センダイガールズプロレスリング
- GAORA「プロレスKING」
[編集] NEO女子プロレス
- FIGHTING TV サムライ
[編集] JWP
- FIGHTING TV サムライ
[編集] その他
[編集] ハッスル
- パーフェクトチョイス(PPV)
- FIGHTING TV サムライ
[編集] グローバル・レスリング連盟
- 日本テレビ・日テレG+
[編集] 主なプロレス解説者
- 芳の里
- 遠藤幸吉
- 山田隆(東京スポーツ)
- 田鶴浜弘
- 櫻井康雄(東京スポーツ)
- ジャイアント馬場
- 竹内宏介(週刊ゴング)
- 山本小鉄
- マサ斎藤
- 百田光雄
- 柴田惣一(東京スポーツ)
- 安田拡了
- 山崎一夫
- 木村健悟
- 菊池孝(週刊ゴング)
- ザ・グレート・カブキ
- 高山善廣
- マイティ井上
- 金澤克彦(週刊ゴング)
- 渕正信
- 小佐野景浩(週刊ゴング)