日本の貨車操車場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の貨車操車場の項目においては、かつて日本の鉄道貨物輸送の中枢を担った操車場(ヤード 英classification yard)について、また操車場のその後の経過について記載する。車両基地の一般的な呼称である「操車場」については車両基地参照のこと。以下の記述では、「ヤード(英yard)」は「操車場」と同意義、また操車場とは「貨車操車場」を示すものとする。加えて、過去には数多くの鉄道会社が貨物輸送を行っていたが、いずれも国鉄に比べると極めて小規模なので、この項目でも国鉄の貨車操車場を中心に扱う。
目次 |
[編集] 操車場建設の歴史的経緯
1872年に開業した日本の鉄道では、創業して間もない頃から貨物輸送を行っており、やがて鉄道網が全国に拡大するにつれ鉄道輸送は旅客・貨物いずれにしても陸上輸送の主流となった。
貨物輸送が増大したのは、特に1906年の鉄道国有化以降である。貨物の増加に対応するため、明治末期から大正期にかけて、それまで駅構内の付属施設(留置線)にて行われていた貨車の入換作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになった。これが操車場建設の第一期である。稲沢操車場や吹田操車場、田端操車場、品川操車場がこの時期に建設されている。品川操車場は後に客車操車場(後の品川客車区、東京機関区、田町電車区)に転向し、貨物取り扱い業務は品鶴線上に新設された新鶴見操車場に移転した。
その後二度にわたって、集中的に全国で操車場が建設されていく。
操車場建設の第二期は、日中戦争勃発に伴い、軍需を中心とした貨物輸送が増加した1930~1940年代である。香椎操車場や新潟操車場などが新たに建設された。
そして第三期は戦後の復興期で、やはり経済の復興にあわせて増大する貨物需要に対応するために建設された。富山操車場などが該当する。
1970年代まではこうしたヤード経由式の貨物輸送が中心であった。戦後の高度経済成長の中で、鉄道の貨物輸送は1970年に輸送量のピークを迎える。
なお、ヤードといっても「ハンプヤード」、「平面ヤード」、「重力ヤード」の3種類があるが、日本の場合は大半が「平面ヤード」で、一般的に知られていたハンプヤード方式をとったのは、郡山、大宮、田端、武蔵野、新鶴見、塩浜、静岡、高崎、富山、稲沢、吹田、門司、鳥栖といった少数の(貨物取扱量が特に多い)操車場だけであり、重力ヤードにいたっては一個もなかった。重力ヤードは操車能力こそハンプヤードに劣らぬものの、ヤードが全体的に坂に設置されている必要があって建設に適した場所がなかったことが挙げられる。全世界的に見ても重力ヤードは圧倒的に少ない。
[編集] ヤード経由式輸送の衰退
1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションという社会的変化は進んでいた。その結果、旅客輸送・貨物輸送いずれにおいても自動車が台頭し、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していった。自動車に比べ小回りが利かないこと、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不正確であることがシェア低下の要因だった。
ヤード経由式輸送は、貨車の取扱量が多くてこそはじめて威力を発揮し、輸送を効率化させる。しかし1970年以降、取扱量は大きく減少していた。さらに1959年からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、1969年には東海道本線・山陽本線でコンテナ専用の特急貨物列車「フレートライナー」が登場したことで、それまでは鉱山~工場、工場~港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきた。
しかし国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進した。1974年に開業した武蔵野操車場のようにコンピューター(yard automatic control system、略称YACSと呼ばれる)や、リターダー(自動減速器。線路に設置される)を用いて省力化・高速化が図られたところもあった。近代化前の操車場では、貨車の突放や減速などは作業員が走る貨車の横につかまって調節するという危険なものだった(実際大勢の死者が過去に発生していた)ので、これは極めて画期的なことだった。他に、コンピューター化された操車場としては、郡山、富山、新南陽、北上、塩浜、高崎が挙げられる。
しかし国鉄の貨物輸送が減少し、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまった。ゴーサントオや1980年10月1日国鉄ダイヤ改正では大幅に貨物列車が削減された。数々の効率化・合理化も空しく、1984年2月1日、ヤード経由式輸送は全廃された。その後全国の操車場の大半は廃止され、遊休地化するものも多かった。あるいは大幅に縮小されるも存続して貨物駅として再生した旧操車場もあった。さらには操車場が縮小され、別名を名乗る操車場もあるが、かつてのような有蓋貨車の入換作業は見られない。
以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送がほとんどとなった。
[編集] 主な国鉄の操車場
国鉄社内では、操車場を含む貨車の入換作業を行う駅(貨物駅も含める)を組成駅と総称しており、1980年10月1日時点で150を数えた。組成駅は社内規則により、本社指定組成駅、地区指定組成駅(支社による指定)、局指定組成駅(鉄道管理局による指定)の3つに重要度別に分けられていた。
その中で正式名称として「操車場」と呼ばれるのは、貨物列車の組成のみを行う独立した駅のことで、さらに基幹操車場と地区操車場に分けられていた。まれに操車場が貨物取扱を始める場合があり、その時は「操駅」(操車場駅の略)に格上げされた。現在でも田端操駅と新小岩操駅が稼動している。
国鉄時代末期に稼動していた操車場は以下の通り。なお、ここでは操車場を国鉄社内規則にて「基幹操車場」または「地区操車場」と指定されたものに限定する。
- 岩見沢操車場:石狩炭田の石炭輸送の牙城だった。1980年10月1日に廃止。
- 苫小牧操車場:室蘭本線と千歳線の分岐点にあった。現JR貨物苫小牧駅。
- 東室蘭操車場:石炭などの鉱産物、鉄鋼などの工業製品輸送の拠点とされた。石炭・製鉄業と共に衰退。現JR貨物東室蘭駅。
- 五稜郭操車場:北海道の貨物輸送の玄関口として機能した。現在JR貨物五稜郭機関区(五稜郭の貨物駅は有川埠頭に存在する)。
- 青森操車場:東北三大操車場の一つ。東北本線と奥羽本線の結節点であり、対北海道輸送の拠点であった。現青森信号場。
- 秋田操車場:奥羽本線と羽越本線の結節点。秋田操駅へ格上げの後、現秋田貨物駅。
- 北上操車場:東北本線北部の貨物輸送の拠点であり、作業がコンピューター化されていたことで知られていた。現在貨物駅の建設が計画中。
- 長町操車場:東北三大操車場の一つ。東北本線と宮城野駅経由の貨物線の分岐点にあった。長町駅構内扱い。跡地は「長町新都心」として再開発中。
- 新潟操車場:新潟港といくつもの貨物支線で結ばれ、新潟市の貨物取り扱いを担っていた。現新潟貨物ターミナル駅。
- 長岡操車場:信越本線と上越線の分岐点にあった。現南長岡駅。
- 富山操車場:北陸本線とその支線における貨物輸送の一大拠点。1968年、日本で初めてコンピューターが導入された操車場。現富山貨物駅。
- 郡山操車場:東北本線と磐越東線・磐越西線の結節点。東北三大操車場の一つ。現郡山貨物ターミナル駅。
- 高崎操車場:上越線・高崎線・信越本線・八高線・両毛線の5線の結節点。JR貨物の施設として現存。
- 大宮操車場:東北本線と上越線の結節点で、東京における貨物輸送の北の玄関口として機能した。JR貨物の施設として現存。現さいたま新都心。
- 田端操車場:田端運転所に隣接。大宮、武蔵野の各操車場開業で役目を縮小していた。隅田川駅と貨物線で連絡。現田端操駅。
- 武蔵野操車場:付近の貨車入換を行う駅を統合する形で1974年に開業。国内で最も遅くできた操車場。跡地は住宅・商業施設として再開発の予定。
- 新小岩操車場:千葉県方面の貨物輸送の拠点。新金線という貨物線で常磐線と接続した。現新小岩操駅。
- 新鶴見操車場:日本三大操車場の一つ。大宮操車場や汐留駅と結ばれていた。北の大宮に対して南の牙城。跡地は新鶴見信号場として残る以外は空き地のまま。
- 塩浜操車場:川崎市の工業地帯における貨物取り扱いを担った。1984年2月1日後も操車場(操駅)を名乗った。現川崎貨物駅。
- 静岡操車場:東海道本線静岡付近の貨物の取り扱い。現静岡貨物駅。
- 稲沢操車場:名古屋付近の貨物取扱。日本三大操車場の一つ。稲沢駅構内扱い。貨物線で笹島駅と結ばれていた。
- 米原操車場:東海道本線と北陸本線の結節点。跡地は米原貨物ターミナル駅として再開発予定。
- 梅小路操車場:梅小路機関区に隣接。東海道本線と山陰本線、2線の連絡線の3本の線の中に存在した。現梅小路駅。
- 吹田操車場:日本三大操車場の一つ。東海道本線上にあり、梅田貨物駅とリンク。取扱貨物の多さ故「東洋最大」と称えられた。現吹田信号場。
- 竜華操車場:関西本線と城東貨物線・阪和貨物短絡線の結節点にあり、百済駅とつながっていた。跡地は竜華副都心建設予定地。
- 和歌山操車場:阪和線と紀勢本線の結節点。
- 亀山操車場:関西本線と紀勢本線の交点。
- 東灘操車場:東海道本線上にあり、神戸臨港線により神戸港駅とつながっていた。現東灘信号場。
- 姫路操車場:姫路駅東側にあった。姫路駅構内扱い。貨物駅が建設されたが、姫路貨物駅への移転に伴い現在再開発中。
- 岡山操車場:岡山駅西方にあり、山陽本線・伯備線・宇野線の貨物を取り扱った。現西岡山駅。
- 広島操車場:広島駅東側にあった。現広島貨物ターミナル駅。同駅開業後廃止された東広島駅跡地は、広島東洋カープの新本拠地となる球場が建設予定。
- 新南陽操車場:旧称「徳山操車場」。山口県南部の貨物取扱の中心。現新南陽駅貨物ホーム。
- 幡生操車場:山陽本線と山陰本線の結節点。幡生駅構内扱い。大幅に縮小されたが現存する。関門トンネルを越える貨物列車の機関車交換地点。
- 門司操車場:九州の貨物輸送の玄関口。現北九州貨物ターミナル駅。
- 直方操車場:筑豊炭田の石炭輸送の牙城。石炭業と共に衰退、のち廃止。
- 香椎操車場:鹿児島本線と博多港の貨物支線の分岐点。跡地の一部が千早操車場となったほかは副都心として再開発予定。
- 鳥栖操車場:鹿児島本線と長崎本線の分岐点。かつて藤井フミヤが勤めていた。跡地に久留米駅の貨物取り扱い施設が移転し、現鳥栖貨物ターミナル駅。
上記のうち、五稜郭、青森、秋田、長町、郡山、高崎、大宮、武蔵野、新鶴見、静岡、新潟、長岡、富山、稲沢、梅小路、吹田、竜華、姫路、岡山、広島、門司、香椎、鳥栖、の操車場と、加えて、直江津駅、熊本駅、高松駅、いわき貨物駅(廃駅、現在の内郷駅付近)の計27駅が重要視された本社指定駅だった。
組成駅の数は以上の操車場の数よりはるかに多かった。
他、炭田地帯や鉱山付近には大小多くのヤードが存在していた(岩見沢操車場や東折尾貨物駅もそれらの一つ)。石灰石輸送で知られていたヤードとして美祢ヤードが挙げられる。
計画されたものの、建設されずに終わったもので大井操車場がある。1960年代に東京外環状線計画が発動された時に、当時の大井埋立地にコンテナ対応の貨物駅(大井駅)と併設される形で建設が予定されていた大規模操車場である。しかし、鉄道貨物輸送の衰退に伴い、操車場の建設は取りやめとなった。その建設用地には現在、東京貨物ターミナル駅がある。
また、この項目では国鉄を中心に取り扱っているが、私鉄でも貨物ヤードを保有する会社は存在した。東武鉄道の業平橋駅付近の広大な空き地(一部は新東京タワー建設に用いられる)も、元々貨物ヤードだった名残である。
[編集] 参考文献
- 祖田圭介「国鉄時代の貨車操車場をめぐって」1~3
- 交友社『鉄道ファン』2006年12月号、2007年1月号、3月号 No.548、549、551
[編集] 関連項目
- 操車場:ヤードの種類について記載されている。
- ゴーサントオ(1978年10月2日国鉄ダイヤ改正):国鉄始まって以来の、貨物列車の大幅削減。
- 1980年10月1日国鉄ダイヤ改正:さらなる貨物列車の削減。岩見沢操車場の廃止。
- 1982年11月15日国鉄ダイヤ改正:貨物面でも合理化を推進。ヤード式前提輸送では最後の改正。
- 1984年2月1日国鉄ダイヤ改正:ヤード経由式輸送の全廃。
- 武蔵野線
- 東京外環状線
- 山手貨物線
- 東海道貨物線
- 品鶴線
- 梅田貨物線
- 物流
- 貨物
- 貨物列車
- 荷物列車