関根潤三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - )は、埼玉県出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。左投左打。ポジションは投手・外野手。現役時代は近鉄、巨人で活躍し、引退後は広島のコーチ。その後大洋、ヤクルトの監督を歴任した。後述のように、現役時代の背番号は一貫して19。2003年、野球殿堂入り。現在はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者。戸籍上の生年月日は1927年3月15日だが、実際の生年月日は、1926年12月25日 らしい。(詳しくはエピソード)
目次 |
[編集] 来歴・人物
旧制日大三中時代に藤田省三監督に指導を受ける。その後、法政大学に進み、4年間にわたりエース(4年春に主将)として活躍、低迷していたチームの屋台骨を支え、当時最強の早慶に対抗した。3年秋(1948年)にチームを戦後初のリーグ優勝に導き、翌年秋には戦後初・史上2人目の通算40勝を記録した。大学通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げきった。エースの連投が当たり前だった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、シーズン投球回数133回2/3(1949年秋季)、勝敗通算71(若林忠志と同数)の記録は、今後永遠に破られることはないだろう。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投した。
当初プロ入りを望んでいたわけではなかったが、恩師の藤田省三が初代近鉄の監督に就任したこともあって、1950年近鉄に入団。万年最下位の近鉄でエースとして活躍するが1957年、自分の意思で打者転向。中軸打者としてシュアな打棒を振るった。1965年、川上哲治監督の巨人に移籍し同年引退。若い選手からは「お父さん」と呼ばれていたという(川上監督以外コーチも含めて全員年下だったため)。
投手・野手両方で実績を残した数少ない選手であり、投手・野手の両方でオールスターゲームに出場した唯一の選手である。(投手としてファン投票で1回、監督推薦で1回。野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場)また、2リーグ分裂後の記録としては、50勝、1000本安打を達成した唯一の選手である。(1リーグ時代の記録を含めれば、中日などで活躍した西沢道夫がいる。)
引退後の1966年、フジテレビ・ニッポン放送の野球解説者に就任。1970年、日大三中時代からの親友・根本陸夫監督と巨人で1年間だけプレーした広岡達朗の要請で広島の打撃コーチ(名目上はヘッド格)に就任(同時に広岡は守備コーチに就任。広岡は後に荒川博の後を継いでヤクルトの監督となる)、山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て後の広島黄金時代の礎を築いた。1975年親交のあった長嶋茂雄監督に誘われ(長嶋現役引退直後の初采配年)、巨人のヘッドコーチに就任するが最下位の責任を取って翌1976年は2軍監督に降格、同年限りで退団。
1982年、長嶋監督招聘を働きかけていた大洋に「長嶋監督が実現したら交代する」との条件で監督に就任。「長嶋監督」は実現することなく、1984年に辞任。その後フジテレビ・ニッポン放送解説者を務めた後、1987年にヤクルトの監督として招かれる。1989年限りで辞任。成績面では優勝はおろかAクラスにも恵まれなかったが、若手を積極的に実戦に投入。大洋では投手の遠藤一彦・野手の高木豊・屋鋪要・阪神より移籍した加藤博一のいわゆる「スーパーカートリオ」を育て、次の近藤貞雄監督にバトンタッチ。ヤクルトでは池山隆寛・広沢克己・栗山英樹・荒井幸雄・内藤尚行らを起用し、次の野村克也監督時代までのレギュラー選手として育てあげた。これらの実績から人材育成の名手として評価される。
1990年にフジテレビ・ニッポン放送野球解説者に復帰。解説者としては、結果論や当たり前のことしか言わない点を揶揄されることが多い。この点については、解説者を始めた時に詳細な技術論を展開したところ、兄から「解説がわかりづらい。専門的なことを長々と喋られても、視聴者に伝わりづらい」という指摘を受けたため、わかりやすくシンプルな解説を心がけるようにした、と著書で述べている。実況アナウンサーとの間(ま)を大事にしており、アナウンサーの実況をさえぎってまでしゃべり続けることはほとんどない。一見おだやかなイメージがあるが、話す内容は「ダメですね」「どうしようもない」など、かなり手厳しいコメントを連発する。
[編集] 打撃成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 近鉄 | 19 | 63 | 129 | 15 | 32 | 2 | 0 | 4 | 21 | 1 | .248 |
1951年 | 近鉄 | 19 | 52 | 89 | 4 | 23 | 3 | 1 | 0 | 11 | 0 | .258 |
1952年 | 近鉄 | 19 | 69 | 99 | 7 | 31 | 5 | 0 | 1 | 16 | 0 | .313 |
1953年 | 近鉄 | 19 | 42 | 85 | 10 | 27 | 3 | 3 | 0 | 7 | 0 | .318 |
1954年 | 近鉄 | 19 | 56 | 97 | 10 | 25 | 2 | 0 | 1 | 10 | 0 | .258 |
1955年 | 近鉄 | 19 | 54 | 91 | 11 | 25 | 1 | 1 | 0 | 9 | 0 | .275 |
1956年 | 近鉄 | 19 | 59 | 82 | 11 | 22 | 1 | 0 | 1 | 15 | 0 | .268 |
1957年 | 近鉄 | 19 | 125 | 429 | 47 | 122 | 16 | 2 | 6 | 39 | 8 | .284(9) |
1958年 | 近鉄 | 19 | 59 | 213 | 21 | 54 | 10 | 1 | 1 | 17 | 1 | .254 |
1959年 | 近鉄 | 19 | 116 | 412 | 49 | 120 | 17 | 9 | 5 | 38 | 4 | .291(9) |
1960年 | 近鉄 | 19 | 112 | 390 | 44 | 110 | 16 | 1 | 2 | 32 | 0 | .282(10) |
1961年 | 近鉄 | 19 | 128 | 435 | 51 | 123 | 18 | 1 | 9 | 49 | 4 | .283(15) |
1962年 | 近鉄 | 19 | 126 | 465 | 66 | 144 | 18 | 4 | 9 | 49 | 4 | .310(8) |
1963年 | 近鉄 | 19 | 144 | 506 | 73 | 150 | 26 | 1 | 12 | 66 | 6 | .296(6) |
1964年 | 近鉄 | 19 | 122 | 357 | 28 | 81 | 10 | 0 | 5 | 25 | 1 | .227 |
1965年 | 巨人 | 19 | 90 | 199 | 16 | 48 | 6 | 1 | 3 | 20 | 1 | .241 |
通算 | 1417 | 4078 | 463 | 1137 | 154 | 25 | 59 | 424 | 30 | .279 |
[編集] 投手成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 与四球 | 奪三振 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 近鉄 | 19 | 26 | 8 | 0 | 1 | 4 | 12 | - | 148 | 185 | 53 | 69 | 5.47(25) |
1951年 | 近鉄 | 19 | 39 | 10 | 2 | 1 | 7 | 11 | - | 189 | 189 | 55 | 97 | 3.43(20) |
1952年 | 近鉄 | 19 | 39 | 7 | 1 | 1 | 5 | 16 | - | 173.2 | 170 | 52 | 78 | 3.52(12) |
1953年 | 近鉄 | 19 | 35 | 19 | 1 | 1 | 10 | 15 | - | 219 | 209 | 58 | 106 | 3.16(13) |
1954年 | 近鉄 | 19 | 35 | 19 | 3 | 2 | 16 | 12 | - | 232 | 174 | 57 | 118 | 2.44(10) |
1955年 | 近鉄 | 19 | 40 | 14 | 3 | 2 | 14 | 16 | - | 226 | 228 | 54 | 106 | 3.54(18) |
1956年 | 近鉄 | 19 | 28 | 10 | 2 | 3 | 9 | 11 | - | 152.1 | 132 | 29 | 66 | 2.94 |
1957年 | 近鉄 | 19 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | - | 5.1 | 6 | 2 | 5 | 4.50 |
通算 | 244 | 87 | 12 | 11 | 65 | 94 | - | 1345.1 | 1293 | 360 | 645 | 3.42 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982年 | 昭和57年 | 5位 | 130 | 53 | 65 | 12 | .449 | 125 | .250 | 3.92 | 55歳 | 大洋 |
1983年 | 昭和58年 | 3位 | 130 | 61 | 61 | 8 | .500 | 137 | .272 | 4.52 | 56歳 | |
1984年 | 昭和59年 | 6位 | 130 | 46 | 77 | 7 | .374 | 100 | .263 | 4.55 | 57歳 | |
1987年 | 昭和62年 | 4位 | 130 | 58 | 64 | 8 | .475 | 159 | .260 | 4.51 | 60歳 | ヤクルト |
1988年 | 昭和63年 | 5位 | 130 | 58 | 69 | 3 | .457 | 147 | .246 | 3.79 | 61歳 | |
1989年 | 平成元年 | 4位 | 130 | 55 | 72 | 3 | .433 | 140 | .254 | 3.97 | 62歳 |
- ※1982年から1996年までは130試合制
- 監督通算成績 780試合 331勝408敗41分 勝率.448
[編集] エピソード
- 生年月日は1927(昭和2)年3月15日になっているが、関根によると、親の話では実際は1926(大正15)年12月25日で、父親が戸籍に登録に役所に言ったが、その日、大正天皇が崩御したため役所が休みで登録できず、その後戸籍に登録していないのに気づき、1927年3月15日に戸籍に登録したので生年月日は1927年3月15日になっているのが真相ということだ。(2007年3月13日ニッポン放送ショウアップナイターネクストより)
- テレビなどで自身を紹介された時は必ず「よろしくどうぞ」と挨拶する事は有名。
- 大洋・ヤクルト監督時代の老成した印象から「笑顔があふれる穏やかな人物」と思われがちであるが、実際は言葉より手が先に出るという熱血漢である。旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の"戦友"根本陸夫が、『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの末恐ろしさは”インテリヤクザ”だよ』と生前言い残した逸話を持つ。広岡達朗も『関根さんは怒らせてはいけない』と釘を刺していた。
- 1980年代以降に書かれた野球漫画の中では温厚な人物として書かれていることが多く、大久保怒鳴りつけ(後述)のあと、該当漫画に対して抗議文を送るなどした者もいるようだ。
- 広島コーチ時代、門限を破った衣笠祥雄を寮の玄関で待ち伏せていた逸話は有名。説教を覚悟した衣笠に対し、笑顔で「さあ、素振りをやろうか」とだけ言ってバットを渡し、夜中にも関わらず素振りする衣笠をつきっきりで見守った。
- 2004年の球界再編騒動の際、CSの「プロ野球ニュース」で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言した元巨人の大久保博元に対して「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と噛み付いた。この時関根は近鉄のOB会長をしていた。
- ヤクルト監督時代、いずれの年も優勝したチームに負け越す一方で2位のチームには勝ち越していたことから「優勝お助けマン」と揶揄された。
- ヤクルト監督時代、投手交代の時に笑顔で歩み寄ったが交代する投手の足を思い切り踏みつけたことがあった。主な被害者は内藤尚行、川崎憲次郎。
- ヤクルト監督時代、1988年ごろのエピソード。交代を告げられた広澤克実は「若松さんは代打の切り札だから」と納得してベンチに引き上げたが打席に入ったのは長嶋一茂だった。広沢は「なんでオレの代打が一茂なんだよ」とどうにも納得がいかなかった。代打・一茂の理由は関根監督本人が長嶋茂雄の大ファンだから。
- 妻との間に一男一女があったが、息子はポニーキャニオンに勤務。1980年代後半、当時ポニキャンと契約していたとんねるず・石橋貴明がテレビ番組内で関根の愛息とはたびたび仕事で顔をあわせる旨発言した。
- テレビ番組「タモリのボキャブラ天国」で同じ苗字の関根勤と共演したことがある。(作品名は「あんたも関根~」)VTRの内容は、本屋でエロ本を買おうとして手を伸ばした際に2人同時に同じ本を手に取ってしまい、人のよい2人がどうぞどうぞとお互いに譲り合うシーンで終わるというほのぼのとした内容だった。
- 2006年7月5日、すぽると!に出演した際、ソフトバンクの王貞治監督休養のニュースについての会話の中で、「これを機会に(選手には)頑張ってもらいたいですね。それが一番の供養」と発言。その後すぐに「供養と言いますか…薬です!」と慌てて言い直していた。
- 戦後60有余年を経た現在、球界の中でも数少なくなった戦前派とあって「太平洋戦争と野球」を語る機会が増えた。2005年にはNHK衛星第2テレビで放送された平日の帯番組「あの日 昭和20年の記憶」に出演し、東京大空襲直後に渋谷区周辺で多数の焼死体を目撃したことを語った。また翌年10月3日にNHK総合に放送された「その時歴史が動いた・戦火をこえた青春の白球~学徒出陣前 最後の早慶戦~」にゲスト出演。自らの学生時代を語り、バットを持って歩いたところ警察官に呼び止められ「宿敵・米国産の野球をやるとは何事か!!」と怒鳴られたことを明かした。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 著書
- 野球ができてありがとう-関根潤三野球放談(1998.10、小学館文庫)
- 若いヤツの育て方(1990.10、日本実業出版社)
- 一勝二敗の勝者論(1990.08、佼成出版社)
[編集] 関連項目
|
- ※カッコ内は監督在任期間。
カテゴリ: 日本の野球選手 | 法政大学野球部の選手 | 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | 野球監督 | 野球解説者 | 野球殿堂 | 横浜ベイスターズ | 東京ヤクルトスワローズ | 埼玉県出身の人物 | 1927年生