尾花高夫
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尾花 高夫(おばな たかお、 1957年8月7日 - )は、プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。弱小期のヤクルトで14年間活躍し、引退後はロッテ、ヤクルト、ダイエー・ソフトバンクのコーチをつとめた。現・読売ジャイアンツ投手総合コーチ。和歌山県伊都郡九度山町出身。
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[編集] 来歴・人物
PL学園から新日鉄堺を経て、1977年にドラフト4位でヤクルトに入団。先発としての起用が主だったが、制球力に優れていたことから、リリーフとして活躍することも多かった。1978年の日本シリーズでは日本一のメンバーとしてベンチ入りを果たすも出場なし。1982年から1985年まで4年連続2桁勝利。1982年8月4日の対阪神戦と8月8日の対広島戦では、2試合連続で延長戦完封勝利(両試合とも延長10回、スコアは1-0)の珍しい記録を達成した。1988年にヤクルトのエースとして巨人との開幕戦に先発し、東京ドームでのプロ野球公式戦勝利投手第一号となった(その試合のセーブは伊東昭光、敗戦投手は尾花の高校の10年後輩桑田真澄)。1989年年にはオールスターゲーム・ファン投票選出(セリーグ投手部門)、1991年に現役を引退。現役時代の背番号は一貫して32。
フジテレビの野球解説者(1992年~1994年)を務めたのち、1995年に入団当時の監督だった広岡達朗が当時GMをしていたロッテの投手コーチに就任。ロッテ時代は黒木知宏を指導した。広岡GMが辞任後1997年には古巣・ヤクルトに招かれ、野村克也監督の片腕として投手コーチとなり1997年のリーグ優勝・日本一に貢献した。野村監督の勇退に伴い1999年、ダイエーの投手コーチに就任。杉内俊哉、和田毅・新垣渚などの投手陣をそれぞれ見事に指導し、チームを5度のシーズン1位、2度の日本一に導いた。
2005年シーズン終了後、「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」と、ホークス退団を発表。王貞治監督は、再就職先が決まっていないと聞き、自宅のある横浜から通えるようにと巨人に直々に打診[1]。2006年より原辰徳監督のもとで巨人コーチ就任が決まった。
巨人投手総合コーチとして2005年秋季キャンプより巨人投手陣を指導しており、早速2005年チーム防御率4点台と不振だった巨人投手陣を、2006年は見事3点台に引き上る事に成功した。投手陣建て直しはもとより、原監督がメジャーリーグに倣い中4日継投制を提唱しているため、グレッグ・マダックス、ジョン・スモルツ、トム・グラビンなどを見出し、デリケートな中4日での調整を長年サポートしたレオ・マゾーニー(アトランタ・ブレーブス投手コーチ)のような役割が期待されている。
[編集] 逸話
- 一度も押し出し四球を記録しておらず、2203イニング連続押し出し四球無しはプロ野球記録である。この間、満塁で打者と対戦した回数は163回。また、毎イニング間にベンチ前でウォーミングアップすることなく登板出来るほど、肩の仕上がるのが早かった。
- 1980年暮れのFNS歌謡祭(フジテレビ)で新人賞候補でノミネートされていた岩崎良美の応援として、まだ若かりし尾花が(ステージに上る事は無かったが)会場観客席にいた[要出典]。
- 高校・社会人と線が細く球威不足で無名の投手だった。しかし練習熱心な姿が、他の選手を見に行った片岡宏雄スカウトの目に留まり、広岡監督好みの選手と考え指名したところ、広岡に気に入られてすぐに使われ、順調に主力投手に成長していった。
- 人格者としても知られ、犯罪を犯した人の社会復帰や更生を手助けする保護司でもある。
[編集] 年度別成績
年度 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 完投 | 完封 | 奪三振 | 投球回 | 防御率 | 所属 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 13(1/3) | 4.15 | ヤクルト |
1979年 | 36 | 4 | 9 | 0 | 2 | 1 | 75 | 137 | 4.93 | |
1980年 | 34 | 8 | 13 | 1 | 10 | 0 | 123 | 209(1/3) | 3.01 | |
1981年 | 30 | 6 | 6 | 0 | 4 | 1 | 84 | 125(2/3) | 4.21 | |
1982年 | 42 | 12 | 16 | 4 | 14 | 2 | 154 | 246 | 2.60 | |
1983年 | 41 | 11 | 10 | 6 | 4 | 0 | 88 | 165 | 4.69 | |
1984年 | 45 | 14 | 8 | 7 | 8 | 1 | 106 | 175 | 3.45 | |
1985年 | 40 | 11 | 8 | 7 | 10 | 1 | 107 | 205 | 4.39 | |
1986年 | 34 | 9 | 17 | 1 | 9 | 1 | 86 | 201(1/3) | 4.25 | |
1987年 | 33 | 11 | 15 | 3 | 9 | 2 | 145 | 206(1/3) | 3.96 | |
1988年 | 31 | 9 | 16 | 0 | 10 | 3 | 125 | 232 | 2.87 | |
1989年 | 27 | 11 | 8 | 0 | 8 | 0 | 77 | 167(2/3) | 4.40 | |
1990年 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 21(2/3) | 4.98 | |
1991年 | 21 | 5 | 8 | 0 | 3 | 0 | 40 | 97(1/3) | 4.35 | |
通算 | 425 | 112 | 135 | 29 | 91 | 12 | 1225 | 2203 | 3.82 |
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ^ 永谷脩「『投手王国』を築いた男、一人静かに福岡を去る。」 Number640号、文芸春秋、2006年、116頁。
00 川中基嗣 | 0 木村拓也 | 2 小笠原道大 | 5 ルイス・ゴンザレス | 6 小坂誠 | 7 二岡智宏 | 8 谷佳知 | 9 清水隆行 | 10 阿部慎之助 | 11 久保裕也 | 12 鈴木尚広 | 13 林昌範 | 15 辻内崇伸 | 17 姜建銘 | 19 上原浩治 | 20 豊田清 | 21 高橋尚成 | 22 福田聡志 | 23 脇谷亮太 | 24 高橋由伸 | 25 李承燁 | 26 内海哲也 | 27 門倉健 | 28 金刃憲人 | 29 前田幸長 | 30 西村健太朗 | 31 小関竜也 | 32 円谷英俊 | 33 野間口貴彦 | 35 亀井義行 | 36 岩舘学 | 37 斉藤宜之 | 38 上野貴久 | 39 吉武真太郎 | 40 村田善則 | 41 木佐貫洋 | 42 ジェレミー・パウエル | 43 真田裕貴 | 44 大道典嘉 | 45 小田嶋正邦 | 46 野口茂樹 | 47 松本哲也 | 48 矢野謙次 | 49 デーモン・ホリンズ | 50 吉川元浩 | 51 古城茂幸 | 52 十川孝富 | 53 實松一成 | 54 三浦貴 | 56 加藤健 | 57 三木均 | 58 星孝典 | 59 深沢和帆 | 60 深田拓也 | 61 坂本勇人 | 62 越智大祐 | 63 会田有志 | 64 酒井順也 | 65 梅田浩 | 66 田中大二郎 | 67 加登脇卓真 | 68 栂野雅史 | 69 寺内崇幸 | 90 深町亮介 | 92 木村正太 | 93 東野峻 | 96 伊集院峰弘 | 100(育成選手) 佐藤弘祐 | 101(育成選手) 山本光将 | 102(育成選手) 山口鉄也 | 103(育成選手) 芦沢明 | 104(育成選手) 下山学 | 106(育成選手) 林羿豪 | 107(育成選手) 隠善智也 | 108(育成選手) 作田啓一 | 109(育成選手) 鈴木誠 | 110(育成選手) 大抜亮祐 | 129(育成選手) ウィルフィン・オビスポ
88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 98 玉木重雄 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 94 木樽正明 | 95 宮本英治 | 97 伊藤博 | 99 内藤重人 | 111 藤田浩雅 | 130 金杞泰 |
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