ウォーレン・クロマティ
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ウォーレン・リビングストン・クロマティ(Warren Livingston Cromartie, 1953年9月29日 - )はアメリカフロリダ州出身のプロ野球選手。左投げ左打ちの外野手。1984年から1990年まで読売ジャイアンツに在籍した。日本での主なポジションはセンター。愛称は「クロウ」「マティ」「クロマッちゃん」。
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[編集] 来歴・人物
1974年、マイアミ・デート短大からアメリカ・メジャーリーグのモントリオール・エクスポズに入団。4年目あたりからレギュラーに定着し、チームの中心選手として活躍を見せる。1983年のシーズンオフ時にFA権を行使して読売ジャイアンツへ移籍。入団1年目からいきなり35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。1989年には打率3割7分8厘で首位打者、4割4分9厘で最高出塁率を獲得。投手として20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。1990年限りで退団。
巨人ファンの間では、クロマティを『史上最強の助っ人』と評価する者も少なくない。2005年には、アメリカ合衆国・アリゾナ州とカリフォルニア州を舞台にスタートするセミプロ野球(独立リーグ)のゴールデンベースボールリーグに参加する日本人限定チーム「ジャパン・サムライ・ベアーズ」初代監督に就任したが、同年素行不良にて解雇された(その後チームは解散し、日本で京都ファイヤーバーズとして再結成)。
また、彼のスポーツ選手としての数字上の功績だけではない、最も大きな社会的功績としては、黒人に対するイメージを刷新したことが挙げられる。彼が登場する以前は、日本人の間でも黒人に対する人種差別感情が強く残っていた(背景には日本における黒人の数が少なく、情報・理解不足からくる恐怖感があった)。しかし、彼がテレビに登場して陽気な雰囲気を振る舞ううちに、黒人に対する文化的・社会的な人種差別感情は急激に薄らいでいった。その根底には、日本社会に溶け込もうとする彼の努力があった。
[編集] 日本での通算成績
年度 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 |
1984年 | 122 | 457 | 68 | 128 | 23 | 1 | 35 | 258 | 93 | 4 | 4 | 25 | 4 | 68 | .280 |
1985年 | 119 | 482 | 77 | 149 | 34 | 1 | 32 | 281 | 112 | 4 | 2 | 33 | 1 | 51 | .309 |
1986年 | 124 | 471 | 99 | 171 | 29 | 3 | 37 | 317 | 98 | 6 | 3 | 43 | 7 | 58 | .363 |
1987年 | 124 | 476 | 65 | 143 | 20 | 2 | 28 | 251 | 92 | 2 | 1 | 22 | 3 | 76 | .300 |
1988年 | 49 | 186 | 31 | 62 | 8 | 0 | 10 | 100 | 36 | 1 | 1 | 11 | 2 | 21 | .333 |
1989年 | 124 | 439 | 70 | 166 | 33 | 1 | 15 | 246 | 72 | 7 | 3 | 49 | 10 | 44 | .378 |
1990年 | 117 | 450 | 68 | 132 | 23 | 1 | 14 | 199 | 55 | 2 | 2 | 43 | 1 | 52 | .293 |
通算 | 779 | 2961 | 478 | 951 | 170 | 9 | 171 | 1652 | 558 | 26 | 16 | 226 | 28 | 370 | .321 |
(表中の太字は当該年度リーグ最多記録)
[編集] 大リーグでの通算成績
- 1107試合 打率.281 61本塁打 371打点
[編集] 日本でのタイトル
[編集] 所属球団
[編集] 背番号
- 背番号は日本球界・大リーグ全所属球団において49
[編集] 著書
- さらばサムライ野球 講談社 ISBN 4-06-204245-2 (1991/03)
- ロバート・ホワイティングと共著
[編集] エピソード
- 極端なクラウチングスタイルのバッティングフォームが大きな特徴であった。日本でのキャリアを重ねたキャリア後期には通常のフォームに変化している。その極端なクラウチングスタイルのバッティングフォームが当時のファミコンゲーム「燃えろ!!プロ野球」では更に強調されており、そのお尻を突き出しているフォームが子供たちの間で笑いのタネになった。
- ランディ・バースやイチローの影に隠れてしまってあまり有名ではないが、日本プロ野球史上一度も達成されていないシーズン打率4割に最も近づいたのは実はクロマティである。1989年、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制、規定打席数は試合数×3.1)に到達した時点でクロマティは打率4割を超えており、このまま残り試合を休めば史上初の4割打者が誕生していた。しかし、チームが優勝争いを繰り広げていたためそのようなことができるはずもなく、結果クロマティの活躍もあってチームは優勝できたが、クロマティの最終的な打率は.378まで下がり、4割打者誕生は叶わなかった。
- 1986年10月2日の神宮球場でのヤクルト戦で、高野光投手から頭部に死球を受けて慶応病院へ運ばれたが、病院で生卵かけご飯を2杯食べて臨んだ翌10月3日の同球場ヤクルト戦に代打で出場し、尾花高夫(現・読売ジャイアンツ投手総合コーチ)から満塁本塁打を放った。
- 常に風船ガムを噛み、ぷうっとふくらませて破裂させた(このことでひょうきんな印象を与えた)。
- しばしば観客席の巨人ファンに向かって、『バンザイ』をするようにと促すパフォーマンスを見せた。これは一例で、ファンとの交流をとても重視した。選手がファンと交流を重視するのは、現在では珍しくもないが、当時はクロマティが突出していた。
- 本塁打を打ちベース1周する際、もしくはクリーンヒットを打って出塁した際の塁上で、打たれたバッテリーに対して『ココが違う』とばかりに自分の頭部を指さす挑発的なパフォーマンスを見せた。これに対し、大洋の遠藤一彦がクロマティを三振に取った際、同じパフォーマンスを仕返し、しかも先にベンチに戻っていた若菜嘉晴も同じパフォーマンスを仕返した。それ以来このパフォーマンスをする姿がほとんど無くなった。
- 1984年から1988年まで巨人の監督であった王貞治を尊敬し、息子のミドルネームを「オー」と名付けている(同僚のビル・ガリクソンは息子に桑田真澄から取った「クワタ」というミドルネームをつけている)。その他にも王が監督を辞任した1988年オフには「王さんが辞めるなら僕も辞める」と言ったほど。
- 普通のセンターフライを超ファインプレイに変えてしまう狭い守備範囲と、普通のセンター前ヒットで1塁ランナーを生還させてしまう怠慢な守備でも有名。特に1987年の日本シリーズ第6戦では、2回ウラにフライを捕球した後の送球がまずく、けして俊足とはいえない清原和博を二塁からホームインさせ、8回ウラには秋山幸二のセンター前ヒットでは、ヒットエンドランすらかかっていなかった状況で一塁走者の辻発彦をホームインさせている。ただしこれは、ランナーが進塁することに対して中継に入った川相昌弘が警戒していなかったのも一因である。当時の西武の三塁コーチ伊原春樹は巨人を研究するうちに、川相が中継に入る際に走者を確認しないクセがあることに気付いていた。クロマティのクセと合わせて伊原は迷わず三塁を回るように指示を出したのである。
- 1990年6月2日の対広島戦で、金石昭人の敬遠球をはじき返しサヨナラヒットにしたことがある(新庄剛志も阪神時代に経験あり)。
- 陽気な性格であったことから、そのキャラクターを買われてバラエティ番組にも出演。骨折で長期休養していた1988年秋に「とんねるずのみなさんのおかげです』」では『クロマティ侍』として登場した。漢字で「黒魔庭」(もしくは「黒魔茶」)と当て字して名乗り、視聴者を楽しませたこともある。
- 1987年6月11日、熊本・藤崎台県営球場で行われた中日ドラゴンズ戦で、相手投手の宮下昌己からデッドボールを受け激怒。宮下に右ストレートを食らわせ大乱闘となった。デッドボールを受けたクロマティはマウンドに駆け寄りながら、宮下に帽子を取って謝罪するよう要求したが、宮下がそれに応じなかったため、暴力行為に及んだらしい。即ち、宮下がきちんと謝罪していれば、クロマティの暴力行為は回避できていたかもしれなかった。ただ、この頃は東尾修に殴りかかったリチャード・デービスなど乱闘の原因となる外国人が多くいたためクロマティが殴りかかったのはそれほど衝撃はなかった。
- 1988年、「Climb」(クライム)というバンドでドラムを担当していたことがあった。しかしこの年は、クロマティは死球による手の指の骨折で戦線離脱した年でもある。野球は出来なくても、ドラムを叩くには全く支障がなかったらしい。余談だが、クライムにはバックコーラスにカナダのベテランバンド「ラッシュ」のゲディー・リーが参加しており、昔から親交が深いそうである。
- 2005年、不良の集まる「東京都立クロマティ高等学校」を舞台とする映画『魁!!クロマティ高校』公開を知り、「パブリシティ権の侵害だ」と主張し、公開中止を求め提訴するが字幕でクロマティとは無関係であると表示するという条件で仮処分申請を取り下げた。しかし名前の使用を許諾していないという理由で今後正式な民事訴訟を起こして争うとしている。後に公開差し止め申請を取りやめたが、民事訴訟は取りやめない方針。これには引退後事業を起こしたが失敗し破産したため、金に困っているというクロマティの個人の状況が関係していると言う主張がある。現に名前を使われているバースやデストラーデはクロマティから訴えようと持ちかけられたが断っている。また「自分の名前が不良高校に使われるのが駄目だ!」と言っていたものの、自らは暴言や猥褻な言葉を発していたことが一因とされ、監督を解任されている。
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 藤田元司
- 河埜和正
- 淡口憲治
- 定岡正二
- 西本聖
- 篠塚和典
- 中畑清
- 松本匡史
- 山倉和博
- 角盈男
- 江川卓
- 鹿取義隆
- 岡崎郁
- 原辰徳
- 駒田徳広
- 槙原寛己
- 村田真一
- 吉村禎章
- 川相昌弘
- レジー・スミス
- 宮本和知
- 水野雄仁
- 香田勲男
- 有田修三
- 木田優夫
- 中尾孝義
- 緒方耕一
- 呂明賜
[編集] 外部リンク
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