若菜嘉晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日- )は、プロ野球選手(捕手)・コーチ。福岡県筑後市出身。現役時代は西鉄・太平洋・クラウン、阪神、大洋、日本ハムで活躍した。コーチとしては城島健司の育ての親として知られる。現在は野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴・人物
柳川商業高等学校(現・柳川高等学校)から1972年、ドラフト4位で西鉄に入団。1979年に田淵幸一・古沢憲司との大型トレードで高校の同級生でもある真弓明信・竹之内雅史・竹田和史と共に阪神に移籍し、レギュラー捕手として活躍するが、1982年に女優とのスキャンダルが発覚して退団した。
その後ニューヨーク・メッツ傘下3Aタイドウォーター(現3Aノーフォーク)のコーチ兼選手を経て、1983年大洋で日本球界に復帰。1989年、日本ハムへ移籍。日本ハム時代は田村藤夫の控えとして活躍し1991年引退。なお強肩の捕手であったが、1979年には捕逸の年間最多日本記録を達成した(17個)。その年、ダイヤモンドグラブも受賞している。
1997年からダイエーバッテリーコーチを務めた。2001年に王貞治監督のシーズン本塁打記録55本を抜く勢いで本塁打を連発していたタフィ・ローズに対して敬遠の指示を出し、不用意な発言をしたことがきっかけで退団した。現在はTVQ九州放送・J SPORTSの解説者であるが、福岡放送の『めんたいワイド』や『朝ドキッ!九州』にも出演するなど、北部九州地方を拠点としたローカルタレントとしての顔もある。2003年よりスポーツニッポン野球評論家(福岡)も務める。また、プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズにも内野手として参加している。日本ハムOBと言う事もあり、2007年より北海道のメディアにも解説者として登場している。
コーチ時代指導した選手の中で、若菜が成長に尽力したとして城島健司の名前が挙がることから、コーチとしての評価は高い(当該エピソード参照)。
[編集] エピソード
- 柳川商業、太平洋・クラウン、阪神と常にチームメートだった真弓明信とは「ナッパ」「ジョー」と呼び合うほど親友として知られる。
- 太平洋時代当時の中村長芳オーナーが所有していた米国1Aローダイに野球留学したのと、阪神退団後に米国3Aタイドウォーターでプレーするなど米国滞在経験があるため、英語は比較的堪能である。大洋時代は、その語学力を活かして、読売ジャイアンツのレジー・スミスやウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては顔面スレスレのビーンボールを多用したため、大洋戦となるとスミスがやたら早打ちになってしまった。
- 入団当時キャッチングの技術が上がらない若菜は捕球時のミット音を出す為に綿を抜き薄くした。当然掌は腫れっ放しであった。それを見た東尾修は、そっと手袋を置いて行ってくれたという。
- 余談だが、若菜は日本球界復帰の前にメジャー昇格の話があった。もしそのままメッツに昇格していれば、日本人初の野手メジャーリーガーとなっていたところだ。
- 1980年代後半はよくクロマティ(巨人)とのかけひきも有名で、英語が堪能な若菜とよく言い合っていた。遠藤一彦(大洋)がクロマティを三振にとってチェンジになる際に遠藤、若菜共、頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをしクロマティの怒りを誘っていた。よくこのプレーは珍プレーで再現されていた。ただし本当の「犬猿の仲」というわけではないようで、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。
- 1987年8月4日のジャイアンツ戦では、返球されてきたボールを脇にはさんだままクロスプレーとなり、あたかもちゃんとタッチしたような芝居で見事アウトを取った。この「若菜の空タッチ」は珍プレー・好プレーでも何度も題材となった「くせ者」若菜を象徴するプレーである。
- 評論家、解説者としては多少、毒舌な部分もある。
- 王監督の意思に反して(と一般には言われている)、タフィ・ローズの本塁打新記録達成阻止のため、敬遠策を指示したコーチ(バッテリーコーチ)としても知られる。そのことが発覚し、若菜は退団を余儀なくされた。
- 自身は在籍した球団の中で一番好きなのは阪神だと過去にラジオ番組で公言していた。
- 大洋時代の1988年のオフ、市川和正との併用から首脳陣批判を展開し、「俺は加藤(博一)さんのように世渡り上手じゃない」と舌禍。結果として1989年の開幕直前に日本ハムの新監督に就任した近藤貞雄が救いの手を差し伸べ、トレードされることになった。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | 太平洋 | 6 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
1975年 | 太平洋 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
1976年 | 太平洋 | 39 | 71 | 6 | 17 | 1 | 0 | 1 | 5 | 1 | 1 | 0 | 7 | 9 | .239 |
1977年 | クラウン | 103 | 318 | 29 | 93 | 10 | 1 | 4 | 29 | 1 | 6 | 1 | 15 | 29 | .292 |
1978年 | クラウン | 108 | 267 | 25 | 57 | 5 | 0 | 4 | 21 | 1 | 4 | 6 | 11 | 46 | .213 |
1979年 | 阪神 | 112 | 386 | 38 | 117 | 10 | 1 | 9 | 42 | 8 | 1 | 3 | 32 | 37 | .303(10) |
1980年 | 阪神 | 126 | 441 | 34 | 113 | 12 | 2 | 4 | 32 | 2 | 12 | 1 | 27 | 42 | .256(27) |
1981年 | 阪神 | 115 | 360 | 24 | 101 | 13 | 2 | 3 | 32 | 4 | 15 | 1 | 27 | 23 | .281(19) |
1982年 | 阪神 | 73 | 211 | 14 | 45 | 5 | 1 | 3 | 21 | 3 | 3 | 2 | 13 | 24 | .213 |
1983年 | 大洋 | 28 | 60 | 5 | 21 | 8 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 9 | 6 | .350 |
1984年 | 大洋 | 99 | 292 | 26 | 79 | 6 | 0 | 8 | 25 | 2 | 2 | 2 | 10 | 45 | .271 |
1985年 | 大洋 | 130 | 403 | 28 | 108 | 9 | 2 | 7 | 44 | 1 | 11 | 3 | 17 | 34 | .268(30) |
1986年 | 大洋 | 122 | 403 | 28 | 108 | 14 | 1 | 4 | 29 | 3 | 8 | 1 | 23 | 41 | .288(11) |
1987年 | 大洋 | 81 | 229 | 23 | 69 | 12 | 1 | 4 | 27 | 1 | 5 | 1 | 20 | 23 | .301 |
1988年 | 大洋 | 74 | 156 | 13 | 37 | 5 | 1 | 1 | 8 | 0 | 1 | 0 | 16 | 12 | .237 |
1989年 | 日本ハム | 55 | 84 | 6 | 21 | 2 | 3 | 1 | 9 | 0 | 2 | 0 | 4 | 7 | .250 |
1990年 | 日本ハム | 63 | 138 | 6 | 33 | 4 | 1 | 1 | 11 | 0 | 0 | 0 | 9 | 16 | .239 |
1991年 | 日本ハム | 41 | 81 | 0 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 1 | 5 | .235 |
通算成績 | --- | 1387 | 3878 | 308 | 1037 | 117 | 16 | 54 | 340 | 27 | 75 | 21 | 241 | 399 | .267 |
[編集] 背番号
[編集] タイトル・表彰
[編集] その他の記録
- 年間最多後逸(1979年=17個 1960年の野村克也とタイ)
- 1試合5三振(1979年5月29日)
[編集] 現在の出演番組
- 朝ドキッ!九州(福岡放送)
- めんたいワイド(福岡放送)
- ナイトシャッフル(福岡放送、イレギュラー出演)
- TVQスーパースタジアム(TVQ九州放送)
- もう夜なのか(KBCラジオ、ナイターオフシーズン)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS、ナイターシーズン)
- STVラジオ ファイターズスタジアム(STVラジオ)