中尾孝義
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中尾 孝義(なかお たかよし、1956年2月16日 - )は、兵庫県加西市出身のプロ野球選手。中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、西武ライオンズに所属した。ポジションは捕手、外野手。
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[編集] 来歴・人物
専修大学卒業後、社会人野球プリンスホテルから1980年ドラフト1位で中日に入団。プリンスホテル出身で西武以外の球団に入団するのは当時としては異例だった。当時の中日にはベテランの名手木俣達彦がおり正捕手争いが注目されたが、攻守に一日の長を見せた木俣が正捕手を死守。しかし、中尾は走攻守に高い能力を見せ1982年にはついに木俣に代わって正捕手となったばかりか、この年の中日の優勝に大きく貢献MVPに選ばれた。
強肩に加えて俊足で、攻守にスピード豊かな中尾のプレーは、木俣や野村克也(南海)らに長らく代表された「鈍足の強打者」という捕手のイメージを変えたと言われた。一方どんな試合展開でも常に手を抜かず全力でプレーした中尾は、ホームでの接触プレーも多く、故障も多かった。同時代にプレーした「無事これ名馬」を地で行く山倉和博(巨人)とは対照的であった。
1982年以後は故障が多くシーズンをフルに働けず、一休さんと揶揄されるほどで1988年、当時の星野仙一監督の方針で外野手にコンバートされた。しかし中尾は捕手にこだわり続け、この年オフ捕手の強化を目指す巨人が獲得を希望、西本聖との交換トレードで巨人に移籍した。1989年捕手に復帰した中尾は新天地で正捕手の座を確保、強気のリードで斎藤雅樹をエースとして一本立ちさせるなど巨人の日本一に貢献した。この1989年には20勝したトレード相手の西本とともにカムバック賞を受賞した。
しかしその後は再び故障がちで出番は減り続け、1992年途中、大久保博元との交換トレードで西武に移籍し、再び外野も守るようになったが目立った働きはなく、1993年オフ引退した。引退後は西武、台湾・三商虎、横浜、オリックスでバッテリーコーチやヘッドコーチを務めた。現在は阪神の2軍バッテリーコーチである。
[編集] 略歴
- 身長・体重:173cm、75kg
- 投打:右/右
- 血液型:AB型
- 球歴・入団経緯:滝川高等学校 - 専修大学 - プリンスホテル - 中日ドラゴンズ(1981年~1988年) - 読売ジャイアンツ(1989年~1992年途中) - 西武ライオンズ(1992年途中~1993年)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1980年・ドラフト1位
[編集] 打撃成績
- 通算試合 980試合
- 通算打率 .263
- 通算安打 699本
- 通算本塁打 109本
- 通算打点 335打点
- 通算盗塁 45盗塁
- 通算犠打 53個
- 通算犠飛 27本
- 通算四球 207個
- 通算死球 12個
- 通算三振 463三振
- 通算併殺打 64個
[編集] タイトル・表彰
- MVP 1回(1982年)
- ベストナイン 2回(1982年、1989年)
- ゴールデングラブ賞 2回(1982年、1989年)
- オールスターゲーム選出 3回(1982年、1984年、1989年)
- 日本シリーズ優秀選手 1回(1982年)
- カムバック賞(1989年)
[編集] エピソード
- 1984年の阪神甲子園球場での対阪神戦で本塁クロスプレーを巡りランナーの北村照文と乱闘になり双方退場となる。乱闘の際北村に股間を2回膝蹴りされている。
- 球界有数の巨根として一部には知られ、ある試合中にサイン交換の際に中尾が自分の股間を指差すサインを投手に送り、理解できなかった投手が試合後、「あれは何だ」と問い質した所中尾は「大きいのだけはダメですよ、という事です」と答えた事があった。上記北村の股間蹴りも、阪神側にも中尾の巨根は知れ渡っていたのかも、とも思わせるエピソードである。
- 現在は捕手の守備機会時のヘルメット着用は義務付けられているが、1980年代前半あたりのまだ義務化される以前から(中尾の場合は入団時から)ヘルメットを着用、それも打撃用ヘルメットと異なるツバの無いヘルメットであった為、前述の様に不調の時期は、そのヘルメット姿が坊主に見えたことから「一休さん」と言われた所以である。
[編集] 関連項目
中日ドラゴンズ・歴代MVP 1954年・杉下茂/1982年・中尾孝義/1988年・郭源治/1999年・野口茂樹/2004年・川上憲伸/2006年・福留孝介 |