カイザースラウテルン
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紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | ラインラント=プファルツ州 |
郡: | 郡独立市 |
標高: | 海抜 245 m |
面積: | 139.72 km² |
人口: | 98,470人 (2005年10月31日現在) |
人口密度: | 705 人/km² |
郵便番号: | 67601-67663 (旧 6750) |
市外局番: | 0631 / 06301 |
ナンバープレート: | KL |
自治体コード: | 07 3 12 000 |
市庁舎の住所: | Willy-Brandt-Platz 1 67653 Kaiserslautern |
ウェブサイト: | www.kaiserslautern.de |
E-Mail: | stadt@kaiserslautern.de |
行政 | |
上級市長: | ベルンハルト・J・ドイビヒ (Bernhard J. Deubig) (CDU) |
カイザースラウテルン(独語・英語: Kaiserslautern)はドイツ連邦共和国の都市である。ラインラント=プファルツ州に属する。約9万9千人(2005年)の人口を有する。都市名のカイザー(皇帝の意)はバルバロッサという通称で知られている神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にちなんだもの。日本の東京都文京区と姉妹関係にある。
目次 |
[編集] 地勢・産業
機械産業が盛ん。一時はミシンの生産などで知られた。ライン川流域からザール地方へと陸路で移動する際の、ほぼ中間地点に位置する。近隣の都市としては、約50キロ東にマンハイム、60キロ南西にザールブリュッケンが位置する。フランス国境まで、一番近いところで約40キロ程度。
[編集] 歴史
今のカイザースラウテルンの場所には、紀元前8000年頃のの居住地跡がある。2500年前のケルトの墓石が、カイザースラウテルンから北18マイルの所に位置するミザウ(Miesau)の辺りで見つかった。その遺物は、シュパイアーの博物館に展示されている。
ラウター川が近くを流れ交通の要所に位置するため、9世紀頃には市場が形成されていた。都市の名称に「皇帝(カイザー、Kaiser)」を冠する由来は、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(在位1155年-1190年)が拠点を置いたことにある。フリードリヒの最初の城(1152-1160年に建てられた)の跡は、市庁舎の前に残されている。西部防衛のために建てられたナンシュタイン城(Nanstein)は、ラントシュトゥールに建てられた。
カイザースラウテルンの最も古い教会であるシュティフト教会(Stiftkirche)は、1250年から1350年にかけて建てられた。この頃、順調に街の人口は増加し、皇帝ルドルフ1世は1276年に帝国都市特権を与えた。教会の中庭には旧市街の一部が残る。 1519年に、フランツ・フォン・ジッキンゲン(Franz von Sickingen)の支配下に入った。彼がプロテスタントを受容したことで、カイザースラウテルンは宗教改革の拠点となる。ジッキンゲンと周辺の貴族は、カトリック側のトリーア大司教と争うが敗れ、ナンシュタイン城はカトリック勢力により包囲した。ジッキンゲンは降伏後に死亡し、再びカトリックに戻った。
Johann Casimir of Simmernが三十年戦争期にカイザースラウテルンに来た。スペイン・ハプスブルク家の軍勢に支配されたのち、新教国スウェーデンがこの地を征服したが、1635年にオーストリア・ハプスブルク家の皇帝の命による冷酷なクロアチア(当時はハプスブルク家の支配下)軍隊の侵攻を受け、3,200人の住民の内の3,000人を殺害され、3日間にわたり略奪などの無秩序な状態が続いた。10km西にあるラントシュトゥールは降伏したため、このような事態にならなかった。カイザースラウテルンが繁栄を取り戻して行くには1世紀以上の時間を要した。
三十年戦争を終わらせたヴェストファーレン条約(1648年)後、プファルツ選帝侯は全ての城の解体を命令した。ルイ14世のもとで領土伸張を図るフランスは繰り返し侵入し、アウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)の間はカイザースラウテルンを占領した。Palatinate 全地域では18世紀にフランスとドイツによる戦場になった。1713年、フランスはBarbarossa の城と壁塔を破壊する。1793年から1815年のナポレオン1世のワーテルローでの敗戦まで、この地域はフランス行政下に置かれる。
1815年のフランス第一帝政の崩壊後、1918年までカイザースラウテルンとプファルツはバイエルン王国の地方になる。 第一次世界大戦後、再びフランス軍により数年間占拠される。
第二次世界大戦で連合軍により町の60%が破壊される。鉄道と主要道路が主なターゲットで、最も被害が出た攻撃は1944年1月7日、8月11日、9月28日に行われた。20,000の住戸の内の、11,000は破壊された。Kleber Kaserneの隣の墓地の壁にはこのときの爆撃の弾痕が残っている。
1945年3月20日に、パットン指揮下のアメリカ第3軍第80歩兵師団第319歩兵連隊は無抵抗でカイザースラウテルンを占領した。戦後、1948年に通貨改革が行われる。経済は停滞していたが、1952年にアメリカ軍の駐屯地が出来ることにより経済成長を始める。
カイザースラウテルンの紋章は赤と白の盾にフリードリヒ1世の好物だった鯉が口を開けて描かれる。
[編集] スポーツ
1.FCカイザースラウテルンが、カイザースラウテルンを本拠地とするサッカークラブチームである。スタジアムのフリッツ・ヴァルター・シュタディオンでは、2006 FIFAワールドカップにおける1次リーグ・グループFの日本対オーストラリア戦が行われた。